Time has come






 ヒカルが控えめにアキラの部屋をノックした時、もうすぐ時刻は午後八時になろうかという頃だった。
 冴木から部屋の鍵を受け取ってはいたが、なにしろこの部屋に入るのはこれが初めてだ。いきなり鍵を開けて入り込むのも躊躇われる。
 冴木と和谷との夕食後、一旦元の部屋へ戻ってヒカルは荷物をまとめた。その様子を見ていた和谷の、
『お前ホント物好きだなあ』
 呆れたような口調を思い出す。
 和谷が感じているのと意味合いは違うが、確かに物好きだったかもしれない。もし冴木の同室者が芦原で、そのことで冴木にボヤかれたとしても、ヒカルは部屋を代わるなんて考えもしなかっただろうから。
 ノックには返事がなかった。
 アキラもどこかに食事に出かけているのだろうか。
(余計なことしたかな?)
 ヒカルは右手に荷物、左手にコンビニのビニール袋をぶら下げている。ビニール袋に入っているのはおにぎり三つと缶コーヒー。ひょっとしたら、アキラは何も食べていないのではないかと思ったのだ。
 ヒカルは仕方なく、受け取った鍵を活用することにした。
 そっと鍵穴に鍵を差し込み、何故か息を止めるような慎重さでヒカルはゆっくり鍵を回した。カタン、と鍵の外れる手ごたえがある。そのままそっとドアノブをひねると、扉は簡単に開いた。
「……塔矢……?」
 ドアから顔だけを潜らせるように、ヒカルは部屋を覗き込む。入口からの景色では、AVボードに乗せられたテレビとツインのベッドの端しか見えず、アキラがどこにいるのか分からなかった。
 物音ひとつ聞こえない部屋にヒカルは少し安堵して、部屋に入ってドアを閉めた。誰もいないと判断してそのまま奥に進み、並んだベッドの手前側、仰向けで転がっているアキラを見た瞬間、思わず悲鳴を漏らすところで何とか口を押さえ込む。
 無理やり声を飲み込んだものだから息が詰まる。呼吸と、心臓の音が落ち着くまでややしばらく固まっていたヒカルは、アキラが寝ていることに気づいてやれやれと身体の力を抜いた。
「風邪ひくぞ」
 ぽつりと呟いた自分の声は、少しだけ優しかった。
 本当だったら休日だったと言っていたアキラ。芦原の代理で借り出され、朝から夕方まで急なイベントをこなしたものだから、恐らく疲れが出たのだろう。
 布団もかけずに眠り込んでいるアキラを見て、ヒカルは今日一日の自分の考えを反省する。
『忙しいお前がなんでうまいこと代理で来れるんだよ?』
 うまいこと、ではなかったのだ。あるべき休日を潰してやってきたアキラに、もっと労わりの言葉をかけてやるべきだっただろうか……ヒカルは反対側のベッドに腰かけ、音を立てないように荷物を下ろす。
 ぐっすり眠っているのか、アキラは目を覚まさない。規則正しい寝息と共に、胸がゆっくり上下している。
「お疲れ様」
 ヒカルはひっそり微笑んだ。
 部屋は暑くも寒くもない。このままの格好で寝かせていても大丈夫かな、と思ったとき、ふとアキラが何事か呟いた。
(?)
 寝言かな、とヒカルが耳を澄ませるが、何を言っているのか分からない。ヒカルはそっと立ち上がり、アキラの元へ耳を近づけた。
「……しんどう」
 ぎくりと胸の奥が跳ねる。
 慌ててアキラの顔をじっと見たが、確かに眠っている。しかもその寝顔が、なんとも穏やかに微笑したのだ。
(な、なんの夢見てんだよ〜〜〜)
 ヒカルは胸を突き破りそうな心臓を押さえ込むように両手を当て、真っ赤な顔でアキラを睨む。だがそれもすぐに戸惑いの表情に変わった。
 アキラの長い睫毛が僅かに震え、緩く結ばれた口唇は形良く微笑みを作っている。歪みのない鼻筋、少し乱れた艶やかな黒髪。
 思わず見惚れてしまうような美しさにヒカルは困惑する。
 ――なんちゅうキレイな顔してるんだ、コイツ。
 こんなふうにまじまじと顔を見つめる機会は滅多にない。
 整っているが、女性的な美しさではなく、強さと優しさを兼ねそろえた、お伽噺の主人公みたいな顔。その顔が穏やかに笑い、嬉しそうにヒカルの名前を呟いている。
(めちゃくちゃ恥ずかしいんだけど……)
 なんでこいつが、俺なんかのことをあんなに好きになるんだろう。

『キミが好きだから、キスした。今も……キスしたい』
『キミが好きだ、進藤、キミが!』
『キミがその気になるまで、待つから』

 他の人間が聞いたら卒倒しそうな台詞を、いつもいつも真顔で告げる。
 今閉じられている瞳が開いたら、また熱のこもった目でヒカルを見つめるのだろうか。
 できればもう少し、熱い瞼を閉じたままのキレイな顔を眺めていたい。瞼が開けば、ヒカルの身体はアキラの熱で縛られて動けなくなってしまうかもしれないから。
 静寂は束の間だった。突然鳴り響いた電子音に、飛び上がったヒカルは音の出所を探す。
 けたたましい音は二台のベッドの間、ルームランプ傍に置かれた電話からだった。――アキラが起きてしまう――ヒカルは慌てて受話器に手を伸ばすが、うーんと唸ったアキラが身体を捩るのが分かった。
 アキラが身体を起こす様子を横目で見て、なんとなく寂しい気持ちになりながら受話器を耳に当てる。
「もしもし?」
『進藤か? お前何やってんだよ、すぐ来るって言ってただろ』
 和谷の声だった。
「悪い、今行くって」
『早く来いよ。みんなもう集まってるから』
 電話は一方的に切れる。ヒカルは時計を見て眉を寄せた。そんなに待たせたつもりはないのに、わざわざ電話までかけてくるなんて。
 なんだかアキラへのあてつけのようで、ヒカルの胸に黒いものが広がっていく。
「進藤……来てたんだ?」
 まだ少し眠そうな、気怠そうなアキラの声に、ヒカルは振り向いて曖昧に笑った。
「寝ちゃってたのかボク……起こしてくれたらよかったのに」
「ぐっすり寝てたから。疲れてんだろ、お前。」
 ヒカルは荷物を整理するフリをしながら、なるべくアキラと目を合わせないようにした。寝起きのせいか、アキラはヒカルの不自然な様子には特に気がついていないようだ。小さくあくびをして、軽く目を擦っている。
「お前、晩飯は?」
「ああ……忘れてた。もうこんな時間か……」
 ルームランプ下のデジタル時計の数字を見て、アキラは苦笑している。ヒカルは何も言わずにビニール袋をアキラに突き出した。
「? なんだいこれ」
「腹減ってるだろ、食えよ」
 アキラは袋を受け取り、中を覗いてヒカルを見上げた。そうしてにっこり笑いかける。
 ヒカルの胸がちくりと痛んだ。
「ボクに買ってきてくれたのか? ありがとう」
「お前、こーゆーのあんまり好きじゃないかもしんないけど……」
「平気。いただきます」
 素直に頭を下げるアキラに、ヒカルはひどく申し訳ない気持ちでいっぱいになって、思わず顔を逸らしてしまった。そのままテレビの上に置いていた鍵を掴むと、アキラがベッドから立ち上がる。
「進藤、どこか行くのか?」
「ああ……、和谷んとこで宴会だって」
「和谷くん……って、キミの元の部屋?」
「うん」
 あまり会話を弾ませないように、ヒカルは短く短く答える。それでも更なるアキラの質問が怖くて、ヒカルはふいに自分のバッグを開いて中を探った。アキラがぽかんとしている前でマグネット碁盤を取り出し、それをアキラに押し付ける。
「これ、貸すから」
「??? ……どういう意味?」
「……ちょっと遅くなると思うから、お前寝てていいから。」
 ようやくアキラもヒカルの意図するところが分かったらしく、はっと目を開き、それから少し表情を暗くした。
 ヒカルの胸がまたちくちく痛み出す。
「キミは宴会で楽しんでくるってわけ。」
「だ、だって、誘われたから」
「……ボクも行こうかな」
 アキラのすねた調子の一言に、ヒカルは過敏に反応した。
「は!? だ、ダメだって!」
 ヒカルの声があんまり大きかったせいか、アキラも驚いて目を大きくする。しかし、すぐにその目は厳しく変わった。
「何故?」
「だ、だって、お前そういうの好きじゃないだろ」
「そんなことはない。ボクが行ったらまずいことでも?」
 ヒカルはぐっと言葉に詰まる。アキラと二人になる時間が不安だから――そんなこと言えない。
「お、お前が来るとみんな気まずくなるじゃん!」
 アキラの表情が一瞬凍る。ヒカルもあ、と口を開けたまま固まってしまった。
(俺のバカ)
 あれだけ人がアキラに対して誤解していることを怒っていたのに、これでは自分も変わらない――
 なんとか自分の言葉をフォローしようと考えを巡らせるが、ヒカルの頭にろくなものが浮かぶはずもなく、時間ばかりが無常に過ぎていく。
 すると、額を曇らせていたアキラが、ふいにしっかりした顔つきに戻り、ひとつ頷いた。
「……そうだね。」
「え?」
 最初、ヒカルはアキラが何の言葉に対して肯定したのか分からなかった。
 それが、ヒカルの「お前が来るとみんな気まずくなるじゃん」に対してかけられた言葉であると分かると、今度はヒカルのほうが困惑する。
「キミの言う通りだ。ボクが言ってもみんなには迷惑だろう。……引き留めて悪かったね。いっておいで」
「あ、あの……塔矢」
「気にしなくていいよ。ゆっくり楽しんできて。……あ、これ借りるから」
 そう言ってマグネット碁盤をひらひらさせるアキラに、ヒカルの胸がズキズキ音を立てる。
(なんだよバカ、怒れよ)
 アキラは笑顔を見せ、「いってらっしゃい」とヒカルに手を振る。
(怒れって)
 ヒカルはアキラの無理のない笑顔が耐えられなくなり、そのまま部屋を飛び出した。
(なんで納得するんだよ。なんで俺のこと怒んねーんだ)
 酷いことを言ったのは明らかなのに。
 無理して平気な顔をした? それとも本気でそう思ってた?
(そんなことねーのに)
 皆アキラを知らないだけで、本当の素直な彼を見たらきっと好きになる。いつも優しくて一生懸命で、かなり馬鹿な塔矢アキラ。
(……俺、酷いこと言っちゃった……)
 今アキラを分かってやれるのは自分だけだったのに。






和谷がわるものっぽく……
実は「おにぎり」と「おむすび」で相当な時間悩み、
検索かけたら関東は「おにぎり」のほうが多いという
検証結果を出してるサイトさんがあってそっちに決めました。
標準語難しい。