SELVES






 芦原が帰宅して一時間ほど経過した頃、ヒカルからメールが届いた。
 棋院での取材を終えたから、今から行くと書いてあったメールの字面からはヒカルの表情など読み取れない。
 逢うのが待ち遠しく、嬉しい気持ちが大きい反面、どこか怖れている自分もいる。
 ヒカルはどんな顔をしているのか。何かに思い悩んだ暗い影が額を覆っていないか。
 アキラはそれでもヒカルを迎えるべく、いつも通りに茶や菓子の用意をする。すでに帰国後の荷物整理は終わっていたため、家の中はすっきりしていた。
 ヒカルにみやげとして買ってきた中国茶と、楊海から受け取った棋譜をテーブルに置く。それから黄色いシャツも。
 ひとまず関係機関へ電話での挨拶と経過報告を終えていたアキラは、後はぼんやり時間が過ぎるのを待つのみだった。そうしていろいろなことを考える。
 あの元旦の日まで、ヒカルはアキラがこれまで知っていた通りの天真爛漫な恋人だった。
 緒方との対局後の僅かな変化に、もっと気をつけていればよかったのだろうか?
 ただ負けただけの表情とは何かが違っていた。そんなヒカルを探るように見ていたせいか、ヒカルもまたアキラの思惑を読み取ろうとするかのような視線を時折向けていたのを思い出す。

『五月を境にアイツは変わる』

 緒方の声が脳裏に蘇り歯噛みする。
 変えたくない。ヒカルはヒカルであり、何者にも変わる必要がない。
 ヒカルの知るアキラは、はにかんだ笑顔の愛らしい、明るく優しい青年だ。アキラの想いに一生懸命に応えてくれる、その純粋さは時に眩しすぎるほど。
 クリスマスイブの夜、アキラを追って海を越えてきたヒカルを思い出すと泣きたくなる。いつの間にここまで、と胸が切なく締め付けられる。僅か一年ほど前は、アキラが想いをぶつけるばかりで、そしてヒカルは戸惑うばかりだったというのに。
 ヒカルと想いを通じ合わせてから今まで、どの一瞬も大切な時間だった。日に日に更新されていく幸せの大きさに、怖れを抱かなかった訳ではない。
 もしもこの時間が失われるようなことがあれば、自分はおかしくなってしまうのではないだろうか? ――そんな不安を払拭できるほどの確かな絆は、まだ自分たちにはなかった。
 でも、時間が経てば。息をするのと同じくらい、当たり前のように傍にいられる時が来たら。
 きっとそんな不安はなくなっているはずだ……。
 アキラは正座したまま頭を垂れ、いつしか組んだ両手を膝の上に置いていたその姿は、まるで祈りを捧げているように見えた。
 変わらなくいい。
 今のままでいい。
 今のままのヒカルを愛している。変わらないで欲しい。そのままでいて欲しい。
(……ボクは何をこんなに恐れているんだろう)
 何に変わるか分からない恐怖が自分を脅かしているのだろうか?
(いや……違う)
 ――知っているからだ。
 アキラは知っていた。
 二年前、初めての北斗杯を前にこの家で合宿を行った時のヒカルの目を。
 淡い色が揺れる頼りない目の光を。水の底に心を置いてきたような、波紋が広がる湖のようなあの何も映さない悲しい目を。
 冷たい身体を抱き締めて、一人で行くなと無言で叫んだ辛い夜。
 そう、ヒカルは一人で何処かへ行こうとしていた。
(変わることが怖いんじゃない。進藤を失うのが怖いんだ)
 ヒカルが変わってしまったら、また一人で行ってしまおうとするかもしれない。アキラの姿を映さない水面揺れる瞳を曇らせ、誰の手も届かない場所へ。
 あの夜、何故ヒカルはあんな目をしていたのか。アキラはこれまで尋ねたことはないし、これからも尋ねるつもりはなかった。
 一人で何かを抱えていたことは分かっていた。でも今はアキラがいる。
(……ボクがいる)
 ヒカルはもう一人にならなくていい。
 あんな目をさせたくない。
 自分がヒカルの傍にいるのに、ヒカルを何かに変えてたまるか――



 ピンポーン……



 アキラは弾かれたように顔を上げた。
 走らせた時計の時刻は午後五時過ぎ。丁度良い頃だろう。
 アキラは軽く自分の頬を叩き、渋く歪んでいた表情を解そうと努めた。
 足早に玄関へ向かい、ガラス戸に映る見慣れたシルエットに少し目を細めながら引き戸を開く。
 扉の向こうに現れたヒカルは、いつも通りのタウンジャケットにリュックサックを右肩のみにかけて、白い息を棚引かせながら迎え出たアキラの姿を認めて微笑んだ。
 そんなヒカルを一目見て、アキラは顔を強張らせた。
「よう」
「……進藤」
「なんだよ、俺の顔なんかついてる?」
「どうしたんだ……」
 会話が噛み合っていないことなど気にせず、アキラはほぼ無意識にヒカルの頬に手を伸ばしていた。
 僅かに窪んだように見える瞳は、薄ら黒ずんで見える目の下のクマのようなくすみのせいだろう。それだけではない、やけに顔の輪郭がすっきりしているのは、薄く削げたように肉が落ちた頬が原因のようだ。
 痩せたというよりは窶れたという表現がしっくりくる。アキラは茫然と両手のひらでヒカルの頬を包み、その冷たい頬を暖めるように力を込める。
 ヒカルが軽く目を細めて笑った。
「寒いよ、塔矢。中入れて」
「あ……ああ」
 ヒカルを玄関の中に招きいれ、アキラは動揺を抑えきれずにそのまま冷えた身体を抱き締める。すぐにヒカルもアキラの背に腕を伸ばしてきた。
「無事でよかった……おかえり、塔矢」
「……、ただいま……」
「遅くなってゴメン。ここんとこ取材が多くてさ。ちょっと長引いちゃった。仕事がなかったら空港まで迎えに行きたかったんだけど……」
 こうして声だけを聞いていればいつも通りのヒカルに思えるのに。
 たった十七日間ですっかり面窶れしてしまったヒカルに、アキラは自分の中の嫌な予感が的中していたことを思い知らされた。
 ヒカルの身体を抱く腕の力を緩め、そっと顔を覗き込む。気のせいではない、口元に笑みを浮かべているのに酷く疲れて見えるこの顔。アキラは思わず、再び「どうしたんだ」と尋ねてしまっていた。
「なんだよ、俺そんな変な顔してる?」
「変とかそういうのじゃなくて……どうしてこんなに窶れてるんだ。ボクがいなくなってから何かあったのか?」
「……ちょっと最近寝不足なんだ。そんなに酷い?」
 ヒカルは肩を竦めながら靴を脱ぐ。アキラを先導するように廊下を歩き出すヒカルの後を、アキラが慌てて追う格好になった。
「ちょっとって……、周りは何も言わないのか? キミ、手合いには出てるだろう?」
「別に、何も……あ、でも和谷にはちょっと顔色悪いって言われたかな。大したことないよ、元気だ」
 ヒカルはわざとおどけたような声を出している。
 ちょっとどころではない。何年も離れていた訳ではないのに、ヒカルの変わり方は半端なものではなかった。
 アキラは尚も食い下がる。
「寝不足って、どのくらい寝てないんだ。ちゃんと食べてるのか? 何か悪い病気じゃ――」
「俺のことはもういいよ。それより、先生……大丈夫か?」
 勝手知ったるとばかりに客間へ入ったヒカルは、畳にリュックを下ろしてジャケットを脱ぐ。アキラがハンガーを渡そうとするが、ヒカルはいつものように部屋の端にジャケットを丸めて置くだけで首を横に振った。
 仕方なくヒカルの隣に腰を下ろしたアキラは、改めてヒカルの顔をまじまじと見つめる。ヒカルがもうよせよ、と照れ臭そうに笑った。そんな表情は普段と変わらないのに、酷いクマのせいか、晴れやかには見えなかった。
「なあ、塔矢。先生、大丈夫かって」
 ヒカルを見つめてばかりのアキラに焦れたのか、怒ったようにヒカルはアキラをそう促した。アキラははっとして、すぐに頷く。
「ああ、もう心配ない。一週間ほどしたら両親も帰国する予定だよ」
「そっかあ……よかったあ。じゃあ、しばらくこの家にいるんだ?」
「いや、まずは入院して経過を見てからだけど。それでも、二月中に退院できると思う」
 ヒカルの頬がほっと緩む。心底安心したようなその様子に、アキラは何故だか胸を痛めた。
 出発前に父の身を案じてくれたヒカルを思い出して切なくなった。――あの時は、こんなふうに窶れてなんかいなかった。
 ヒカルはずい、と一歩分アキラに近寄って、正座するアキラの膝にそっと手を置いた。
「大変だったな。お疲れ様」
 ゆるりと目を細めて囁くヒカルの表情は、いつもなら見蕩れるほど優しいものだっただろう。
 だが、今の削げた頬ではそんな表情もやけに痛々しく見えて、アキラは切なげに眉を寄せた。
 膝に置かれたヒカルの手を握り締め、アキラはそっと顔を寄せる。
 静かに目を閉じたヒカルの口唇に、触れるだけのキスを落とした。ヒカルの口唇は、いつもより渇いていた。






ヒカルと再会。
ヒカ窶れました……