Timepieces






 相手の長考で予想よりも時間はかかったが、それでも合格点をもらえる時間に対局を勝利で終え、対局室を出たヒカルはすぐに携帯電話をチェックした。

『伊角さんとロビーにいるから』

 和谷から届いたメールは30分前。その後連絡がないということは、まだロビーで待ってくれているのだろう。
 自然と急ぎ足になり、ヒカルは階段を駆け降りた。途中、すれ違った先輩棋士や職員と元気よく挨拶を交わしながら。
 階段を降り切って、身体の大きな揺れが一瞬止まった時、初めて異変に気付いた。
 段差を駆け降りていた時と同じ視界のブレが、足を止めてもまだ続いている。
 なんだろ、と思いながら更に数歩歩いて、ふいに景色が黒一色に変わった。
 咄嗟にしたことは瞬きだった。誤って目を瞑ったまま歩いただろうか――そんなことを本気で疑うほど、唐突に真っ暗になった視界はしかしそんなことでは晴れなかった。
 どさ、と何かが落ちたような音が聴こえてくる。同時に、身体の右半分がじわりと痺れたように感じたそれが、鈍い痛みであることにすぐに気づくことができなかった。
「進藤?」
 闇の中、和谷の声が少し離れたところから耳に届く。
 頬にひやりとした感触。それまで二本の足の裏で感じていた重力が、痺れた右半身に集中していることが分かった時、ヒカルはようやく自分が倒れたのだと理解した。
「進藤!」
「おい、大丈夫か!」
 和谷と伊角――声だけははっきりと聴こえる。しかし相変わらず視界は真っ暗なまま、身体をうまく動かすこともできない。瞬きを繰り返しても、そもそも下りた瞼は動いていないようだった。
 頭に浮かんだのは、しまった、という一言だった。遂に限界が来たらしい。
 誰かに肩を揺すられた。ざわめきが大きくなる。人が集まって来ている……騒ぎになる――現状とは裏腹に頭の中は妙に冷静で、それが余計にヒカルを焦らせた。
 身体を起こさなくては。いや、まず目を開けたい。もしくは、声を出すことができれば……



「すいません、ちょっと」



 自分を取り囲む人の気配、ざわざわとした落ち着かない空気を割るように飛び込んで来た声が、動かないヒカルの身体をほんの僅か、確かに反応させた。

「道を、開けてください。すいません」

 低くて穏やかで、静かだけれどよく通る声。
 淡々として聴こえるけれど、いつもより少しだけ早口で、語尾の強さからひょっとしたら怒っているかもしれない、なんて予想をして、ヒカルは微かに口元を綻ばせた。
「進藤」
 和谷のものではない手のひらの熱を二の腕に感じた瞬間、ふっと気持ちが弛んでしまって、一生懸命身体を動かそうとしていたことも、周りに迷惑をかけまいと思っていたことも、全てがどうでもよくなってしまった。
 ああ、もう何にも心配しなくて良い――
 引っ張られるようにして身体が浮く。随分な扱いだなと苦笑しながら、ヒカルはゆるりと擦り抜けていきそうになる最後の力を振り絞って、恐らく傍目には僅かに腕が上がっただけの仕草にしか見えなかっただろうけど――アキラに向かって手を伸ばした。
 伸ばした手が、力強く掴まれた。
「病院と自宅、どっちがいい」
 耳元で囁かれるのが愛の言葉でもなんでもなく、実に事務的な質問だったことにヒカルはまた少し笑って、お前んち、と掠れた息で囁いたのを最後に、安心して意識を手放した。




 ***




 その日の予定は、大したものではなかった。
 再来週に参加する囲碁セミナーについての説明と、事務局で簡単な書類のやり取り。体力も精神力も使わない、負担の少ない作業だった。
 ここしばらく、アキラが棋院に赴くのはこんな事務的な仕事が理由であることが多かった。
 昨年の成績不審のため、主だった棋戦は軒並みゼロからのスタートとなり、予選が開始されるのを待っている状態である。イベント以外での対局回数が去年と比べて随分減ったが、それも後少し――まもなく始まる予選ラッシュに全力を賭けるつもりで、まずは与えられる仕事を完璧にこなそうとアキラは日々を過ごしていた。
 仕事にゆとりがあると、自然と心の余裕も大きくなる。自分のことが落ち着けば、周りに対する目配りも細やかなものになっていく。
 そうなると、一番に気にかかるのが恋人の存在だった。
 アキラの大切な恋人は、忙しい時期に休暇を得るためにと連日仕事を詰め過ぎて、本人が自覚している以上に体力を消耗させていた。それはもう、いつ倒れてもおかしくはないのではと思うほど。
 そのくせ本人は危機感がないものだから、大丈夫、平気を繰り返して無茶なスケジュールで動き回る。自ら身体を痛めつけているとしか思えない。朝から晩まで、受けなくてもいいような雑用までこなして、そして真剣勝負で精神をすり減らして……
 自ら痛めつける。――表現は悪いが、近いものはあるのだろうとアキラは勘付いていた。
 何を焦っているのか、動きを止めると死んでしまう鮫のように、ほんの一秒でも立ち止まることを拒む彼の様子は、はっきり異様なものだと言えるだろう。
 それにもまた、彼なりの理由があるはずだ。分かっていながら、アキラはそれを尋ねることをあえてしなかった。
 お互い過渡期を越えて来た身だ。胸がざわめく気持ちは分かる。これからまた、新しいことが始まる予感も。
 変遷の直前にいる高揚感は、アキラをも騒がせる。渦の出所は彼だ。その中に心地よく引きずり込まれたら、今までとは違う自分に出会えるかもしれない――人として、棋士として、未来に夢を見ているあまりに恵まれた待機期間。
 だから落ち着かない彼の心を理解することはできるのだ。できるのだが、それにしてもやり過ぎであるから困ってもいる。
 いいから、充分だからと宥めたくなってしまう。彼は素直には応じないだろう。そんな穏やかな性格なら、これまであんなに振り回されたりはしない。
 結局、見守ることしかできなかった。もしも彼に何かがあった場合は、一番近くで支えることを決意しながら。


 だから、予定を終えて帰路を辿るべく、エレベーターで棋院のロビーまでやって来た時――階段近くに出来た人集りを見て、何となく予感はあったのだ。
 まさか、いや、ひょっとしたら。そういえば、今日対局があったことは事前にやり取りしていたメールで把握している。驚くほど冷静だった。声を荒げることなく、多少早足ではあったが走り出すこともなくて、静かに誰かを囲む人垣に飛び込んでいった。
「すいません、ちょっと」
 なかなかどかない野次馬に声をかけると、それがアキラだと気づいた人々が少し驚いたように身体を避ける。
「道を、開けてください。すいません」
 丁寧ながら、実に淡々と人を掻き分け、開かれた道の向こうに横たわる金色の前髪を見た時、ああやっぱりとアキラは納得してしまったのだ。だから言ったのに。それが正直な感想だった。
 身体の右半身を床に預け、俯せ気味に倒れている恋人――ヒカルの姿を見ても、不思議なほど心が落ち着いていた。近寄り、片膝をついて、目を瞑ってはいるが呼吸が正常であることが分かったからだろうか、彼の生命に対する危機感というものが少なかった。手を伸ばし、触れた二の腕が充分暖かかったのも原因かもしれない。
 周囲を囲むだけの人々から外れ、ヒカルのすぐ傍で彼に声をかけていたのは和谷と伊角だった。アキラもよく知る、ヒカルの友人たちだ。
 二人はアキラの登場に少々目を丸くしたようだった。無理はない、とアキラも彼らの反応を理解し、しかしここまで目立つ形で出て来てしまったのは事実なのだから、下手に取り繕うよりは堂々とすべきだと判断を下した。
「進藤」
 ヒカルに声をかけ、力なく垂れている腕をそのまま引き上げる。やや乱暴ではあったが、ここで甲斐甲斐しく抱き抱える訳にもいかないだろうと、アキラは無理にヒカルを重力から引き剥がした。
 ふと、ヒカルの手が微かな動きを見せた気がした。迎えに来たのがアキラだと分かったのか、間違いなく自分に向けられている動きだと確信したアキラは、せめてその手だけはしっかりと握り締めた。
「病院と自宅、どっちがいい」
 今のヒカルに必要と思われる行き先を尋ねたのだが、まるで手足に力が入らない状態のくせに、ヒカルはささやかな笑い混じりにこんなことを囁いて来た。恐らく誰の耳にも届かない、消え入りそうな悪戯っぽい声。
「お前んち」
 吐息のような言葉は、それが最後だった。
 更に重みを増した身体を支え、腕を肩にかけて腰に力を入れる。立ち上がったアキラは、ヒカルを引き摺るように支えて、再び取り囲む人の輪を突き破ろうとした。
 背後で呆然とその姿を見つめている二つの視線が、多少気にはなった。それでも、道を開ける周囲の人に小さな会釈をしながら、アキラは構わずに直進した。






そらみろ!<わざとらしいツッコミ
この話でアキラさんに冷静でいてもらうには、
やはり年月が必要だったなあと改めて。