Stop the time forever






「社は……大事な人っている?」
「は?」
 社は面食らった顔で思わず聞き返した。
 予想と随分ずれたヒカルの言葉に首を傾げるが、ヒカルの真剣な目を前に適当な答えは出せないと顎に手をやる。
「……そりゃ、おるで。人並みには。親も兄弟も大事や」
「その大事な人を失くしたことある?」
 社は次の言葉を失って絶句する。
 肯定も、否定もできなかった。
 親しい家族を亡くしたことならある。まだ社が小さかった時、優しかった祖母を失ってわんわん泣いた。
 しかしヒカルの質問は、それとは少し違ったニュアンスが含まれているようだった。なんと答えたものか迷っていると、ヒカルはじっと社を見つめていた目を逸らし、それでも真っ直ぐな眼差しでどこか一点を睨んだ。
「俺……大事なヤツがいたんだ。そいつのおかげで碁、覚えてさ。毎日一緒に碁を打って、楽しくて、楽しくて。そいつがいなくなるなんて考えたこともなかった。ずっとこうして一緒に碁が打てるんだって……」
 社がごくりと唾を飲み込む。
 ヒカルは真っ直ぐな目のまま続けた。
「でも、アイツは消えてしまった」
「……」
「俺、混乱したよ。なんでいきなりいなくなるのか訳わかんなかった。でも、俺の打つ碁の中に確かにアイツがいたって証があって、それで俺はようやく……アイツに背中押してもらって前向くことができたんだ」
 ヒカルはほんのり微笑を浮かべる。
「そんな頃、塔矢とよく打つようになって……可笑しいんだ、アイツ俺が好きだって言うんだぜ。ビビるよな。塔矢だぜ、塔矢アキラ。冗談なんて言いそうもない口で、すっごい真剣な顔して、俺のこと好きだって」
「進藤……」
「今思えば、俺はアイツのそんな気持ちを利用していたのかもしれない」
 ヒカルは膝の上に丸めた拳をぐっと握りこみ、眉間に厳しい縦皺を刻んだ。
「俺……塔矢を身代わりにしようとしてた」
 握り締めた拳の力が有り余り、僅かに震えているのを社は見た。ヒカルが泣くのではないかと身構えたが、歪んだヒカルの目に涙は浮かんで来ていなかった。
 カチリと、ポットのお湯が保温に切り替わった音がした。その微かな音にはっと気を取られながらも、社は独自の考えで頭を回転させている。
 正直、社にはヒカルが言っていることの半分も飲み込めていなかった。社はヒカルと共に在った囲碁幽霊の存在を知らない。ヒカルがどれだけ彼と精神を共有していたかなんて想像もできない。
 それでも社は社なりに、どうやら二人の人間の間で板ばさみになっているヒカルに救いの道を示してやりたかった。糸口でもいい。何かきっかけを探せないだろうかと心は巡る。
「なあ、進藤……、お前はなんで塔矢をそいつの身代わりにしてるって思ったんや?」
「……」
「お前は何かに気づいたんやろ。そんで急に碁を変えようと思ったんやろ。」
「……」
 ヒカルは一度目を閉じ、少し顎を持ち上げた。何事か考えている様子のヒカルの頭の中で、恐らく季節が巡っているのだろう。
 失ってしまった人のことか、ヒカルが身代わりにしていると告げた人のことか。
 ヒカルの目が視界を取り戻す。
「いつも、俺が……アイツと打ってたみたいに。俺の、頭の中で……塔矢が俺と、碁を打ってる」
 夢でも見ているようなとりとめのないヒカルの言葉に、社は眉をぴくつかせた。
「塔矢がこう打ってきたら、俺はこう打とうって考える……、でも、それは本当の塔矢じゃなくて、俺が勝手に頭の中に作り出した身代わりの塔矢なんだよ。アイツがいなくなった隙間に塔矢を押し込めようとしたんだ、俺……だから、俺は、そんなの、嫌で」
 再び頭を落としたヒカルのつむじを見下ろして、社はその頭上にたくさんの「?」マークを飛ばした。
 頭の中?
 ヒカルの作り出した塔矢?
 いなくなった隙間??
 ヒカルの言うことは抽象的すぎて、では実際何が問題なのかということは社には伝わらなかった。
 社に分かるのは、ヒカルが、失ってしまった大事な人と塔矢アキラを一緒くたにしたくないということだけ。そしてそのことが、何故そこまでヒカルを追い詰めるのかは、やはり分からないままだった。
 同時に社は何かの違和感を感じていた。ぽつぽつと言葉を紡ぐヒカルに、微かな違和感がある。その出所を探そうと、社も必死に脳を働かせる。
「あのな……、お前、身代わりにしたないって言ってるけど、……うーんと、そやな。その「アイツ」っちゅうヤツのことをお前はどう思ってたんや」
「どうって……、」
 ヒカルはきょとんと社を見て、それからまた何事か考え出すように上向きがちの仕草を見せる。
 今まで特に考えたことがなかったのだろうか、社が思ったよりもその時間は長かった。
 二度瞬きしたヒカルの目は、静かに揺れていた。穏やかにどこか懐かしむような、暖かな眼差し。そのくせ寂しげな光がふわふわと漂う。
 今はいない、在りし日の彼を思い出しているのだろう。寂しげで、でも安らかだった。
「……大事な人。兄弟とか……親とも違うんだけど……、でも友達ってのともちょっと違う。俺は、生涯囲碁をやるって決めたから……、そのきっかけをくれたのはアイツだから、俺の……分身、かなあ……」
 俺がアイツの分身かも。ヒカルは独り言のように呟いた。
 社は思い浮かべていたヒカルの大事な人のイメージが掴めずに天井を睨む。思った以上にスケールの大きい存在のようだ。そんな人間が、ヒカルの周りにいたのだろうか???
 社はヒカルの言葉を反芻する。塔矢とよく打つようになった頃には、もうその人はいなかったということだ。そうなると随分前にその人は亡くなってしまったのかもしれない。ヒカルは決まった師匠はいないと聞いていたが、案外その人が師匠の役割を果たしていたのだろうか……そんなことをぼんやり思った。
 社の反応を待っているらしいヒカルと目が合って、社は慌てて用意していた次の言葉を思い出す。
「えーと、なら、塔矢のことはどう思っとんのや」
「塔矢……」
 ヒカルはまた社から目を逸らし、何かを思い出したのか目を少し細めた。その頬が軽く緩む。
 おやっと社は目を見張る。
「塔矢は、俺のライバル。ずっと一緒に打ちたい人。大切なライバル」
 ヒカルは自分の言葉にうんと頷いた。
 納得のいく答えだったのだろう。ところが社はとても納得したとは言えない顔だった。
 社はようやく違和感の正体に気づいたのだ。ヒカルに感じていた違和感の、その理由が分かったのだが、それがうまく頭の中でまとまらない。
(おいコラ、働け俺の頭!)
 どう言えばヒカルに伝わるだろうか。自分の違和感をうまく伝えることができたら、ヒカルはきっとこんなに悩まなくて済むのではないかと思うのだ。
 社はこれまで手に入れてきたキーワードを頭の中に巡らせる。
 ヒカルとアキラの棋譜。変化が見られた一月半ば以降と、それ以前の棋譜。
 和谷と倉田の言葉。それまでに抱いていた社自身の二人のイメージ。そして今、目にしているヒカルとアキラの実像。
 社は言葉を選んだ。恐らく事態はそれほど難しいものではなかったのに、ヒカルが自分でややこしくしたのだ。
 運悪くヒカルの大事な人とやらがあまりに大きな存在だったので、ヒカルはごくごく単純な答えを過去の思い出に混ぜっ返している。社はそう結論づけた。
 果たしてそれをどう気づかせるべきか。社は先ほど部屋に尋ねてきた、切羽詰ったアキラの顔を思い出す。彼は今、社以上に状況が分からず狼狽えているに違いないのだ。
 何かうまい言葉はないものか。乗りかかった船をどの方向に漕ぎ出すべきか?
 迷ったあげく、社は単刀直入という男らしさを採用した。要するに、何か含みを持たせてヒカルをうまく誘導させるような技量は社には持ち合わせていなかったのである。
「……あのな、進藤。」
 ヒカルの顔が社に向いたのを確認し、社はひとつ深呼吸してから告げた。
「お前、それ勘違いや」
「……、……は?」
「せやから、勘違いや。身代わりやない」
「カン違い……?? 身代わり、じゃないって……、」
 訝しげに眉を寄せるヒカルに、社はまどろっこしく再び髪を掻き毟る。
「せやから! 身代わりやない。身代わりのはずがないんや」
「……???」
 ヒカルにありありと浮かんだ困惑の表情に、社はもう同情の目を向けたりしなかった。
 ――なんで分からんのや。このドアホ!
 そう叫びたい気持ちをぐっと堪えて、気持ちを切り替えるためにヒカルに背を向けた。小さなカウンターで先ほどから放置されていたほうじ茶の湯のみに、とっくに沸いたポットのお湯を注ぐ。ゆっくり蒸らすなんてことはせず、がしゃがしゃとティーパックを湯の中で振った。なんとなく色がついたくらいで、さっさとパックを取り出し、ひとつの湯飲みを自分の左手に、もうひとつの湯飲みをヒカルの元へ持っていく。
 戸惑うヒカルに湯のみを無理矢理渡しながら社はヒカルの隣に腰を下ろし、一口薄いほうじ茶を含んだ。熱さで味なんか分からない。
 それでも喉から胃を通り抜ける熱に身体が暖められ、社は会話を続ける決心を固めた。






仕事人社、立ち上がる。
いい仕事してくれますように。
ところで社に兄弟がいることにしてしまったんですが、
もし公式で一人っ子設定があったらどうしよう。
ちなみにこの間も若はヒカルを探し回っています。