深愛






 ――それから何事もなく数日が過ぎ、数週間が過ぎた。
 仕事先であった出来事からすっかり意識が離れたヒカルは、余韻を引きずることなく日々の暮らしに集中していた。
 対局、指導後、イベント、研究会……
 微かな影が連れて来る四季を背負いながらも、日常は容赦なく押し寄せる。
 心に整理をつけるきっかけもなく、季節の経過と共に少しでも胸の隙間が狭まることを期待しながら、忙しさを言い分けに何もしないで過ごす日々。


 だからこそ、その転機は酷く唐突に感じられた。
 数人の仲間と共に談笑しつつ棋院のロビーを横切ろうとしたヒカルは、たった今自動ドアを潜って中に入ってきた姿に釘付けになった。
 腰まで伸びた、揺れる長い黒髪。
 突然立ち止まったヒカルを不審そうに見る棋士たちの目も気にせずに、ヒカルはその存在を凝視して身を乗り出した。
 ――間違いない。あの時の女性だ――
「おい……あんた」
 思わず声が出て、女性が驚いたように振り返る。しかしヒカルを認めると、その表情がすぐにどこか安心したものに変わった。
 その変化で、ヒカルは女性が自分を探しにここへ来たことを悟った。
 ヒカルは小さく息を飲み、頭に浮かんだあらゆる疑問をなるべく顔に出さないようにして、静かに女性に近づいていった。
 女性は目の前までやってきたヒカルに向かって軽く顎を上げて、よかった、と小声で呟く。
「あんた、この前の……。なんで、こんなとこに……」
「ちょっと近くまで来る用があったので寄ってみたんですが……本当に会えるとは思ってませんでしたから、驚きました」
 そう言って彼女は小さく笑った。
 笑うと目が細くなり、以前よりもずっと優しい印象になる――ヒカルはまた僅かな符号を探ろうとする無意識の行動を、胸の中で叱咤した。
 しかし今の彼女の言葉からも、彼女がヒカルを目当てに棋院を訪れたことが分かる。では、何故? ――判断に迷ったヒカルが目を泳がせた時、視界の端に強い視線がちらついた気がして、思わずその方向を振り返った。
 何かの打ち合わせで棋院に来ていたのか、離れた場所からアキラがじっとこちらを見ている。静かな目だが、強烈な目でもあった。
 ヒカルはアキラに今の姿を見られたことに対してはっきりと動揺した。
「ちょ、ちょっと、外出よう。ここじゃなんだから……」
 上ずる声を抑えながら女性の肩を押して、たった今彼女が潜ってきたはずの自動ドアへ向かわせた。背中に仲間たちのどよめきが届く。
「おい進藤〜、なんだよその美人はよ〜」
「女っ気ないと思ったら隠してやがったのかよ」
 遠慮のない声は少し離れた位置にいるアキラにも充分届いているだろう。
 ヒカルは小さく舌打ちし、妬みの声には応えずにそのまま女性を促した。
 声よりもきつい、鋭い視線が背中に刺さっている。
 アキラが、見ている。じっと……目を逸らすことなく、こちらを見つめている……。
 その焼け付くような存在感を強烈に感じながら、ヒカルはとうとう振り返ることができなかった。





「本当にすいませんでした。お忙しかったんじゃないですか?」
 小ぶりのティーカップを口元に近づけながら、テーブルを挟んでヒカルの向かいに座っている女性は申し訳なさそうに告げた。
 ヒカルはテーブルに肘をついて手の甲に軽く顎を乗せ、その頭を横に振ってみせる。
「いや。特に予定はなかったから……。それより、どうして……」
 とりあえず棋院を出て目についた喫茶店に飛び込み、店の一番奥の静かな席で二人は向かい合っていた。
 店内に流れる静かな音楽は耳に優しく、中途半端な午後の時間のせいか客も少なく周りに気遣いも必要ない。
 そんな落ち着いた空間で、ヒカルはどこかそわそわしながら小さな口唇で紅茶を含む女性を前に戸惑っていた。
「……東京に、用事があったんです。それで、もしかしたらあそこにいるのかな、って思って」
「あそこって……棋院のこと? 俺が囲碁やるって知ってたのか?」
 純粋な疑問をぶつけると、女性は少し申し訳なさそうに苦笑した。
「この前会った時は、全然。次の日の新聞の地方欄に、小さく囲碁のイベントの記事が載っていて……舞台で何か話している写真、あの人だって思ってびっくりしました」
「ああ、なるほど……」
 確かにあの地方では数年に一度の大きなイベントだったから、取材のカメラもそこそこ入っていた。女性が見たという舞台上の写真は、おそらく引っ張りだされたトークショーの時に撮影されたものだろう。
 しかし、それでヒカルが棋士だということが女性に伝わったとしても、ここまで尋ねてくる理由にはならない。たった一度会っただけの相手に、会える保証もないのに職場へ訪れるなんてありえることだろうか。
 ヒカルは彼女の意図を測りかねて口ごもった。もしや、また余計な愛想を振りまいてしまったのだろうか?
 また、というのは和谷の受け売りだ。――和谷曰く、ヒカルは無自覚に女性をその気にさせるのだという。
 ヒカルとしてはそのつもりはまったくないのだが、事実何の気なしに話していたはずの女流棋士から熱烈なアプローチを受けてしまったり、取材先で仕事のつもりで会話をしていた女性記者から携帯番号を渡されてしまったり、仲間から「前科」と囃される経験が多々ある。
 今回もその一端だろうか――思わず身構えたヒカルが喫茶店に誘ったのは失敗だったかなと反省している前で、女性は口を開いて意外な言葉を呟いた。
「『俺の大事なヤツ』……」
 ヒカルの眉がぴくりと揺れる。
「……『もういない』って。……あの時、言ってましたよね……」
 ああ、と頷くことさえうまくできなかった。
 忘れたよとごまかすことができれば良かったのだが、じっと紅茶の波紋を見下ろす女性の目は静かではあったが真剣で、興味本位でうかつな言葉を口にしたわけではないことが分かる。
 ヒカルは判断に迷った。それはほんの数秒の戸惑いだったのだが、ヒカル自身にとっては酷く長く、気まずい時間に感じられた。
 女性は顔を上げ、正面からヒカルを見つめた。
 その眼差しに沈む深い蒼色を、どこかで見た覚えがある――ヒカルが咄嗟に記憶の波を掻き分け始めた時、女性は小さく、しかしはっきりとヒカルに尋ねた。
「……その人、恋人ですか」
 ヒカルは目を見開いた。
 そして気づいた。女性の目に見覚えがある理由――それは時折鏡の中で出会う自分と同じ目の色を持つからだ。
 何かを失った人間の目だった。
 完全に言葉に詰まったヒカルを、女性はしばらく見つめていた。しかしふいに目を泳がせ、頬を赤らめて、手に持ったままだった紅茶をテーブルに下ろすと恥ずかしそうに俯いてしまう。
「……ごめんなさい。いきなり変なこと聞いて……ほとんど初対面なんですよね。忘れてください」
「……、いや……」
 躊躇いながらも小さな否定だけを返すと、ヒカルは今はもう俯いて見えなくなってしまった女性の目を思い出して眉を顰める。
 これまでは、目の前の女性に失った人との相似点を無理やりに探してきた。しかし、先ほど女性が見せた目の色は――自分が持つ闇の部分と同じ。
 女性に自分と同じニオイを嗅ぎ取ったヒカルは、汗ばむ額を少しだけ気にしながら、初めて出会った近しい存在に急速に心を許しつつある自分を認めなくてはならなかった。
「……、あんた……」
 女性が軽く顔を上げる。
「誰か……、失くしたのか。あんたも……」
 完全にヒカルと目を合わせる少し手前で、女性が動きを止めた。
 その瞬間、店内の音楽もまた曲の終わりを迎え、二人は僅かな間完全な沈黙に包まれる。
 やがて次の曲が流れ始めた時、女性は独り言のように呟いた。
「――ホントは。飛び降りてもいいかなって思ってた」
 ヒカルが言葉の深い意味を聞きとがめる前に、女性は淡々と、誰に言い聞かせるでもなくどこかに書いてあることを読むような口調で語り始めた。






どうやらこのヒカも天然タラシのよう……
そういうヒカが好きなのかもしれない。