So Deep






 対局を快勝で終え機嫌よく対局室を出てきたヒカルは、エレベータへ向かう途中に呼びかけられて足を止める。
 振り向く前から声で相手は分かっていた。警戒心のない笑顔で、ヒカルは背後から駆け寄る和谷に軽く手を挙げる。
「よ、和谷。本田さんも」
「その顔なら中押しか? へへ、今日は俺も大勝利だぜ」
「俺はその逆。倉田さんにぼこぼこにされたよ。せっかく久しぶりの木曜だったってのに」
 明るい和谷と暗い本田の対照的な顔を交互に見て、ヒカルは苦笑いした。
 三人は並んでエレベータへ向かう。
「進藤、お前この後時間ないか? この前の棋聖戦、並べてみたいんだけどさ」
 和谷の誘いに、ヒカルはすまさそうな顔を見せた。
「悪い、俺今日真っ直ぐ帰れって言われてんだ。明日なら時間あるぜ」
「明日かあ、明日は俺がちょっとなあ。まあいいや、そのうちな。いやさ、絶対お前の後半のキリから挽回の余地があったと思うんだよ。そのへんの検討したかったんだけど、また今度やろうぜ」
「ああ、今度な」
 ヒカルは曇りのない笑顔で答える。
 そのまま三人並んで棋院を出たところで、こちらをちらちら見ながら声をかけたそうにしている女の子の二人組に和谷が気がついた。
「……お前じゃねえの?」
 からかいというよりは嫉妬の混じった目で和谷がちらりと睨み、肘で小突かれてヒカルはその方向に顔を向ける。途端、きゃっと小さく声をあげた女の子たちは、意を決したように三人の元へ近寄ってきた――もとい、ヒカルの元へ。
「あ、あの、進藤さん、……サインください」
 恐らく年の頃は変わらないくらいだろう、二人は頬を赤く染め、上目遣いに開いた手帳とペンを差し出してきた。
 ヒカルは照れ臭そうに苦笑しつつも、それらを受け取る。
「お、応援してます。リーグ戦、頑張ってください」
「ありがとう」
 さらさらと、「進藤ヒカル」と名前を書く。元々字が汚いのでサインをするのは苦手だったのだが、汚い字を更に殴り書きのように斜めに書くことでそれなりにサインらしく見えることに気づいてからはそうでもなくなった。
 はい、と手帳を返すと、二人は「ありがとうございます!」と大きく頭を下げた。紅潮した頬が可愛らしく、ヒカルはその後お願いされた握手にも快く応える。
 ぺこぺこと頭を下げながら、彼女たちが華やかに去っていくのを見届けて、和谷が大きくため息をついた。
「あーあ、慣れた対応しやがってよ。最近増えたよなあ、お前のファン」
「んー……、ここんとこ囲碁以外の雑誌とかにちょこちょこ載ったりしてたからなあ。でも慣れちゃいねえよ。やっぱキンチョーするもん」
「どうだか。営業スマイルかましやがって」
 アハハ、とヒカルは笑うしかなかった。
 慣れちゃいない、というのは半分は嘘だ。緊張するのは本当だが、ファンへのソツのない応対方法を身体が覚えてきてしまっている。
 こんなふうに出待ちのファンに握手やらサインを求められるのは、一度や二度ではなくなっていた。
「それにしても、北斗杯組は凄いよな。あれから取材どれだけ来たんだ?」
 本田の問いに、ヒカルは上目遣いに眉を顰めた。正直思い出せる数ではない。それに、最初こそ自分の載った記事に興奮していちいちチェックしていたものの、後半ではそれすら面倒になってしまった。どの雑誌から取材を受けたのかもヒカルはよく分かっていない。
「覚えてないなあ……」
「ちえ、冴木さんみたいなこと言いやがって」
「冴木さんはモデルみたいな仕事もやってたよなあ。俺には縁遠い仕事だよ」
 和谷と本田の羨望の眼差しを全身に受けて、ただただヒカルは笑ってごまかした。
 確かに本田の言う通り、五月の北斗杯以降、ヒカル、アキラ、社の三人セットで囲碁には関係ないところからの取材を受けることが多くなった。
 もちろん多忙の三人が時間を合わせることは難しいので、大抵はそれぞれ別々に撮影やインタビューが行われるのだが、一度だけまさに三人一緒に撮影を行った記事があった。
 ヒカルが思うに、女の子のファンが増えたのはあれが原因ではないかと予想している。
 女性向けのファッション誌で、袖を通すのも気恥ずかしいような黒いスーツを用意され、撮影のために化粧まで施された。ポーズの注文もうるさく、対局よりも疲れたとアキラや社と後で愚痴を言い合ったのだが。
 長身で細見のスーツがよく似合う社は、一歩間違えば何処ぞのチンピラ風になりそうなところをうまくスタイリッシュに仕上げられていた。着崩し方がまた様になっていて(様になるように何度も駄目出しはされていたが)ヒカルも口笛を吹いて囃したほど。
 そのヒカルはというと、三人の中では無難にまとめられたほうで、どちらかというと服装よりも顔作りに力を入れられた。
 一応自分でも多少はいじっていた眉をきっちり整えられ、ファンデーションも下地から何色も重ねられて、目立たないとはいえ陰影を際立たせるためのシャドウも入れられた。
 自分ではどこがどう変わったのかいまいち分からなかったが、ヒカルの顔を見たアキラと社が目を丸くしていたので少しは写真栄えするようになったのかもしれない。
 そしてアキラは、黒スーツをかっちりと着込み、ネクタイもしっかりと締めたオーソドックスなスタイルながら、艶やかな黒髪のサイドを軽く固めて大人っぽく纏められ、古風さの中にも男らしい色気を感じるような雰囲気に仕立てられた。それはもう、あからさまにぼけっと見蕩れてしまったヒカルが社に後頭部を殴られるほど。
 そんな三人が並んで撮影に入ると、スタジオからもちょっとしたため息が漏れていた。
 出来上がった写真を見て、自分たちの化けっぷりに苦笑しつつも、確かにちょっとした芸能人並みだと驚いてしまった。
「スタッフの誰かの趣味に付き合わされた感じやな」
 撮影後、社がうんざりした様子でそう言ったのを覚えている。
 その誰かとは、恐らく女性なのだろう。――実際、女性陣には非常にウケがよく、棋院で女流棋士たちによく声をかけられるようになったのも事実だ。
 まあ、面倒な撮影だったとは言え現場は楽しかったし、あんなふうに着飾って写真を撮る機会も滅多にないだろうから、ヒカルとしてはいい経験になったと思っていた。格好よいアキラの姿も拝めたのだから。
 しかしアキラはその雑誌の発売時期に懸念を抱いていたようだった。
「発売は九月の頭らしい。分かっていたらプロフィールに誕生日は載せないようあらかじめ断っておくんだったな……」
 真剣な顔つきでそう告げたアキラは、ヒカルの誕生日にファンが集まらないかを本気で心配しているようだった。
 それはないだろうと一笑したが、アキラは真顔で首を横に振る。
「プレゼントが殺到する程度ならいいが、ファンが集まってキミが怪我でもしたら困る。あらかじめ棋院側に対応を依頼しておいたほうがいい」
「そこまで来るかよ! 俺ゲーノー人じゃねーんだぞ?」
「充分考えられるよ。それだけ、あの時のキミは……綺麗だったから」
「塔矢……」
 ……とまあ、その後ちょっといい雰囲気になってしまったのは置いておいて。
 アキラが言うほど大袈裟な事態にはならないだろうが、ファンがちらほら出待ちしているようになったのも事実だ。
 念のため、用心しておいたほうがいいかなとは思っている。
 誕生日は、今年もアキラと静かに過ごすと決めているのだから。


 女の子たちの気配もなくなって、ヒカルは棋院前で軽く何か食べてから帰るという二人と別れた。
 一人になったヒカルは、真っ直ぐ帰ると言った言葉とは裏腹に、家路とは違う地下鉄の駅を目指していた。
 誰にも見咎められることなく、ヒカルが訪れた場所は、恋人である塔矢アキラの待つ碁会所だった。






誰の趣味なんでしょう。私か。スーツ大好き。
あの三人が並んだら迫力だろうなあ。
ヒカルは撮影後化粧を落とすのに苦労したようです。