SHINE






「海王の嫌味な大将!」
 その大声に、アキラと日高が、そして室内にいた部員たちが目を丸くしてヒカルを見た。すぐに青くなったアキラが立ち上がり、戸口で固まっている青年に頭を下げる。
「不躾にすいません岸本先輩! し、進藤に悪気はなくて……」
 日高がついに吹き出し、腹を抱えて笑い出した。
「よっく分かったわ、進藤くんって人の名前全然覚える気ないのね」
 決して褒められていないことが分かり、ヒカルは渋く口元を歪めた。
 海王の大将、岸本薫。さすがに岸本の名前くらいはヒカルの苦い記憶の中にしっかり刻み込まれている。
 3−0で負けた海王と葉瀬の団体戦。あの時のアキラの落胆の表情を思い出すと、今でも胸の奥がちくちくと痛むほどに悔しい。
 今目の前にいる岸本は、当時よりも随分大人びた様子とはいえ、冷静な眼差しはあの頃のままだった。
 岸本はヒカルの大声にもほとんど表情を変えなかったが、そっと指先で眼鏡を押し上げ、僅かに目元を緩めてヒカルとアキラの元へ近づいてくる。
 そうしてアキラに向かってすっと手を差し出した。
「久しぶりだな、塔矢。活躍は聞き及んでいる。今日は忙しいところをすまない」
「ご無沙汰しています。岸本先輩もお変わりなく」
 アキラは岸本の手をしっかり握り返し、穏やかに微笑んだ。
 次に岸本はヒカルに向き直り、同じように手を差し出してくる。ヒカルは少し躊躇いながらも、岸本と握手を交わした。
「君も元気そうで何よりだ。覚えていてくれて嬉しいよ」
「ど、どうも……」
 眼鏡の奥の切れ長の瞳がじっとヒカルを見据えている。
 柔らかい視線ながら、どこか探るような、何かを見極めるような意味ありげな眼差しに、ヒカルは首を竦めた。
 ――覚えているも何も。
(こいつがいなかったら、今俺がここにいるかも分かんねーからなあ……)
 ヒカルは遠い日の岸本の言葉をぼんやり思い起こした。
『塔矢とはエライ違いだな』
『塔矢はまさに全力で、なりふり構わずキミを追いかけていたよ――』
 あのやりとりがなければ、院生になろうなんて思いもしなかった。
 アキラを追ってプロ試験を受けて、囲碁の道を進もうなんて考えもしなかった。
 あの時は意地の悪い言い方をするやつだと思ったけれど、岸本の言葉がなければヒカルが発奮することはなかっただろう。
(礼とか……言っといたほうがいーのかなあ……)
 するりと手が離れ、岸本は静かにヒカルから顔を背けた。
 突き放された感じではないが、何処か距離を置くようなその素振りにヒカルは微かな物寂しさを感じた。
「じゃあ、行きましょうか。今セッティングしてるとこだと思うわ」
 日高が二人を促すように腕を広げた。頷くアキラに対してヒカルはきょとんと首を傾げる。
「行くってどこに?」
「……やっぱり聞いてなかったんだな。さっきも言っただろう、ボクらが公開対局する講義室の下見だよ」
 呆れたように眉根を寄せるアキラを見て、ヒカルは少し不貞腐れた顔をする。そんな二人の様子を見て、日高がまた楽しそうに笑った。




「毎年創立祭の時にはプロを呼んで講演会を開いたり、指導碁を打ってもらったりしてちょっとした目玉になるのよ。今回は若手のトップ棋士塔矢アキラを呼ぶってことで大いに宣伝させてもらったから、客の入りもなかなかだと思うわよ」
 岸本を先頭に、後に続く日高が後ろのヒカルとアキラを振り返りながら説明する。
 ヒカルは長い廊下の左右に目を走らせながら、日高の言葉にへえと相槌を打った。
 一般向けに開放している展示用の階ではないせいか、創立祭の真っ最中だというのにやけに辺りはひっそりしている。早く賑やかな空気が戻って来ないかと、ヒカルは落ち着きなく視線を踊らせていた。
 アキラはそんなヒカルとは対照的に、ゆったりと日高の説明に耳を傾けて時折穏やかに頷いている。
 ヒカルは、日高が最初アキラに講演をお願いしようとしていたものの、公開対局に内容を変更した理由が分かったような気がした。
 場慣れしたアキラ一人なら講演会だろうとなんだろうとソツなくこなすだろうが、それにヒカルがくっついてくるとなると事情が変わってくる。
 ヒカルに何か仕事を与えるためには、下手にお客の相手をさせるよりも、アキラと打つほうがイベントとしては盛り上がると考えたのだろう。
(……俺、やっぱ来なきゃよかったかなあ)
 がりがりと後頭部を掻きながら、ヒカルは岸本と日高の案内で講義室へと辿り着いた。
 講義室の入口には、『公開対局/塔矢アキラ五段・進藤ヒカル二段』と書かれた立派な看板がかけられていた。
 アキラと並ぶ自分の名前を見て、ヒカルの心臓がどきんと縮む。
 これまでも棋院のイベントで公開対局は何度かしたことがある。そのこと自体はヒカルを緊張させるものではないはずなのに、胸が震えるのはアキラとの対局だからだろうか。
 そう、高校の囲碁部が企画したイベントとはいえ、今日はこれからアキラと対局ができるのだ。
 公開対局となれば、それなりに一般客を喜ばせるような展開の分かりやすい碁が求められる。
 しかしそれでも真剣勝負には変わりない。
「さあ中に入って。そこそこ広いわよ」
 日高の言葉通り、講義室は二人が首をぐるりと回す程度の広さがあった。
 囲碁部員と思われる生徒たちが会場のセッティングに奮闘している。飾り付けが曲がっていないか、座席に不備はないか、マイクの位置や音量の確認など調整に余念がない。
 忙しく動き回る生徒たちの横目を受けながら、四人は講義室の奥へと入って行く。
 正面には大きな白いスクリーン。二人が向かう碁盤の傍に小さなカメラが取り付けられているところを見ると、スクリーンに盤面が映し出される仕組みのようだ。
「カメラがあるんですか?」
 アキラが驚いたようにスクリーンを見上げると、日高は自慢げに胸を貼ってみせた。
「そうよ。まあ、元々は講議用のものだけどね。このスクリーンに碁盤が映し出されて、後ろのお客さんもよく見えるって訳よ」
「このスクリーンと大盤を使って、俺と日高で簡単な解説を行う。持ち時間は60分と短いが、展開が遅くてはあまり碁に詳しくない観客が飽きてしまうからな。やりにくいかもしれないが、よろしく頼む」
 岸本の言葉に、ヒカルとアキラは顔を見合わせて頷いた。
「構いません。ボクらの対局はいつも早碁のようなものですし」
「俺もそんなに長考するタイプじゃないから」
 二人の笑顔に安心したように、日高は肩の力を抜いたようだった。
「よかった。二人の対局が終わったら、簡単にコメントもらって、もし時間が余ったらお客さんからいくつか質問を受けるコーナーを作ろうと思ってるんだけど……いいかしら?」
「ボクは構いませんが……」
 そう言ってアキラはちらりとヒカルを横目に見た。
 ヒカルがびくりと身構えると、日高は手をひらひらと振って大丈夫だと笑った。
「そんな大したこと質問しないわよ。対局前にどんなこと考えますかーとか、棋士になろうとしたきっかけはなんですか、とかそんな程度よ」
「きっかけ……」
 ヒカルはぱちぱちと瞬きし、鸚鵡返しに呟いた。
「そ。堅苦しく考えなくてオッケーよ。そんな感じで、大体一時間半から二時間のイベントってとこかしら? 何か質問は?」
 アキラは首を横に振る。ヒカルも釣られて同じように首を振った。
「じゃあ、午後までまだ時間があるから食事でもどう? 模擬店がたくさんあるわよ」
 日高の提案に、ヒカルの目がきらきら輝きだす。
「行きたい行きたい! 俺実は腹減ってたんだよ」
「進藤、遊びに来たんじゃないんだぞ」
「いいじゃないの、せっかくだから創立祭も楽しんでいってちょうだい。岸本くんもどう?」
 日高が岸本に向かって軽く首を傾けてみせるが、岸本は静かに首を横に振った。
「いや、俺はここで準備を手伝うよ。日高、悪いが二人を案内してくれ」
「分かったわ。じゃあ、行きましょうか」
 日高に促され、ヒカルとアキラは岸本に会釈をして講義室を後にした。






も−ホント突っ込みどころ満載ですいません。
プロ棋士招くのに顧問教師の挨拶はどうしたよとか、
イベントの詳細くらい普通事前に知らせてるだろうよとか、
自分で穴掘って入りたい。謝ってばかり……