口唇が離れた後、そっとアキラが瞼を開くと、すでに目を開けていたヒカルがじっとアキラを見つめていた。この至近距離でこんなに強い視線を受けていると思わなかったアキラは、少し驚いたように軽く首を傾げた。 「……塔矢、お願いがあるんだけど」 ヒカルの囁くような声に耳をそばだてる。 唐突な言葉に、驚きながらもアキラは答えた。 「……何?」 「……先生、もう大丈夫なんだよな? 帰国しても、絶対安静で面会謝絶、とかじゃないんだよな?」 アキラの膝に置かれたままのヒカルの手に、力がこもったのが伝わった。 アキラはまるで縋りつくようなヒカルの反応に気おされながらも、ヒカルから目を離さずに首を縦に振る。 「大丈夫だ。退院したら、父はすぐ復帰するつもりだし」 「そうか……。……じゃあ、じゃあさ。本当に先生の身体が本調子になったら……」 ヒカルは一旦そこで言葉を区切った。アキラも思わず息を止める。 ヒカルはアキラを見つめたまま、何か思い切りが必要だとでも言うように一瞬顎を引き――小さく開いた口唇で、 「俺と……一局打ってもらいたいんだ」 そう、告げた。 アキラは瞬きをする。 目の前で真剣な表情をしているヒカルは、アキラを見つめているようでそうではない気がした。 進藤、と声をかけようとして留まる。 ヒカルの言葉をもう一度頭の中で反芻し、しかしアキラはその内容の違和感を拭いきれなかった。 「……父と?」 「うん」 「……、退院してからで、いいなら……」 ぼんやりした声でアキラがそう呟くと、ヒカルはそれでいいと強く頷いた。 「すぐにじゃなくていいんだ。体調が悪いなら無理しないで欲しい。でも……、……できれば、なるべく早くに」 アキラは戸惑いながらもただ首を縦に振るだけだった。口を開くと、「何故?」と尋ねてしまうことは明白だったから。 ヒカルの言葉は、ただのお願いというには強すぎる懇願だった。 何故急に、改まって父・行洋との対局を望むのか……アキラはヒカルの意図を測りかね、恐らく表情にもその疑問がありありと出てしまっているだろう。 それでもヒカルが真剣なことは理解できたので、アキラも追及するより前に黙ってそれを受け入れることにした。 「分かった。……父の様子が落ち着いたら、ボクから頼もう」 「……ありがとう」 少し、ヒカルの目が緩んだ。 アキラを貫いて、その後ろに誰かを見るようだった視線が和らいだ瞬間、アキラは微かにヒカルの目に広がる波紋を見た気がしてぎくりと身を竦ませる。 つい、ヒカルの手を強く握り締め、ヒカルが不思議そうにアキラを眺めた。 「塔矢?」 「あ……、いや、なんでもない」 アキラは気まずげに手を離した。 ――気のせいか? アキラは自問する。 気のせいだと思いたい。アキラはヒカルに分からないように軽く首を振って、今見たものを頭から掻き消そうとした。 ヒカルはアキラの様子を伺っているようだ。その上目遣いが、理由を聞かないのかとアキラを試しているようで、聞くことを躊躇っていたアキラもとうとう覚悟を決めた。 「何故、急に父と?」 なるべく平静を装って尋ねた。ごく普通の疑問のはずだ。この状況で疑問に思わないほうがおかしい。 そんなアキラの必死さを分かっているのかいないのか、ヒカルはごく小さな声でぽつりと呟いた。アキラが思わず「え?」と聞き返したが、ヒカルは口を噤んでしまう。 もし、聞き間違いでなければ……ヒカルは、「見てもらいたいから」と言ったような気がする……。 アキラは軽い混乱に陥った。そんなアキラとこれ以上同じ話をしていたくないのか、無理に作ったような笑顔でヒカルは唐突な明るい声を出す。 「なあ、中国どうだった? 向こうで誰かと打ったりしたのか?」 質問をあからさまに躱されて、アキラは少し拍子抜けする。ヒカルのペースに翻弄されて戸惑いながらも、ヒカルがこの話を続けたくないらしいことが分かったため、アキラの口はヒカルに合わせようと健気に動いていた。 「あ、ああ。楊海さんがいろいろ気遣ってくださって。中国棋院を尋ねる時間はなかったんだが、見舞いに来て下さった棋士と何人か手合わせしてもらったよ」 「そっかあ、いいなあ。そういえばとっておきの棋譜があるんだろ? 見せろよ」 「ああ……、それだよ。テーブルの上の」 「これ?」 ヒカルが目の前のテーブルに手を伸ばす。 そんな仕草はいつも通りに見える。だが何かが違う。何かがおかしいとアキラの頭で警鐘が鳴り響く。 やはりヒカルはおかしい。げっそり窶れた様子だけではない、急に父親との対局を持ちかけたり、不自然に明るく振舞ったり、こちらを試すような目を向けたと思ったらふいに質問を逸らしたり。 何かあったのかと、当然のアキラの問いをヒカルはさらりと流した。言えない何かがあったとでも言うのだろうか? 離れていた、僅か十七日の間に? いや、元旦に緒方と対局してから、一月の間に? 緒方はヒカルに何を言ったのだろう。 ひょっとして、去年アキラを挑発したような言葉をヒカルにまで投げかけたのだろうか。 それとも、まさか…… ――俺はアイツがsaiに変わるのを待っているのかもしれん―― 「すげえ、中韓のトップの棋譜がこんなに揃ってる。陸力、もう七段なんだな。永夏のもある……、……塔矢?」 ヒカルは棋譜を手にしながら隣のアキラに話しかけ、その返事がないのに気付いて顔を上げていた。 アキラはそんなヒカルを何処か遠くから見つめるように、不安を押し殺し、疑問を飲み込んで、それでも溢れ出たものが恐らくアキラの表情を渋く歪めている。 「……進藤」 「……、なに……?」 ヒカルは口角だけを持ち上げて、形ばかりの笑顔で答えた。 目が笑っていないことはアキラもすぐに気づいた。 「キミ……王座戦のトーナメント二回戦、倉田さんに勝ったと言っていただろう。……どんな碁だったか、見せてくれないか」 「……」 ヒカルは表情を変えずにアキラをじっと見ている。 仮面を貼り付けたようだ、と、アキラは喉を締められているような違和感を感じた。 そのまま立ち上がったアキラは、無言でヒカルの左腕を掴む。ヒカルが右手に持っていた棋譜がばさりと床に散らばった。構わずにアキラは強くヒカルの腕を引き、客間を出た。 ヒカルはアキラに引き摺られるようにしながら、それでも諍いの声ひとつあげずに後ろをついてくる。アキラは自室にヒカルを招きいれると、ヒカルの肩をぐっと押して床に座らせた。そして、その目の前に碁盤を下ろす。 ヒカルの喉がごくりと上下した。 「……見せてくれ。倉田さんに勝ったという一局……」 「……」 アキラがヒカルに向かって押し出した碁笥に、ヒカルが触れるまでしばしの間を要した。 ヒカルはじっと碁盤を睨んでいたが、注意して見ていないと分からない程の微かな動きで眉を寄せ、覚悟を決めたように碁笥に手を伸ばす。 黒石を掴み、初手をぱちりと碁盤に置く。打つというよりも、弱々しく置いたというのがしっくりくる感じだった。 二手目の白を置き、次に黒。白。黒。白…… ぱちぱちと、静かな音を立てて碁盤に定石が埋まっていく。アキラはその黒と白の石の並びを食い入るように見守った。ところが、まだどちらが優位とも判断がつかない状態で、ヒカルはふいにその動きを止めた。 掴んでいた黒石をかちゃりと碁笥に落とし、俯きがちのまま、やめよう、とヒカルは言った。 「……やめよう、今日は。お前、帰ったばっかで疲れてる……」 「……ボクは構わない。キミが勝ったという一局を見たい」 「……」 そうして黙ってしまったヒカルを、碁盤を挟んでしばらく見据えていたアキラは、やがて沈黙に焦れてヒカルに近づいた。 その肩に触れ、進藤、と呼びかけると、ヒカルが微かに顔を上げる。 垂れた金色の前髪の隙間から、ぼんやり覗くふたつの瞳に、ゆらゆら揺れる水面を見たアキラは、全身からさあっと引いていく血液の音を確かに聞いた。 ぱちん、と碁石を碁盤に打つ音にも似た響きが頭の中に広がり、気づけばアキラはヒカルの身体に飛び掛っていた。 驚きのためか開いていたヒカルの口唇に噛み付くように口付け、無防備な口内の奥深くまで舌を差し込む。一瞬強張ったヒカルの身体が呆気なく床に背中をついた。 貪るようなキスを休めることなく、アキラは乱暴にヒカルの服を剥いで行く。強引過ぎる行動に、抵抗するかと思われたヒカルの腕に、しかし力がこもることはなかった。 それどころか、少しの間ただ無防備だったヒカルもまた、アキラの服に手をかけてきた。その指はしっかりと意志を持ち、アキラのシャツのボタンをもどかしく外して行く。お互い身を纏うものを奪い合うように肌を晒し、後はもうめちゃくちゃだった。 ろくに慣らしもしなかった。恐らくヒカルにとってはきつい行為だっただろう。なにしろ肌を合わせるのは去年のクリスマス以来だったのだから。 だというのに、ヒカルはその腕をきつくアキラの背に回して、皮膚に食い込む指の力強さはまるで「離すな」とアキラに要求しているようだった。 アキラがヒカルを求めればその分だけ、ヒカルもアキラを求めてくる。 夢中でヒカルを掻き抱きながら、アキラは呪文を唱えるように頭の中で何度も何度も叫び続けた。 ――ボクを見ろ―― (ボクはここだ、ボクを見てくれ) そんな目をしないで、こっちを見て。 何に悩み惑っているのか、そのゆらゆら揺れる湖みたいな目に閉じこもってしまわないで。 行かないで。一人で行こうとしないで。 ボクがここにいる、ボクがここに! 性急すぎる動きを咎めることなく、ヒカルはアキラに手足を絡み付けてくる。 もっと寄越せとでも言うように。 (いくらでもあげる) ボクの心なら、いくらでもキミにあげるから。 だから戻ってきて。暗い湖の底に沈んでしまわないで、戻ってきて。 ――ここに! 「……とうや……」 荒い呼吸が切れ切れに響く中、その絶え間に掠れて囁かれたヒカルの声は、今にも泣き出しそうな、それでいてどこか安堵を含んだような、頼りない声だった。 |
感情のままに雪崩れ込み。
まだ若も子供なので……