「ここの囲碁部員は今は七十名ちょっとってとこかしら。まあ、他の部活とかけもちの生徒もいるけどね」 テニス部が運営するの模擬店に入った三人は、学習机を組み合わせてその上に可愛らしいクロスをかけたテーブルに向かい合ってカレーを口に運んでいた。 日高は食べながら、海王高校のこと、囲碁部のことをヒカルとアキラに説明していく。 「大会でもそれなりに実績があるのよ。卒業生にはアマの大会で上位に入ってる人も多いわ。もちろん、プロを目指してる人もいるわよ」 「活動が盛んなのは素晴らしいことです」 穏やかに目を細めたアキラがそう告げると、日高は誇らしげに微笑む。 「それなりに棋界に顔がきく人もいるから、普段はこんなイベントには年輩の高段者を招くことが多いんだけど。でも、年が近いあなたたちみたいなプロが来てくれたほうが私たちにとってはいい起爆剤になるわ。午後の対局、楽しみにしてるわよ」 「ええ、頑張ります」 きっぱりしたアキラの口調を聞いたヒカルは、これは午後の対局は本気で来るなと直感した。 もちろん客受けの良い分かりやすい定石を選ぶだろうが、手を抜く気はないだろう。 望むところだ――ヒカルの気分が高揚していく。早く、アキラと一緒に白と黒の世界で溺れたい。 アキラも同じようなことを考えていたのだろうか、ちらりとヒカルが横目で様子を伺うと、切れ長の瞳の奥にゆらゆらと闘志が燃えていた。アキラにしては珍しく気が急いているのだろう、食事のスピードが速い。ヒカルも負けじとカレーを頬張った。 日高はしばらく二人の顔を交互に眺めていたようだったが、やがてアキラに向かって確信犯のような笑みを浮かべた。 「……塔矢アキラが海王中学で囲碁部にいたって話をしたら、知らない部員たちが驚いてたわ。みんなあんたのレベルはよく分かっているから」 「……」 アキラがスプーンを持つ手を止めて顔を上げた。 日高と目を合わせて、しばし無言の視線が交差したようだった。 「どうやら願いは叶ったみたいね?」 「……」 アキラは微かに頬を赤らめ、普段は大人びている表情をまるで少年のように幼くさせて、それから日高に向かってしっかりと頷いた。 「……ええ」 アキラの微笑みに、日高も笑い返す。 二人にしか分からない目配せを間近に見て、ヒカルは思わず固まった。親密な空気がヒカルの鼓動をどきどきと速めていく。 「進藤……食べないの?」 「え」 ふと、アキラが固まったままのヒカルを見て不思議そうに小首を傾げていた。ヒカルは慌ててスプーンを動かし始める。 「た、食べるよ、ちょっと休憩してたんだ」 「よかった。ひょっとしたら午後のイベントを控えて緊張してるのかと思ったよ」 「緊張? 誰が! 俺、この後さっきの店でたこ焼き買う予定なんだから!」 「まだ食べるのか? 対局前に腹を壊したりするんじゃないだろうな」 「そんなやわな腹じゃねーもん」 漫才じみた二人のやりとりに日高は声を出して笑い、ヒカルとアキラも笑い合った。 それでも、ヒカルの胸はほんの少しだけざわめいていた。 日高の言葉に、アキラが確かに嬉しそうな顔を見せたから。 (塔矢の願いって……?) あの瞬間、二人の会話の中からヒカルだけが弾き出されたような気がして、嫉妬よりも焦りを感じていた。 「……どうかした?」 時刻は午後一時を少し過ぎたところ。 すでに講義室は一般客がびっちりと座席を占めて満員、立ち見も出ていると聞かされた。 呼ばれればすぐに中へ入る体勢を整えて、ヒカルとアキラは講義室の戸口で合図を待っている。 室内からマイクでイベントの説明をする日高の声が漏れてくる中、アキラがそっとヒカルに振り返って尋ねた言葉に、ヒカルはうまく返事ができなかった。 「どうか……って?」 「少し。落ち着いていないような気がするから」 ヒカルはぐっと声を詰まらせる。 先ほどのアキラと日高の会話が気になって……とは言えず、「そんなことないよ」となるべく平静さを装って返してみせた。 アキラはそんなヒカルの言葉を心底信用したわけではないのだろう、少し探るような目をしながらも「それならいいけど」と前置きし、 「本当に緊張しているのかと思って。……ボクはキミが来てくれて本当に嬉しく思ってるんだ」 「え……?」 アキラは優しく目を細め、にっこりと笑った。 「公式ではなくとも、キミと本気の対局ができる。何より、今のキミの力を彼らに見せ付けてやれる」 「塔矢」 「嬉しいんだ、キミと打てることが。碁会所で打つことももちろんそうだけれど、プロの棋士として……キミに向き合えるのが凄く嬉しい。早くキミと打ちたい」 ゆったりとしながらも、言葉の端々に力を込めて語るアキラを見て、頼りなく脈打っていたヒカルの心臓がどくんと跳ねた。 目の前にいる男は、恋人でありライバル。今、アキラは棋士の顔で対峙している。乱れた心でアキラの挑戦をまともに受けられるはずがない。 気持ちで負けたら終わり。――ヒカルは深呼吸をひとつして、力強く頷いてみせた。 「うん。俺も嬉しい。お前と打てるのが」 くだらないことをぐじぐじ気にしていたら、せっかくの対局が勿体無い。 今は目の前の相手に集中しよう。不敵に笑ったヒカルを見て、アキラも挑戦的に微笑んだ。 「手は抜かないからそのつもりで」 「俺もだ。お前の顔立ててやろうなんて考えないからな」 「望むところだ」 扉が開き、囲碁部員が二人に合図を送る。 『それでは塔矢五段と進藤二段、どうぞ!』 日高の声に弾かれるように、二人は一瞬目配せし合って一歩を踏み出した。 拍手の海に迎えられ、頭の中を空っぽにして、その目に見据えるものは黒と白の石、そして十九路の碁盤。 さあ、勝負だ――光溢れる無限の宇宙を目指して。 |
ちょっと短かめでした。
この話凄く区切りが難しくて……
地味なお話ですが時間がかかりました。
いつか公式で対局する二人も書きたいなあ。