Time has come






 イベントは午前十時開始だった。
 ホテルのホールを借り切ったアマチュア向けの囲碁イベントには、朝から多くの人が訪れている。中年から初老の男性が大半を占めていたが、ちらほらと若い人の姿も見られる。中には親子連れで、小さな子供が会場内を走り回っている姿もあった。
 ヒカルたち低段者は主に指導碁を行い、朝は会場設備も手伝ったりした。
 本来、メインイベントとして芦原がステージ上で低段者との対局を行い、その様子を冴木が解説する予定だった。代わりに段上に上がるのはアキラとなったが、その落ち着きぶりはとても十五歳のものには見えなかった。
「あいつ、芦原さんより変な貫禄あるよなあ」
 和谷が肩を竦めながら呟く。
 ヒカルもそう思ってしまった。碁盤の前に向かうアキラは、誰より真剣で凛々しい。アマチュアイベントということで、いつもよりもずっと分かりやすい碁を打っていた。さながら指導碁のようで、解説者が説明しやすいポイントもしっかり作っている。
 そんなアキラの気配りは、今のヒカルにはまだまだ難しいものだった。
(やっぱ、アイツって凄ぇ)
 ヒカルは冴木が解説するアキラの碁をぼうっと見ていた。
 初心者にも今の手がどれほど効果的なのかよく分かる一手。
 相手はアキラよりも随分と格下だというのに、あまりに勝ちが過ぎないように調節しながら、美しい黒と白の空間を作り上げる。
 キレイな棋譜だ。ヒカルはアキラが持つ白石が、巧みに黒石を誘導する様に見惚れた。
 同時に悔しくもあった。あそこで対局しているのが自分だったら、アキラはどんなふうに打っただろう? もう散々碁会所で打ち続けているの言うのに、お互いの底はまだまだ深い。打つたびに新しい発見がある。
「おい進藤、お前大盤ばっかり見てるけど時間いいのか?」
 和谷の声にはっとして時計を見ると、ヒカルの指導碁の時間まであと数分というところだった。
「やべっ、指導碁だ」
 慌てて指導碁を行っているブースまで走るが、アキラの対局にやや後ろ髪が引かれる。
 アキラはどんな鮮やかな終局を見せてくれるだろう。
(後で冴木さんに詳しく聞こう)
 ヒカルは時間ぴったりに指導碁を行う席に着くことができた。
「いやあ、よろしくお願いします」
 ヒカルの前に座ったのは、祖父と同じくらいの年の男性だった。穏やかそうな垂れた目と、白髪ながらもふさふさとした頭髪で、笑顔の優しい老人である。
 ヒカルは少しほっとしながら、いつものように棋力を尋ねて置石を置かせる。
「いやあ、わしにもあんたくらいの孫が居てね、応援してたんだよ。北斗杯は惜しかったねえ」
「へへ」
 ヒカルは少し笑って頭を掻く。
 北斗杯の敗北は大分吹っ切れていた。半目負けたのは実力差。しかしアキラのその後の言葉どおり、あれで終わりではない。再び高永夏と対峙するその時まで、ヒカルも目いっぱい走るつもりだった。
 パチ、パチ、と碁石の置かれる音が心地よい。老人の年輪が刻まれた指から、素人ながら読みの深い一手が次々に置かれる。ヒカルは穏やかな気持ちで、純粋にこの対局を楽しんだ。
「それにしても、北斗杯では興奮させてもらったが、その立役者が二人も来てくれるとはねえ。塔矢三段は相変わらず落ち着いていて大人びてるねぇ」
「あいつはこういうの、慣れっこだから」
 ヒカルは老人に分かりやすく急所を示してみせる。
 ただ闇雲に強い棋士を目指すのは寂しい。
 佐為に教わった、囲碁の楽しさを広めることもまた、ヒカルが継いだ重要な仕事だと思っていた。
「慣れっこねぇ。親父さんも凄い人だからなぁ。しかし、それを鼻にかけない偉い息子だよ。あれは努力の結果だね。」
 老人がヒカルの一手に感心しつつ、アキラのことをそんなふうに褒めた。
 なぜかヒカルが照れ笑いしてしまった。――アキラが褒められるのは嬉しい。それも、アキラ自身の頑張りが褒められると特別嬉しいのだ。
 アキラは努力の人だ。誰もがそう言うが、それでも彼に偉大な父親の影をちらつかせない人は少ない。
 時に塔矢行洋の名はアキラの枷ともなったはずである。根拠のないやっかみを受けることもしょっちゅうだ。それらを背負い、アキラは自分の足でここまで歩いてきた。それはアキラと何度も打ち続けたヒカルにはよく分かる。
(――塔矢にも、塔矢の碁がある)
 ヒカルが佐為から、ヒカルの碁として道を受け継いだように。
「はああ、まいった。負けました」
 目の前の老人が明るい笑顔で投了を告げた。
 ヒカルも笑い返し、和やかな雰囲気のまま検討を開始した。



「よ、お疲れ」
 午前中最後の指導碁を終えたヒカルのところに、同じく解説が終了した冴木がやってきた。
 ヒカルが碁石を片付けながら顔を上げ、冴木と分かると顔を綻ばせる。
「冴木さんもお疲れさま! 解説、しやすかったみたいだね」
「分かったか? やっぱりアイツは凄いな。俺でも何とか解説っぽく聞こえただろ?」
「聞こえた聞こえた、塔矢に解説を指導碁されてるみたいだったけど」
「こいつ」
 冴木は軽くヒカルを殴るフリをする。ヒカルは笑いながら、碁笥に石をしまっていく。
「冴木さん、後でさっきの対局詳しく教えてよ。俺、指導碁入ってて後半きちんと見れなかったんだ」
「ああ、いいけど。でもまあ、それは帰ってからかな。今夜はお前らの部屋で宴会になるだろうし」
「そうなの?」
 ヒカルがきょとんと冴木を見上げる。
「お前らの部屋三人押し込まれてるだろ。和谷と、あと田村か? 行きやすいから、後で何人か集まる仕様になってんだよ。俺も後から行くから」
「ふーん」
 ヒカルはちらりとアキラのことを考えた。
 ――たぶん、来ないだろう。アキラにとって見知った顔はほとんどいないし、狭いトリプルの部屋に男が何人も集まるなんて聞いたらきっと顔を顰める。
(しかも、あいつ酒にめちゃ弱いし)
 ヒカルは、アキラから告白を受けるきっかけとなった一連の事件を思い出して赤くなった。
「いやさ、芦原さんが急に休んだから、俺と塔矢が同室なんだよな。芦原さんでも微妙だったけど、塔矢相手だとどうも気まずくてさ」
 冴木が小さな声でヒカルの耳元に囁く。
 ヒカルは思わずまじまじと冴木を見てしまった。
「気まずいの?」
「まあ、二人になっても話すことあんまりないしなあ。あいつはあの通りだろ? だから早々に逃げてくる予定だよ」
 情けないけどなあ、と冴木は続けた。
 ヒカルはしばし黙ったまま冴木を見続け、自分でも予想しなかったほどごく自然に口を開く。
「……俺、部屋代わろうか。」
「え?」
 冴木に聞き返され、ヒカルがはっとする。
(俺、何言って……)
 思わず口を押さえたが、冴木は聞き逃さなかったようだ。
「代わってくれる? 本当にか? お前、塔矢とでも平気なの?」
「あ、あの、えーと……、ほ、北斗杯前の合宿で塔矢ん家泊まったりしたから、ま、まあ……平気」
 想像以上に乗り気な冴木に、ヒカルも作り笑いでごまかすしかなかった。
(俺ってバカか? つい勢いで言っちまったけどダメダメじゃん!)
 アキラと二人で話すのには困らない。気を使わない、気まずくもない。アキラだってそうだろう。
 問題は、夜二人きりになることである。
(あああしまった〜)
 わざわざアキラを喜ばせてどうするのか。
 この前なんとかアキラの暴走が止まったからと言って、次も止まる保証はないのだ。
「俺のために言ってくれてるのか? 気持ちはありがたいけどあんまり無理すんなよ。お前だって塔矢と一晩一緒だったらちょっと緊張するだろ?」
(無理?)
 ヒカルのアンテナが天邪鬼な反応を示す。
 ――そこまで言わなくてもいいのに。別に塔矢と一緒に居て無理してることなんてないし。
 冴木の、まるでアキラと同じ部屋で一泊することが罰ゲームであるみたいな言い方に、ヒカルはついムキになった。
「全っ然大丈夫」
 頼もしい一言に冴木の顔が綻ぶ。
 ヒカルは僅かな撤回のチャンスを自分から逃したことに気づいたが、もう遅かった。すっかりその気になった冴木は「後で荷物動かしとくわ」と笑顔でヒカルから離れていってしまう。
 冴木がアキラにこのことを伝えたら、アキラはどんな顔をするのだろう。
「……」
 冴木は今夜、元のヒカルの部屋が宴会場になると言った。当然ヒカルにも声はかかるだろうし、ヒカルも行くつもりだ。そしてアキラは来ないだろう。
 遅くまで宴会に参加して、アキラの待つ部屋に戻ったら即寝してしまえばいい。後は。

『キミがその気になるまで、待つから』

「アイツの言葉を信用するしかないか……」
 正直、待たれても困ってしまうのだけれど。
 それでもその気にならない保証もないと思ってしまうあたり、ヒカルも相当毒されているようだ。





もうヒカルの悩みなんて本当に今更すぎますが。
アキラよりは助走が長くいるかなと思うのです。
それにしても冴木さんに変な役押し付けましたが、
多少なりともヒカルの誤解も入ってるということで。
みんなアキラが嫌いではなく、苦手なだけでしょう。
ヒカルちょっと過剰反応です。