So Deep






 つい、勢いでここまで来てしまったけれど。

 あかりは先客の女の子たちに混じり、はあと切なくため息をついた。
 すっかり薄暗くなり、日中は蒸し暑いくらいだった気温がぐんと下がって肌寒い。
 やっぱり携帯に連絡してから来るべきだっただろうか。
 でも、仕事の邪魔になったら悪いし。
 あかりは再びため息をつく。




 ***




「そうですか……ヒカル、まだ棋院なんだ」
「そうなのよ。誕生日だってのに普通に仕事入れちゃって。あの子の携帯に連絡した? 対局中で気付いてないのかしら」
「あ、いえ、連絡は……してなくて」
 あかりはヒカルの母を前に口籠る。
 ヒカルにはメールも電話もしていない。……迷ったが、わざとしなかった。
 もしもあらかじめヒカルの都合を聞いて、ヒカルに別の用事があったりしたらショックが大きすぎるから。
 そうして勇気が揺るがないうちにヒカルの家を訪れたが、恐れていた事態、ヒカルがまだ帰って来ないことを知らされて落胆する。
 仕事かもしれないとは思っていたが、夕方近くなっても戻って来ていないことがあかりを焦らせた。
 対局が早めに終わっていれば、ヒカルが帰って来ているかも――淡い期待は見事に裏切られた。
 そして新たな不安が胸を過る。もし、対局はとっくに済んでいて、何処かに出かけているのだとしたら……
 誕生日当日に誰かと予定があるのかもしれないヒカルのことを思うと、小さな胸がずきずきと疼いた。
「ヒカルが帰ったらあかりちゃんの家に行くように言いましょうか?」
「……ううん、いいです。ヒカルにメールしてみますね!」
 ヒカルの母に精一杯の笑顔を返し、あかりは頭を下げてヒカルの家を後にした。
 自分の言葉通り、携帯を握り締めてはみたものの、先程考えたようなことがあったらと思うとメールも電話も躊躇われる。
 一縷の望みをかけて、あかりは自宅に引き返し、棋院の住所を手に再び家を出たのだった。



 週間碁を愛読しているあかりにとって、記事で良く目にしている日本棋院は、訪れたことがないとはいえ馴染みのある場所だった。
 もっとも、それはあかりが一方的に思っているだけであって、実際に見上げた日本棋院の建物にやはり物おじしてしまう。
 ここまで来ただけでも自分の勇気を褒めてあげたいと思ったが、来ただけでは意味がない。できればヒカルに会って、今日の日のお祝いを伝えたい。
 そして、思いきって自分の気持ちも……。
(……ここまで来たんだから、今更恐がってたって仕方ないよね……)
 そう自分に言い聞かせてみるものの、いざ棋院に到着し、入り口に向かったあかりは思いも寄らない光景を見ることになってしまった。
 数十人の女の子が、入り口を囲むようにして中の様子を伺っている。
 年はあかりとそれほど変わらない子が多い。彼女達は銘々服装や化粧に力を入れ、手にはプレゼントらしいものを持って待機している。
 すぐに理解した。――彼女たちはヒカルを待っている。
 あかりは胸の息苦しさに顎を引き、ごくりと喉を上下させる。
 やはり、あの雑誌のせいだろうか。
 目敏い彼女たちは、あかりと同じくヒカルが出て来るのを待っている……
 幼馴染みという立場から、大勢のファンと同じ位置に立たされたあかりは、焦りと戸惑い、そして嫉妬を感じていた。
 心の何処かで、自分だけは特別だという思いが強かったせいかもしれない。
 しかし、こうして棋院を囲む彼女たちに混じってしまえば、端から見たあかりはただのファン以外の何者でもなかった。
「ねー、進藤くんまだかなあ」
「遅いよね〜。昼から待ってる子もいるから、中にいるのは間違いないと思うけど」
「なんか寒くなってきたよねえ。中入りたい〜。でもまたあのオヤジに怒られんのやだしー」
 近くの女の子たちの会話に耳をそばだて、ヒカルがまだ棋院にいることを知ってほっとする。
 そして、何故彼女達が中に入らず入り口前で待機しているのかも飲み込めた。ざっと見るとほとんどが複数人のグループで来ているようで、自然と騒がしくなる。恐らくロビーに集まって騒々しさに注意を受けたのだろう。
 とてもあかりが一人で中に入って行ける雰囲気ではない。明らかにプレゼントらしい紙袋を持った自分が、彼女達を差し置いたら何を言われるか。
 同性として集団女性の心理を分かっているだけに、そんな恐ろしいことはできなかった。
 結局、どうすることもできずにあかりもまた入り口の前でぼんやりヒカルが出て来るのを待っていたわけだが。
 ふいに中から出て来た青年に、女の子たちが一瞬ざわめいた。
 すらりとした青年はあかりたちより幾分年上のようで、涼し気な眼差しが落ち着いた雰囲気をかもし出している。モデルみたい、と彼の佇まいについ見蕩れてしまったあかりだが、その青年がまっすぐあかりの元に歩いて来ることに気付いてパニックを起こした。
「君、あかりちゃん?」
 目の前で穏やかに尋ねられ、あかりは理由もなく真っ赤になる。
 うまく言葉が出なくてただ頷いた。――この人、週間碁で見たことがある。棋士であることは間違いないが、名前が思い出せない……
「悪いんだけどちょっと来てくれる? すぐだから」
 青年ににっこり微笑まれ、あかりはぽーっと頬を染めながらかくんと首を縦に振った。
 腕を取られるがまま優しく引かれ、もつれる足を必死で前に進める。周囲の女の子たちの羨望と嫉妬が入り乱れる視線を一身に浴びながら、あかりは初めて棋院の中へ入って行った。


 青年の先導でロビーを横切り、入り口から死角になっている場所まで来たところで、あかりははっと目を見開いた。
「あかり」
 そこにヒカルがいた。
 あかりの思った通り、見知った姿より少し背が伸びた様子で、大人びた目であかりを見ていた。
 ヒカルはあかりに小走りに駆け寄り、連絡くらいしろよと怒った調子で口を尖らせる。そんな仕種は昔と変わらず、あかりはほっとしながら胸を痛めた。
「冴木さん、ありがと。あかり、こっちが先輩棋士の冴木さんで、こっちが和谷」
「おい進藤、俺の紹介がやけにぞんざいじゃねえか?」
「そんなことねえよ〜。あ、和谷は同期な。知ってんだろ?」
 あかりは相変わらずうまく言葉が出て来ないまま、頷き続けた。ヒカルから何度か名前を聞いたことがある和谷という棋士は、ヒカルのプロ入りが決まった時の週間碁に並んで顔写真が載っていたのでよく覚えている。
 その和谷という青年もまた、あかりが写真で記憶していた顔よりは随分大人っぽくなっていた。
 あれからもう何年も経った。少年達が成長しないはずがない。
 しかし、自分と言えばあの頃と何が変わったのだろうと考え始めると、痛む胸はよりざわめくのだった。
「あかり?」
 名前を呼ばれて、あかりは顔を上げる。
 以前よりも高い位置にあるヒカルの顔が、やけに優しく見えた。
「進藤、この後どうすんだ? すぐ帰るのか?」
 冴木の問いに、ヒカルは少し間を置いて答える。
「んー、ちょっと寄るとこあるから。その前にこいつ駅まで送ってくよ。もう暗いし」
「そんなこと言って送り狼になる気なんじゃねえのか?」
「バッカ、そんなわけねえだろ!」
 笑顔で和谷の言葉を否定したヒカルの態度は、あかりの不安を助長させるのに充分だった。
「じゃあ、お前らが出てしばらくしたら彼女たちに帰るよう守衛さんに伝えてもらうよ。お前は先に出てろ」
「うん、ありがとう冴木さん」
 裏から出るからと促され、ヒカルの後をついては行くものの、ヒカルのさりげない台詞が頭から離れて行かない。
 ――ちょっと寄るとこあるから。
 ヒカルはこの後どこかに行くのだ。真直ぐ帰宅するなら、駅までと言わず家まであかりを送ってくれるだろう。
 いや、その前に、さらりと「暗いから送る」なんてことを言うヒカルが信じられなくて、見えない距離を感じた。


 ヒカルの言う通り、すでに暗くなっている外の空気はやけにひんやりとしている。
「もう秋かなー。昼間は暑かったのにな」
 独り言ともとれるヒカルの言葉に、あかりは「そうだね」とだけ答えた。
「それにしても、来るなら来るってメールくらいしろよな。お前、俺が見つけなかったらどうすんだよ。」
「……ヒカル、よく私がいるって分かったね。」
「ん? ああ、そりゃ見たら分かるさ。でも見落としてもおかしくないだろ? あんだけ人がいたんだからさ……」
 喋りながらどんどん歩いて行くヒカルは、あかりがついてくるのを当然だと思っているようだ。
 あかりは小走りになる。そうしないと、ヒカルに追いつけない。
 ――ヒカル、速いよ。
 以前なら何も気にせずに言えた言葉が、今は言えない。
 ヒカルの歩幅は前よりも広くなって、あかりがついて行けないことに気付いていないヒカルに、そんなこと言えない。
 どんどんヒカルが遠くなる。ヒカルの背中はこんなに広かっただろうか? あかりが知らないうちに、少年から青年に変わっていたヒカルは、あかりを駅まで送った後に何処へ出かけて行くのだろう?
 たくさんいたファンたちの中からあかりを見つけ出してくれた、それがこんなに嬉しいのに、張り裂けそうな程胸が苦しいのは何故なんだろう?
 ヒカルが遠い――
「――ヒカル!」
 強めに名前を呼んだ瞬間、ヒカルがぴたりと立ち止まった。
 あかりはようやく手の届く距離に留まったヒカルの背中に、全ての躊躇いを振り捨てて飛び込んだ。






再びあかり視点で。
意外にもこの話が8話中一番テキスト量が多かったり。
ちょっと薄ら寒い感じ。女の子難しい。