SHINE






「囲碁の塔矢プロと進藤プロですね。どうぞこちらへ」
 事務員らしき女性に先導され、通された応接室でヒカルとアキラは皮張りのソファに腰を下ろす。
 ヒカルは慣れない雰囲気にきょろきょろと首を動かしていた。
「進藤、落ち着きがないぞ」
 アキラがぼそりと囁く。ヒカルは肩を竦めて、しかし目線だけは相変わらず忙しない動きを見せていた。
 あかりの高校に訪れた時は、こんな部屋に案内されることもなく真直ぐ部室に通されたのだが。
(まあ、今日は部員相手に何かするって訳じゃねえからしょうがねえか……)
 アキラに伴われて訪れた海王高校。広い校舎の入り口には華やかなアーチが飾られ、教室を利用した展示や店が並ぶ校内は多くの一般客で賑わっていた。
 しかし、そんな賑わいから少し離れたこの応接室はひっそりとして、お祭り気分など微塵も感じられない。ヒカルは先程見てきた賑やかな雰囲気が恋しくなった。
 場数の違いだろうか、アキラはこの堅苦しい空間にも動じることなく落ち着いた様子で座っている。
 今回は自分がメインではないとはいえ、アキラがいてくれてよかったとヒカルはその頼もしい存在にほっとした。
 それからものの数分も経たないうちに、軽快なノック音と共に応接室のドアが開いた。振り向いたヒカルとアキラは反射的に立ち上がる。
 現れた女生徒は、二人の姿を認めて人懐っこい笑顔を見せた。
「ようこそ、海王高校へ」
 少しからかうような口調でそう告げた勝気そうな美人は、どこかで見た覚えがあるとヒカルは首を傾げる。
 ――このよく通る声、聞いたことがあるような。
 アキラは彼女に向かって姿勢を正し、穏やかな笑みを浮かべて女生徒に頭を下げた。
「ご無沙汰しています、日高先輩」
「久しぶりね、塔矢。元気そうじゃないって言いたかったんだけど……そうでもないみたいね。悪かったわね、忙しい時に面倒なこと頼んじゃって」
 アキラが日高と呼んだ女生徒は、頬のこけたアキラを見たためか申し訳なさそうに肩を竦めた。
 ヒカルはアキラの隣で二人の顔を交互に眺め、二人の親しげな様子に若干不安を感じながらも、この女性を何処で見たのか思い出そうと必死だった。
 そんなヒカルの様子が可笑しかったのか、日高は我満できないというように吹き出した。思わずヒカルはむっとする。
「あらごめんなさい。変わらないなあと思って。お久しぶりね、私のこと覚えてないかしら? 元葉瀬中の進藤くん?」
「え……?」
 その独特な言葉のニュアンスに、ヒカルの記憶の欠片がきらりと輝いた。
 少し釣り上がり気味の猫みたいな丸い瞳。小気味良く持ち上げられた口角。そうだ、以前も今みたいにちょっと偉そうに腕を組んで、自信に溢れた表情をしていた……

『ズルで勝ったり? マグレで勝ったり?』
『すごいメンバーね、葉瀬は』
『楽しみだわ、キミと塔矢の一戦が』

 はっと閃いたヒカルは、日高に向かって人差し指を突き出した。
「あー! あの口の悪い海王の女大将!」
 日高の口元がぴくりと引き攣る。アキラは慌ててヒカルの口を押さえ、日高に向かって頭を下げた。
「す、すいません日高先輩!」
「……いいのよ、思い出してくれて光栄だわ」
 ヒカルを押さえ込んだアキラは、小声でヒカルをそっと諫めた。
「進藤、なんてこと言うんだ。失礼だろう」
「だって、あの時あっちのほうがよっぽど失礼なこと言ったんだぜ。俺覚えてるもん」
「昔の話だろう。たとえそう思ったとしても口に出さずに――」
 ごそごそと小さく言い争う二人を前に、日高がごほんと大きな咳払いをした。はっとして振り返る二人に、日高は呆れたような表情でため息をついてみせる。
「仲良くなったのねえ、あんたたち」
「あ……、ま、まあ……」
 アキラは軽く眉を下げて笑い返した。
 ほとんど面識のない日高にあんたたちと乱暴にひとくくりされ、ヒカルは口を尖らせつつも、アキラに視線で促されて渋々日高に頭を下げる。
「進藤です。今日はよろしくお願いします」
「こちらこそよろしく。さあ、早速控え室に案内するわ。そこで今日の段取りを説明するから」
 日高はくるりと身を翻してドアに向かった。
 後に続くヒカルとアキラは軽く小突き合いながら、海王高校の囲碁部が普段は部室として使用している控え室へ向かった。




 日高に続いて控え室に入ると、中には数人の囲碁部員らしき生徒たちが部屋の一角に集まっていた。どうやらイベントのパンフレットを整理しているらしく、彼らの傍らには段ボール箱がいくつか積まれている。
 生徒達は現れた三人に気付いて慌てて頭を下げて来た。アキラとヒカルも会釈を返す。日高は二人に向かって囲碁部員を紹介した。
「部員の一部よ。他の部員達は講義室でイベントの準備をしているわ。ちょっと騒がしいかもしれないけど、部室に来てもらったほうが堅苦しくなくていいと思ったの」
「ええ、ボクらもそのほうが」
 アキラの笑みに日高は満足そうに頷き、手頃な椅子に腰を下ろすよう勧めた。二人が腰掛けると、囲碁部員と思われる女子生徒が煎茶を運んできた。
 どうぞと差し出されるままに出されたお茶に口をつけ、ヒカルは上目遣いで部室の様子をぐるりと伺う。
 この広さからして、かなりの数の部員がいることがよく分かる。大きなガラスケースには数々のトロフィーが燦然と輝き、その力を誇示しているようだった。
 ヒカルとアキラの存在を気にしつつも、忙しく動いている部員達は皆一様に表情が輝いている。そんな若い熱のこもった様子を見ると、ヒカルもやはり来て良かったかも、と胸が高鳴るのを感じた。
 部員に何やら指示をしつつ、日高は積まれたパンフレットの一部を手にして二人に向き直った。
「今日はね、本当は一般のお客さん相手に講演と指導碁をお願いしようかと思ってたんだけど。せっかく二人来てくれたから、公開対局してもらおうと思って」
「公開対局?」
 聞き返すヒカルに、日高はそうよと大きく頷いてみせた。
 細い指がパンフレットをぱらりとめくると、『公開対局/塔矢アキラ五段・進藤ヒカル二段』という見出しが目に飛び込んで来た。
「プロが二人も揃ってるのよ。一局打ってもらうのが一番ありがたいわ」
「一般のお客さんはどのくらい入る見込みなんですか?」
 アキラの問いに、日高は軽く上目遣いで考える素振りを見せた。
「去年の感じだと二百は入る講義室がそこそこいっぱいになってたし。今年は前もって二人の名前で宣伝してるから、びっちり埋まるでしょうね」
「に……にひゃく?」
 瞬きするヒカルにアキラが苦笑した。
「普段のイベントを思えばそれほど凄い数でもないだろう?」
「そうだけど、俺、この前のあかりんとこみたいなの想像してたから。一般のお客さんなんて考えてもみなかった」
「創立祭なのに部員だけを相手にしたって仕方ないだろう。前もって説明してたじゃないか、囲碁部主催のイベントに出るって」
「あれだって一応囲碁部主催じゃん」
「目的が違うだろう……」
 二人のくだらないやりとりをさも面白そうに聞いていた日高は、肩を震わせて笑うのを堪えているようだ。
「いつのまにそんなに仲良くなったの? あの頃の塔矢のおっかない顔が嘘みたいね」
 日高の言葉に、アキラがほんのり頬を染める。ヒカルも日高が知っているだろう当時のアキラを思い出し、思わず苦笑いした。――確かに自分達は、あの時の関係から随分形が変わってしまった。
「もう昔の話です。今は同じ仕事を持つ……仲間ですから」
 少し歯切れが悪いアキラは、二人の関係を表すために言葉を選んだようだった。へえ、と肩を竦めた日高と目を見合わせて、バツが悪そうに微笑むアキラ。
 そんなアキラの態度がヒカルにはほんの少し面白くない。
 確かに他人に説明するには、仕事仲間という言葉が一番楽でしっくりくるのは分かっているが、なんだかアキラと親しそうな日高に対して使われると余計な勘繰りを入れてしまいたくなる。
(これじゃ俺、前と同じパターンじゃん)
 嫉妬とは厄介な病気だ。治そうと思って治るものでもない。
 しかも日高は気が強そうだがなかなかの美人だ。
 アキラに対して物怖じしない辺り、そこらの女性と違って少々手強い気がする。
(大抵の女はコイツ相手ならビビって引っ込んじゃうんだけどなあ。この人、寧ろぐいぐい引っ張ってくタイプっぽいなあ)
「……進藤? 聞いてる?」
「へっ?」
 悶々と浮かんでくる余計なことに頭を支配され、恐らくむすっとした顔をしていただろうヒカルは慌てて顔を上げた。
 隣のアキラが心配そうにヒカルを覗き込んでいる。
「大丈夫か? 具合でも悪いのか?」
 ヒカルの仏頂面を気分の悪さと受け取った鈍い恋人は、調子が悪いなら休んだほうが、と的外れなことを勧めてくる。
 なんだか気が削がれてしまったヒカルは、軽く苦笑いして大丈夫と首を横に振った。
 ――不安になるだけ損だ。アキラの目には自分しか映っていない。
 そのことも先月の一件でよく分かっていたはずなのに、人の心とは厄介なものだとヒカルはため息をつく。
 それで何の話をしていたのかとヒカルが聞き返そうとした時、部室のドアががらりと開いた。そこに現れた涼しげな眼鏡の男子生徒を見て、ヒカルはまたも思わず声をあげてしまった。






区切り悪くてすいません……
こんなに引っ張るほどの話でもないはずなのに。
日高さん初登場です。難しい。