どん、と背中に何かがぶつかってくる感触。 同時にふわりと香水のいい匂いがして、ヒカルは息を呑んだ。 あかりだと、すぐに頭では理解した。しかし、身体は思うように反応してくれなかった。 ――なんとなく、予感はあったのだ。 あかりが女の子に混じって自分を待っていたのを見た時から。 とろうと思えばいつでもとれるはずの連絡を、一切寄越さずに現れた時から。 それでも心の何処かで否定しようとした。したかった、というのが本音かもしれない。小さい頃からよく知る少女が、他でもない「異性」であるという事実を。 「……あかり」 低い声で穏やかに名前を呼ぶと、背中にしがみついているあかりの腕に少し力がこもったようだった。 ヒカルは目を伏せ、そして閉じた。それから息を深く吐き、もう一度あかり、と呼んだ。 静かな拒否を理解したのだろうか。あかりの怯えたような動きが背中に伝わってくる。 あかりはしばらく戸惑っていたのか、無言のまま――やがてそっとヒカルの背中から離れた。 背中から熱が消える。ヒカルは動かなかった。 「……ヒカル……、私」 切羽詰まった声色を聞き、ヒカルは思わずあかりの言葉を遮ろうとした。 それを強い意志でぐっと留めた。 避けてはいけないことなのだと自分に言い聞かせる。 振り向く勇気はすぐには持てなかったが、背を向けたままあかりの言葉を受け止める覚悟を決めた。 「私……、ヒカルが、好きだよ……。」 ヒカルは閉じていた目を開いた。 か細い声に心が痛む。いつも明るくて元気で、少年のようにヒカルと走り回っていたあかりの声とは思えない。 きっと相当勇気を振り絞ったのだろう。――ならば自分も誠意を持ってその勇気に応えなくてはならない。 ヒカルはゆっくりとあかりを振り返り、小さく深呼吸して、口を開いた。 「……ごめん」 最初に出て来た謝罪の言葉に、あかりの顔が強張る。 冴木に頼んであかりを連れて来てもらってから、初めてまともにあかりを見たような気がする。 ヒカルが覚えているあどけなかった顔立ちは、薄ら化粧を施されているようで、記憶よりもずっと大人っぽく見えた。見慣れないアップの髪型もあかりによく似合っている。 ヒカルが知らないうちに、あかりは女性になっていた。 そんなあかりの想いを知ってしまった今、……もうただの幼馴染みには戻れなかった。 「俺……好きなヤツがいるんだ」 僅かに眉を顰め、小さく、しかししっかりと呟いたヒカルの言葉に、あかりが少しだけ顔を歪める。 それでもある程度の覚悟は出来ていたのか、ヒカルが思ったほどあかりは大きなショックを受けていないように見えた。 あかりは自嘲気味な微笑みを見せ、小さな声でヒカルに尋ねる。 「……、その人、棋士の人?」 「……ああ」 ヒカルは一瞬躊躇ったが、すぐに肯定した。 もしもあかりにそれは誰かと聞かれたら、塔矢アキラだと答えても構わないと思った。 せめて、幼い頃から兄妹のように育ったあかりには嘘をつきたくない。それが、ヒカルにとってのけじめだった。 しかしあかりはただ哀し気に微笑むばかりで、その先を尋ねようとはしなかった。 「……そっか……。」 そうため息混じりに呟いて、あかりはにっこりと笑った。少し無理が残る、精一杯の笑顔だと分かったヒカルは胸を押さえたくなる。 「それなら仕方ないね……。私には、どんなに頑張ったって追いつけないや」 「あかり……」 「ヒカルの傍にいたくて碁を始めたけど、全然上達しなかったもん。才能ないんだなあ。仕方ないよね……」 「あかり、俺」 言いかけたヒカルを、あかりのきっぱりとした笑顔が遮った。 その瞳の強さにヒカルは声を失う。 「ここまででいいよ。……一人で帰る」 あかりはヒカルの脇を擦り抜け、手に持った紙袋もそのままに歩き出した。 「渡すの、やめるね。……大勢の中の一人になるのは嫌なんだ」 「……あかり……」 「バイバイ、ヒカル」 振り返ったあかりは変わらず笑顔で、しかしヒカルから顔を背ける瞬間、その表情がぐしゃりと崩れたのをヒカルは見逃さなかった。 ヒカルに背を向けたあかりはそのまま走り出した。立ち尽くすヒカルを置いて、あかりの後ろ姿が遠く小さくなっていく。 ヒカルは眉を寄せ、口唇を噛んだ。 背中に感じた知らない温もり。 アキラとは違う、小さな身体と女性の匂い。 もしも、アキラが自分を好きだと告げていなかったら、あの温もりを抱き締めることもあったのだろうか…… ヒカルはきつく目を閉じ、それから険しい顔で目を開いた。 ――俺はもうアイツと出逢ったのに、「もしも」なんて考えてたまるか―― あかりが消えた方向から踵を返し、ヒカルは走り出す。 今の自分が誰より逢いたいと思っている人の元へ、一刻も早く向かうために。 *** チャイムを押すと、少しの間を置いて、中から人の気配を感じた。 人影が鍵を外す仕種が、今日はやけに遅く感じる。苛々と足踏みしながら、ヒカルは引き戸が開くのを待った。 カラカラと乾いた音と共に愛しい人が顔を出すのを見た途端、ヒカルは一も二もなくその首筋に飛びついて行く。 「進藤!?」 さすがに驚いた声を出したアキラだが、すぐにヒカルの背に腕を回して受け止めてくれる。 そのまま背中を押すように玄関の中へ誘導され、ヒカルはアキラの肩に顔を埋めたまま引き戸が閉まる音を聞いた。 「どうしたんだ? 何かあったのか?」 戸を開くなり飛び込んで来たヒカルに、アキラが少し心配そうな声で尋ねて来た。 対局が終わったら行くとあらかじめ伝えてはあったものの、実際に棋院を出た時に連絡を入れた訳ではない。普段ならこれから向かう旨のメールなり電話なりを寄越している自分が、突然こんなふうに現れたものだから不安に思うのも無理はない。 そんなアキラを思い遣って、何でもないフリをする余裕が、今のヒカルにはなかった。 ヒカルは顔を上げ、目の前にあったアキラにふいに口付ける。深くはあったが、重ねるだけのキス。きっとアキラは目を見開いているだろう。 ほんの二、三秒押し付けた口唇を離し、ヒカルは至近距離でアキラを見つめながら告げた。 「プレゼント、もらいに来た。……お前が欲しい」 ヒカルはアキラの端正な顔が、驚きで強張るのを見て微笑み、その胸に顔を寄せた。 ……自分はもう、この温もりしか欲しくない。 |
ちょっとMaybe〜のヒカルとリンクしてきたかな……
思い立ったら即行動の辺りが。