イベント初日も無事に終了し、めいめい夕食をどこでとるかの相談をし始めた頃。 「お前、冴木さんと部屋変わったんだって?」 明らかに不服そうな和谷に、ヒカルはつかまってしまった。 「あー、うん、そうみたい……」 曖昧に笑い、語尾のため息を気づかれないように濁す。 早速昼の休憩時間に荷物を移動した冴木のことを、ヒカルは他の誰でもなくアキラ自身から聞いたのだ。 『冴木さんと部屋代わってくれたんだって? それってボクのため?』 対局中の姿からは想像もできないほど破顔したアキラの顔を思い出す。 アキラも冴木も喜んでいるのに、ヒカルだけ素直に喜べない。 アキラと一緒にいるのは構わない。が、同じ部屋で一泊となると嫌でも今までのことを思い出す。 本当に、今更だとは思うのだ。 北斗杯前の合宿で、ひとつの布団に一緒に寝た。 北斗杯が終わった後は、ホテルのベッドの上で未遂とは言えかなり濃厚な状況になっていた。 ヒカルは仮説を立てる。ひょっとしたら自分のほうがアキラよりはるかに速いスピードで変わってしまうのではないだろうか? ――自分はそれが怖いのではないか。 (だって、やっぱりおかしいだろ、俺) 五月五日のあの夜、体重を預けてきたアキラの首に、ヒカルは思わず腕を回したのだ。抵抗する気持ちよりも大きな何かが胸をせり上がってきて、アキラの口付けに気づけばヒカルは反応していた。 他の誰とも触れ合う経験のなかった口唇が、アキラの口唇を追ってしまった。 今まで考えないように考えないようにしてきたことが、どんどん頭を支配する。 アキラの潤んだ目、荒い呼吸。アキラのニオイ。 「よく塔矢と同室オーケーしたなあ。なんか息詰まりそうじゃねぇ?」 和谷の大声は耳にも心臓にも悪かった。 「別に、そこまで辛くはないけどさ」 ドキドキうるさい心臓を押さえながら、ヒカルはなるべく平静を装う。 万が一、自分の考えていることが誰か他人に覗かれているとしたら、かなり際どい映像が垂れ流しだったはずである。 「えー、俺絶対パスだな。アイツ何考えてるか分かんねぇし、スカして面白くないもんな。」 「……別に、普通だよ」 和谷のあんまりな物言いにヒカルは少しむっとする。 アキラは誤解されやすいが、周りが思っているマイナスイメージはヒカルの知っているアキラとは程遠い。 アキラは昔から友達らしい友達がいなかったようだから、外見のイメージだけが強く作用してしまっている。碁馬鹿の自業自得といえばそれまでだし、アキラ自身もそんなことをいちいち気にしていないのは知っていても、やっぱりヒカルは腹が立つのだった。 しかも、ヒカルとは仲の良い和谷までもがそんなふうにアキラを評価しているのは、少なからずショックだった。 ところが和谷は、そんなふうに気分を害したヒカルには気づいていなかったらしく、夕飯はどうする、と話題を変えてきた。 実は、夕食くらいアキラも誘おうかとヒカルは思っていたのだった。 ヒカルが和谷や冴木に夕食に誘われることは分かっていたので、どうせ宴会には来ないだろうアキラを一緒に連れていくくらいなら問題ないかと判断していたのである。 しかしこの雰囲気ではとても和谷にそんなことは言えない。「飯がまずくなる」とでも言われたらヒカルも辛い。 かといって、冴木や和谷の誘いを断りアキラと二人で出かけるのも妙に思われるだろう。 (俺ら、そんなに仲いいと思われてないしなあ) アキラに申し訳なく思いつつも、ヒカルは彼を置いて夕飯に出かけることにした。 別にアキラと約束をしたわけではないのだから、そこまで気にしなくても良いはずなのに、ヒカルはアキラを一人にさせるのが心苦しかった。 思えば、アキラとどこかに食事に行った記憶はほとんどない。 今度アキラをマックにでも誘ってみるか。……ヒカルはその光景を想像し、あまりの似合わなさにひっそり微笑んだ。 それから自分の考えていたことにはっとして、真っ赤な顔でぶんぶん首を振る。なんだかヒカルにも変な妄想癖がついたようだった。 そんな可笑しなヒカルの様子を、和谷が不思議そうに眺めていた。 一方アキラは、冴木の荷物が消えた部屋で、一人ぼんやりしていた。 お昼に冴木と会ったとき、「進藤がどうしてもって言うから」なんて理由で部屋を代わることを告げられた。 アキラが同室と知ってからずっと居心地が悪そうだった冴木を、ヒカルが気遣ったのだろうことは想像できたが、それでもアキラは嬉しかった。 同じ部屋でヒカルと眠るのは合宿の夜以来。しかも、あの日は随分特殊な環境にあり、アキラはちゃっかりヒカルを抱いて一晩過ごすことになったのだが、当然今夜はツインの部屋にベッドがふたつ。 一緒に眠ることは無理だとはいえ(当たり前)、同じ部屋で同じ夜を過ごすことができる。アキラはそれでも充分だった。 そわそわしながらヒカルを待っていたのだが、やがて時刻が夕飯時であることに気づき、アキラは小さくため息をつく。 今回のメンバーにヒカルと仲の良い和谷が居たことは知っている。棋院で一緒にいるところを何度か見かけていたからだ。 恐らく連れ立って夕食にでも出かけたのだろう。ヒカルが友人を差し置いてアキラを優先してくれるとは思えない。……優先してくれたら嬉しいのだが、それを望むのは今のアキラには贅沢だろう。 こうして一人でいると、自分がいかにちっぽけな人間であるかを思い知らされる。――アキラはベッドに転がり、スプリングに揺られる振動を愉しんだ。 アキラには、ヒカルと碁しかない。自分でも哀れなくらい。 塔矢門下の兄弟子たちには可愛がられてきたが、一緒に食事に行く友人もいなければ、気兼ねなく同じ部屋で寝泊りできる友人もいない。 それでもいいと思っていた。その気持ちは変わらない、が、碁の他に大切なものができた今、改めてその存在の大きさと遠さを痛感するのだ。 ヒカルはその名の通り光り輝くように、人を惹きつける力がある。彼の非凡を見抜いたのはアキラだけではなく、高名な棋士たちもまたそうだった。 ヒカルの周りには常に誰かがいて、アキラにはそれが辛かった。自分もその中の一人になってしまうことは難しくないだろう。でもそれでは嫌だとすねる自分もいる。 できれば自分は特別になりたい。もっと欲を言えば、ヒカルにも自分と同じ気持ちを感じてほしい。 そんなことは無理だと思い込もうとしていた淡い気持ちの頃、アキラは今、キスをしても自分を拒絶しないヒカルを知ってしまい、世の中に無理なことなんてないんじゃないかと考えを変え始めていた。 ひょっとして、待っていてもいいのだろうか。無駄だろうか。ヒカルは一体どこまで自分に心を開いてくれるだろう? 考えたって答えは出ない。どうせ、自分はもう後戻りできないところまで来てしまったのだ。ヒカルが大好きで、傍にいたい。いたってシンプルな結論には、どんな小細工も通用しない。 願わくば、ヒカルがあの湖のような瞳を他の誰にも向けませんように。アキラはそんなことを呟きながら、重くなってきた瞼に逆らわずに目を閉じた。 急なイベント代理で身体の疲れが出たのだろうか、ベッドの上に仰向けに寝転がったまま、アキラは静かに寝息を立てていた。 |
やはりヒカル過剰反応です。
しかし和谷のセリフって考えるの難しい。
アキラさん着替えないで寝たら服が皺だらけになりますよ。