TOKYO FANTASIA






「いらっしゃいませ」
 カラン、という鐘の音と共に客の背後でハサミを握っている店員が振り向いた。
 店員はヒゲをたたえた中年の男性で、彼の前に座る男性もまた薄い頭髪を器用に切り揃えてもらっている中年男性である。
 洒落た店とは程遠いが、構わないだろうとアキラはカウンターで店員の反応を待った。
「ちょっと待ってくださいね。おーい、ヒカル! おーい!」
 何やらヒゲの店員が店の奥に向かって大声を上げ始めた。数秒の間を経て、奥からばたばたと騒々しい足音が聞こえて来る。ひょいっと店に顔を出したその青年は眩しいほどの金色の前髪の持ち主で、アキラは思わず目を丸くする。
「ヒカル、若いお客さんだからお前頼む」
「へーい。いらっしゃいませ〜……っと」
 ヒカルと呼ばれた青年はひらりと店に降りて来て、飄々とした雰囲気でアキラに近付いて来た。
 そして営業用なのだろうか、満面の笑みを浮かべてアキラに顔を向けた瞬間――彼の顔が強張った気がした。
「?」
 アキラが首を傾げると、ヒカルははっと身体を揺らして再び笑顔に戻り、「どうぞ」と椅子へ誘導してくれる。にこにこと屈託ない様子を見ていると、先ほどの強張りは気のせいかとアキラも深く考えないようにした。
 座席の傍に備え付けられたカゴへ荷物を入れ、椅子に腰を下ろすとふわりとケープが巻かれた。
「凄く綺麗な髪ですね。どうしましょう?」
 ヒカルはアキラの長髪をさらさらと指に流しながら、軽い調子で尋ねて来た。
「実は、子供に悪戯されて。……ガムが」
「え? ……ああ、ホントだ。派手に絡まってますね〜」
「その部分だけ切ってもらえますか」
「はーい。ああ、でも綺麗な髪だなあ……」
 うっとりと呟きながら艶やかな髪に手櫛を入れ、何度も何度も梳いているヒカルにアキラは一抹の不安を覚えた。
 鏡越しにヒカルの様子を観察する――若い彼は顔立ちは随分幼く見えるが、声の低さやかもし出す雰囲気からアキラとそう変わらない年齢かもしれない。ヒゲの店員が店長で、彼は見習い店員といったところだろうか? しかし店長がこうしてアキラを任せたのだから、見習いの腕ではないのだろう。……そう思いたい。
 金色の前髪とはまた奇抜な髪型の青年だ。鼻歌を歌いながらアキラの髪を満遍なく触り、ようやくブラシを手に取って丁寧に梳き始めた。
「ガムのところだけなら2センチってとこっすね。うーん、もうちょっと動きつけてみない? 髪質いいなあ、こんだけ長いのにすげえ綺麗だ。何か特別な手入れしてます?」
「いや、特には……」
「そうだなあ、サイドにちょっとシャギー入れてみるとか。分け目ももうちょっとこっちに……あんまりきっちり揃えないで不揃いにしても面白いかも。内側軽く梳いて厚み減らしたり」
「あの……あんまり難しいことは……」
 ヒカルはアキラの髪を持ち上げたり左右に流したりしながら、早口でよく分からないことをまくしたてる。アキラはヒカルの言葉の半分も理解できずに困った顔をしてみせた。
「難しいことないっすよ。顔のラインがこうでしょ。今みたいにゆったり流すのもいいけど……ちょっと重たいかな。ね、数センチと言わずもうちょっといじってみません?」
「はあ……ボクはよく分からないから……」
「じゃあ俺の好きにしていいっすか?」
 鏡の中のヒカルと目が合った。
 その悪戯っぽい笑顔の中央できらきら輝く瞳と視線がぶつかった時、アキラはなんだか毒気を抜かれたようにかくんと頷いてしまった。
「おっし、んじゃ任せて!」
「ヒカル、あんまりお客さん困らすな」
「大丈夫っすよ〜店長! ね、お客さん!」
 ヒカルに顔を覗き込まれ、アキラも曖昧に首を縦に振る。
 それでは、と霧吹きを手にしたヒカルは、先ほどの鼻歌を再開させてアキラの髪を満遍なく濡らし始めた。
 ふと、アキラは鏡の中で揺れるヒカルの指先に気を取られた。
(……あれ……?)
 霧吹きから梳きバサミに持ち替えたヒカルの右手指先、何だか引っ掛かる。
 思わず鏡に向かって目を凝らしたアキラに、ヒカルは呑気な声をかけてきた。
「お客さん、学生さん?」
「……いえ、学生では」
「じゃあ仕事してるんだ? 何の職業?」
「……、棋士、を」
 どうせ言ったところで分かるまい――アキラは気付かれないようにため息をつく。
 どうやらお喋り好きな店員に当たってしまったようだ。相手をするのは疲れるから、早々に目の前に積んである雑誌に手を伸ばして会話を遮断してしまおうか。
 そう思った時、
「へえ、囲碁のプロ? すげえな。名前は?」
 すんなりとヒカルの口から「囲碁」という言葉が出て来て、アキラは唖然と瞬きした。
 棋士と言っても、それだけでは囲碁なのか将棋なのか分からない。それどころか、大抵の人間は「キシ」という発音で「棋士」という字面を思い浮かべることさえ困難なはずだ。
 それなのに、何でもないことのように「囲碁」という単語を挙げたヒカル。
(……彼の指。……やっぱり……)
「お客さん? 名前は?」
「え? ……ああ、塔矢です」
「塔矢……って、ひょっとして塔矢名人の……」
 ヒカルの言葉にアキラは僅かに眉根を寄せた。
 それでもすぐに小さな笑みを浮かべてみせる。
「息子さん? うわ、マジ? すげえ、俺でも名前知ってるよ。マジかあ、すげぇなあ」
 無邪気なヒカルの感嘆の声が耳に痛い。こんなふうに素直にはしゃがれると何だか胸が苦しい。
 囲碁とは全く関係のない場所に来てまで、こうして父の名前が立ちはだかっている。いつでも、どこでも。
 偉大な父の存在の下では、自分など「塔矢行洋の息子」という代名詞以外の何者でもなくて。

『お母さんはね、願を掛けていたのよ』

 それでも碁が好きだったから。
 父の影響とはいえ、自分で選んだ道だったから。
 打つことは楽しかった。大人たちに囲まれて、来る日も来る日も囲碁ばかり、学生時代の思い出などろくに残ってやしない。

 シャキ、と軽快なハサミの音が響いた。

 鏡の中で器用に動くヒカルの指先にぼんやり見蕩れながら、はらはらと床に落ちる黒い髪に目を細める。
 ――どうせ大した願いじゃない。
 プロとして社会に出てから早七年、どれだけ待っても願いを叶えてくれるような人間は現れないことはよく思い知った。
 アキラの周りにはいつも年上の高段の棋士たちがいて、彼らと打ち合うことは何よりの勉強になり、楽しくも有り難い時間を作り出してくれる。
 その現実に何の不満があるだろう。今の一歩踏み出し切れない状況を作っているのは他ならない自分の責任だと言うのに。

 シャキ、シャキ、とハサミが踊る。

 分かっている。
 尊敬する父は同時に畏怖の対象でもあった。
 彼がいる限り、アキラは「塔矢アキラ」という個の存在ではなく、飽くまで塔矢行洋のジュニアにすぎないという事実も受け入れているつもりだった。
 それはすなわち、例えアキラがどれほどの努力の末に勝利をもぎ取っても、努力以前に父という大きな庇護の力が認められるという苦しみを受け入れることだった。
 何処まで行っても所詮「塔矢行洋の息子」でしかないアキラは、父の名の下に棋界に身を置くしかなかった。
 さすが塔矢先生の息子さんだ。――塔矢先生の息子さんなのにねえ。
 彼らの声を全て受け入れて、この道を選んだのだ。分かっている。分かっているけれど、それが無性に苦しい時もある。

 シャキ、シャキ。小気味良い音は耳に優しい。

 取り巻く状況は恵まれ過ぎている。格上の棋士たちと打ち合う日々。最早、年の近い棋士に敵はいない。
 父の名を背負い、先を行く棋士たちに続けと前を見て走り続けて来た。その影で、僅かな物足りなさを感じていたことはもう遠い思い出にしなければ。

『願を掛けていたのよ』

 髪を伸ばしていたのはほんの冗談だったのだ。
 誰も現れやしない。
 アキラを「アキラ」として見つめてくれる、共に力を高め合える好敵手なんて――……




 ――お願いが叶ったから、身も心も軽くなったの――




「はい、出来上がり!」
 ヒカルの声にはっと意識を取り戻したアキラは、鏡に映った自分の姿を見て――絶句した。
「どう? すげえいい感じでしょ? 絶対あんたに似合うって思ったんだ」
「あ……、あ……」
 言葉にならない声を漏らすアキラを不審に思ったのだろう、隣の客の相手をしていた店長が振り向いた。
「ひ……ヒカルッ……!」
 店長が悲鳴じみた声を漏らす。
「お前、どんだけ切りやがったんだ! お客さん、2センチって言ってただろっ!」
「ええ、だって俺の好きにしていいって」
「限度があるだろう! バカ野郎、お前こんなに派手に切っちまって……!」
 二人のやりとりを何処か他人事のように聞きながら、アキラは呆然と鏡を凝視し続けた。
 少し前まで腰に届いた豊かな黒髪は、見事に顎のラインでばっさり切り揃えられ――サイドにけばけばしくない程度にシャギーは入っているが、いわゆるおかっぱのスタイルに整えられてしまっていた。
 切られた髪の量は半端なものではない。見下ろせば、床にはこんもりと黒髪の山が出来上がっている。それはそうだ、七年。七年もハサミを入れていなかった髪なのだ。それが、今やただの塊になっている。
 わなわなと、口元が震えて来るのが分かった。軽く頭を動かしてみる。あまりの軽さに失神しそうだ。
「まずかった? お客さん……お客さん?」
「ふ……」
「お客さん……?」
「ふざけるな!」
 がたんと立ち上がったアキラに巻かれていたケープがふわりと広がり、その上に乗っていた髪の毛が辺りに舞った。
 突然物凄い剣幕で怒鳴ったアキラに、ヒカルも店長ももう一人の客も飛び上がって目を丸くしている。
 アキラは乱暴にケープを剥ぎ取ると、ヒカルの右手首を掴んだ。いて、と情けない声を出すヒカルを無視してその手を捩り上げる。
 素早く指先の爪の様子を確認したアキラは目を細めた。
(――間違いない)
「痛い、お客さん痛いって。ごめん、切り過ぎた。でも似合うと思ったんだよ」
「……キミ、名前は」
「お、俺? ……進藤。進藤ヒカル」
 半泣き状態の哀れな表情でアキラに許しを請うヒカルをじろりと睨み付け、アキラはきっぱりと口を開いた。
「……進藤。キミ、碁を打つな?」
「……え?」
 予期していない言葉だったのだろう、ヒカルの目がきょとんと丸くなる。
「碁を、打つだろう。この爪。すり減ってる……相当打っているだろう?」
「え……と、まあ……その……」
 ヒカルはアキラから視線を逸らした。
 急に歯切れが悪くなったヒカルにアキラは苛立ちを感じ、痛がる手首から手を離す代わりにびしっと伸ばした人さし指をヒカルに向けた。
「――ボクの髪を切った罪滅ぼしだ。ボクと一局打て」
「ええっ!? だ、だってお前プロだろ!?」
「そんなこと関係ない。キミはボクの髪を切ったんだ。ボクの願いを叶えてもらおうじゃないか」
「ね、願い……?」
 頭に「?」マークを飛ばすヒカルに構わず、アキラは再びヒカルの腕を掴んでずんずんと歩き始めた。引き摺られるヒカルが抵抗しようと踏ん張るが、アキラの馬鹿力はそれを許さない。
「来い! ボクと打ってもらう!」
「待てって! 俺、仕事中……店長、助けて!」
 空いた左腕を伸ばして店長に助けを求めるヒカルに対し、アキラは胸ポケットから財布を取り出して数枚の札を抜いた。それをカウンターにどんと叩き付け、有無を言わさない表情で店長を睨み付ける。
 店長は苦虫を噛み潰したような表情で、どうぞ、とアキラに頭を下げた。
「店長〜〜!」
「さあ来い!」
 喚くヒカルを引き摺りながら店の外に出ると、すっかり軽くなった髪の隙間から冷たい風が入り込んで来た。



 ――身も心も。軽くなったのよ。



 アキラは天を仰ぎ、苦渋の表情で暗い星空を見据える。
 軽くなったのは身体ばかり――
 苛立ち紛れに捕まえたのは、おろおろと慌てるこのうるさい青年一人。
 とても願いは叶いそうにない。
「さあ、歩け!」
「ちょっと待てって、俺仕事着のまま……!」
 それでも、彼に責任をとってもらうしかない。





 ――大した願いじゃない。
 でも、願わくば。
 共に高みに迎えるような、ボクのライバルが現れますように――








中途半端な終わりかたですいません……!
このお話はですね、「慰めなんていらないっ!」の慧様が日記にて
描かれてらっしゃった美容師ヒカルのイラストに見事に一目惚れ状態で、
ちまちま書いて恥ずかし気もなく押し付けてしまったものなのです。
何と傍迷惑な……!ホント、突然すいませんでした……。
おまけに思いっきり変なところで唐突に終わっています。
ちょっと落ち着いたら続きを書いてみたいなあ……なんて。
でも漏れなく長くなりそうなので一旦クールダウンします。
皆さんが忘れた頃にふらりと続きを書くかもしれません〜。
(BGM:TOKYO FANTASIA/山下久美子)