So Deep






「勝ったのか?」
 いつもの指定席でヒカルを待っていたアキラは、現れたヒカルの表情を見るなりそう言って微笑んだ。
「ああ。結構いい内容だったぜ。やりやすかった」
「そうか。その内容も気になるが……今日はそれより先にこの前の棋聖戦だな」
「だよな」
 頷いたヒカルは椅子を引き、アキラの向かいに腰を下ろす。
 棋聖戦Aリーグ二回戦。ヒカルが芹澤に白星を譲った一局である。
 アキラはBリーグでヒカルと同じく一勝一敗であり、お互い順調とは言い難い。幸いリーグは別れたとはいえ、二人が公式でぶつかるためには、それぞれのリーグ戦で優勝しなければならなかった。
 AリーグとBリーグの優勝者が争い、棋聖タイトルホルダーへの挑戦者が決定する。
 まだリーグ戦は始まったばかりだが、二人の対局を叶えるために、相当の苦難を乗り越えなければならないことは充分に理解している。
 棋士になってもう四年目になるが、アキラと手合いや棋戦で当たった回数は僅か三回。そのうち一回は行洋が倒れたためにヒカルの不戦敗となり、残り二戦は名人戦の予選と、碁聖戦の二次予選で、どちらもヒカルがアキラに敗北している。
 普段碁会所で向き合う時とは雰囲気が違うせいか肩に力が入りがちだが、あの独特の緊張感をもっと味わいたいと思っているのも事実。
 できればもっと公式戦でアキラと対局したい。そのためには運と、努力が必要だった。
 和谷からの検討の誘いを断ったことに罪悪感がないわけではないが、いつの間にかあんな嘘もさらりとつけるようになっていた。今のヒカルの中には、確かな優先順位が存在している。
 もっとも、アキラとの検討や対局が有意義だと思う他に、最近はもうひとつ理由もあるのだが……
「やはりここのキリだな。芹澤先生は完全に読み切っていたんだろうな」
「キッた後にほとんど間置かないでツケられたんだよ。そん時にああ、やっちまったって思った」
「そのせいで次の手も手拍子気味になったな」
「焦っちまった。せめてこっちに厚みを持たせておけば……」
 碁盤を見つめるアキラの真剣な眼差しを上目遣いに確認し、ヒカルは負けた碁を振り返る。
 恋人同士でも、こんな時アキラは容赦しない。ヒカルの欠点と弱点をずばりと言い当て、時に随分な言葉も遠慮なく使う。
 昔はそれにいちいち腹を立てたものだが、今では有難いと思っているヒカルがいる。
「……と、ここで切断できる。これで押し切れただろう」
「そうだなあ。やっぱ不用意にキるんじゃなかった〜。」
「でも、形は悪くない。それだけに残念だったな」
「しょうがねえよ、次は落とさないから」
「ボクも乃木先生に粘り勝ちされたからな。三戦目は譲らない」
 二人は頷き合い、そして笑った。
 気持ちよく緊張していた空気が和む。ふっと肩の力を抜いたヒカルに、アキラは検討中とはがらりと表情を変えて囁いてきた。
「ところで、まだ欲しいものは考えていないのか? もうあまり日がないぞ」
「またその話かよ? だから何もいらねえっつってんじゃん」
 ヒカルは少し冷めてしまったコーヒーで口を潤しながら、呆れたように答えた。
「でも、去年キミはボクに花火をくれただろう」
「あんなのやったうちに入るかよ。何度も言ってるだろ、一緒にいられればそれでいいって」
 碁会所ということもあり、後半は小声でそっと囁くに留める。
 アキラは納得のいかない顔をしているが、ヒカルとしてもここは譲れない。
 アキラの言う「欲しいもの」とは、当然差し迫ったヒカルの誕生日プレゼントのことである。
 去年もお互い散々悩んだクチだが、そろそろ何も贈らない習慣を定着させたいとヒカルは思っていた。そうしないと、毎年趣向を凝らしたビックリ合戦になりかねない。
 これからずっと一緒にいることを考えたら、キリがないと思うのだ。何かを贈りたいという気持ちは有難いし、ヒカルだってアキラが喜ぶものをプレゼントしたいとは思う。
 しかし、これから共に過ごすはずの長い時間を思うと、少々しんどくなってしまう。
「俺はその日手合い入れちゃったし、お前も午前中は仕事だろ。お前の夜の時間を俺にくれ。それでいいから」
「……本当に?」
「本当に!」
 強い口調できっぱり告げると、アキラも渋々頷いた。
 しかし、また数日経ったら性懲りもなく尋ねてくることは間違いない。
 その都度諦めさせる努力はするが、アキラのしぶとさはヒカルが一番良く分かっている。最悪、今年は防ぎきれないかもしれない――ヒカルはやれやれとため息をつく。
 いい加減、アキラとの付き合いも長くなってきた。恐らく、アキラが思っている以上にヒカルはアキラのことをよく理解している。
 ……最近、アキラが少し不安定なことも気づいていた。


 今日のような穏やかな目をしている時は心配ない。
 時折、やけに怯えたようにこちらを見ていることがある。
 何かを怖れているような、ヒカルを伺うような眼差し。
 そんな時は、その変化に気づかないフリをして、ひたすらアキラを抱き締めてやるしか方法がなかった。
 忙しいスケジュールをくぐり抜け、なるべく時間さえあれば逢うようにしているのはそのためだ。
 多分、アキラが怖れているのはヒカルの気持ちなのだ。
 いつも、肝心な台詞はアキラが先に言ってくれた。
 ストレートに想いを表すアキラに比べて、ヒカルが言葉足らずな部分はあるだろう。
 だから伝わりきれていないのかもしれない。
 ヒカルは、アキラと自分の想いの間に温度差はないと思っていた。



 帰宅途中、電車の中でひそひそと自分を囲む囁き声に気づく。
 振り向かずに少しだけ目線をそちらに向け、女の子たちの集団がこちらを見ていることを確認したヒカルは表情を引き締めた。
 何処で誰が自分のことを見ているか分からない生活。少し前なら考えもしなかった、人の注目を浴びるという現実が日常になりつつある。
 取り巻く環境が変わることで、心まで引き摺られそうなイメージがあった。実際、塔矢アキラという人間が傍にいなければ、自分はもう少し変わっていたかもしれない。
 ヒカルの中に、「アキラ」という大きな核がある。揺るがない、確かな存在はヒカルの心の中央でしっかりと大切な気持ちを支えてくれている。
 全身全霊をかけてヒカルにぶつかってくるアキラを、受け止められる自信はある。しかし、それを怖がっているのはヒカルではなくアキラなのだからどうしようもない。
 アキラがヒカルを信じきれていない。自分は大丈夫だと、アキラを安心させる方法が分からない。
 ……ヒカルは軽く煮詰まっていた。






正直な話、蜃気楼を書かなかったらこの話は
あかりメインで終わる予定の話でした。
急遽路線変更……そして無駄に長く……
そして毎度のことですが、タイトル戦の時期も詳細も
かなりデタラメになっています。ごめんなさい。