「普段からおつけになるということですから、デザインはシンプルなものが良いかもしれないですね」 「あ、はい、あんまりゴテゴテしてないやつ……」 「男性の指ですから、あまりリングが細すぎないもののほうが指にはしっくり馴染むようですよ。これなんかいかがでしょう」 手渡されたプラチナのリングをそっと指にはめてみると、今まで感じたことのない付け根への違和感が不思議とヒカルの胸をときめかせた。 思わず五本の指をいっぱいに伸ばし、手の甲をまじまじと見つめてしまう。 「そちらは本当にシンプルなストレートラインですが、こちらのようにウェーブラインのものも人気がありますよ」 「へー……」 続いて取り出された指輪は、確かに緩やかなVの字を描いている。 じゃあそれもと指にはめてみると、何だか先ほどよりも指のシルエットが細く見えるような気がした。 「なんか細くなった気がする……」 「ええ、そのデザインは指をすらっと見せる効果もあるんですよ」 縁取りの入ったリング、立体的に浮き彫り加工されているリング、小さな石の入ったリング…… 様々な指輪がずらりと並び、ヒカルは頭を抱えた。 「あー、迷うなあ……」 「初めておつけになるのでしたら迷いますよね。ゆっくりお考えください。いくつかカタログをお持ちになりますか?」 「うーん、でも……」 持ち帰ったカタログが万が一見つかってしまえば計画は台無しだ。 それに、できれば今すぐ決めてしまいたい。あまり日にちもないし、時間を置けば置くだけ悩んでしまうような気がする。 ヒカルはもう一度、並べてもらった指輪たちを順番につけなおし、自分の右手をアキラの左手としてイメージすることにした。 アキラがつけるなら、あの長くてしなやかな指に映えるのは、一番似合うのはどれだろう…… さりげなくて、控えめで、でも静かに存在を主張するリングは…… 少しずつ候補を減らし、じっくり時間をかけて唯一を決めたヒカルに、店員も根気強く付き合ってくれた。 ヒカルが選んだのは、やや細身で控えめなウェーブを描く品の良いプラチナリングだった。 「では、こちらでお作りいたします。裏に文字も彫れますが、何かご希望はございますか?」 「え、文字、ですか?」 「イニシャルや記念日などを彫られる方が多いですよ」 「イニシャル……」 アキラに贈るものだから、A・Tだろうかと短絡的にヒカルが上目遣いで考え始めた時、店員は含みもないさらりとした口調で続けた。 「贈り物でしたら、あまり長い文字は彫れませんから、お名前・to・お名前の形が一般的ですね。文字数が多ければイニシャルだけにされる方も多いですよ」 ヒカルはぎくっと肩を揺らした。 店員は穏やかな笑顔を崩さない。 贈り物だとバレているのだろうか――ヒカルは改めて選んだ指輪を見下ろし、その理由を理解した。細身のしなやかなウェーブラインはヒカルの薬指からは浮いていて、到底自分用に買ったものには見えなかったのだ。 随分指の太い女性にプレゼントすると思われているのだろうか、それとも男性にプレゼントすることまで見抜かれているのだろうか――どちらにせよ、最初に「自分のを」と言った言葉が嘘だとバレている事実は変わらない。 顔から火が出そうなほど恥ずかしかったが、ここまであからさまなものを選んでしまったのだから仕方ない。いっそ開き直ってしまえと、ヒカルは真っ赤な顔を店員に向け、彫ってもらいたい文字を告げた。 *** カレンダーを見つめて、上機嫌で指折り数える二つの日。 ヒカルは鼻歌混じりに、予定の日を指差して、更にその翌日も続けて指差した。 最初の日は、指輪が出来上がる日。約二週間かかると聞いて納期の長さに驚いたが、翌日の記念日にはギリギリ間に合うのだからまあいいだろう。 毎年、記念日と言えばアキラが外食をセッティングしてくれるのが多かったが、今回は部屋でお祝いすることを提案しよう。外でプレゼントするのは何だかドラマみたいで恥ずかしい。 アキラは喜んでくれるだろうか。あの指輪、きっとアキラの綺麗な指にはよく似合うと思うのだ。 つけたところを見てみたい――うきうきと浮かれ、ヒカルは飽きずにカレンダーを再び数え始める。 早くこの日が来ないかなあ……逸る胸を持て余しながら、いよいよ期日まであと三日という頃。 ふいに宝石店から入った電話に、ヒカルは嫌な予感を感じた。 「え、一日……延びるんですか?」 聞き返した電話の向こうで、先日ヒカルに親切なアドバイスをくれた担当者が謝罪を述べている。 どうやら手配にミスがあり、予定していた翌日に指輪が納品されてしまうことになったらしい。 ヒカルは思わずカレンダーを振り返った。記念日当日――幸いその日は午前中の指導碁しか予定が入っていない。 指導碁が終わってから真っ直ぐ店に指輪を取りに行って、それから帰っても夕方には家に着くだろう。 アキラは普通に仕事があるから、どちらにせよ二人揃うのは夜になる。それほど問題はないとヒカルは判断した。 「分かりました。じゃあ、その日に必ず受け取りに行きます」 こういったアクシデントも、後から思い出のひとつになると思えば楽しいものかもしれない…… そんなポジティブな精神でがっかりした気持ちを慰めた三日間、いよいよ記念日の当日。 「ええ!? これから!?」 指導碁を終え、いざ店に向かわんと急ぎ足になっていたヒカルの元に、無情な電話が飛び込んできた。 着信が「和谷」となっていたため何の警戒もなく電話に出たのが間違いだった――和谷は午後から行われるイベントの手伝いをヒカルに頼んで来たのだ。 『急に来られなくなったのが三人もいるんだよ! 片っ端から電話して、やっと捕まったのがお前だけなんだ! 頼む、手が足りなくてイベント回り切らねえよ!』 「そ、そんなこと言ったって……俺だって、今日は」 『頼むって、六時には終わる! お前、この前風邪引いた時俺が代理してやったじゃねえか! 今こそその恩を返せ!』 ヒカルは言葉を詰まらせる。 和谷が言っているのは風邪ではなく、アキラを潰そうと大量のアルコールを用意して逆に自分が潰れてしまった、あの二日酔いの時のことだった。そんな後ろめたい裏話が余計にヒカルを追い詰める。 ヒカルは腕の時計を見下ろす。真っ直ぐ棋院に向かって、六時でイベント終了。店が閉まるのは八時だから、それから二時間もある……閉店までにはたどり着けるだろう。 「……分かったよ! 六時までだな、絶対だな!」 ヤケクソで怒鳴り返したが、この世の中に絶対などというものはあるはずがなく。 「なんで予定がこんなに押してるんだ〜〜〜!」 髪を掻き毟るヒカルの横で、和谷がむっとしながら呟いた。 「仕方ねえだろ。予定通りに行くイベントのほうが珍しいじゃねえか」 「そうだけど、でも六時までって言っただろ!」 「ちょっと遅くなるくらいいいだろ!」 会場の端で声を潜めながら怒鳴り合い、ヒカルは大きなため息をついた。 ポケットに忍ばせた携帯電話をちらちら確認する。時刻は間もなく午後の七時を過ぎようとしていた。 アキラには急な仕事が入ったと連絡済みで、了解の返信ももらっている。 問題は、八時で閉まってしまう店のことだった。 (もし間に合わなかったら、今日渡せないじゃん……) 今まで記念日に一度もプレゼントなど用意したことはないのだから、今更かもしれないが…… もし渡せなかったら、と思うと、胸の中のもやもやしたものが塊になってずんと落ちてくるような気がした。 ――とても、楽しみにしていたのだ。ズボラな自分は今まで記念日にろくなお祝いもしてこなかった。アキラがそういった特別な日を大切にしていることを知っていながら、面倒臭い、照れ臭いといった理由で自分から何かしようとは思わなかった。 だけど、テレビをきっかけにしてアキラが指輪に興味を持っていることが分かって――冴木がつけていたシンプルな指輪の「牽制」という言葉に惹かれてプレゼントを思いついたが、指輪を選んでいる時はとても幸せだった。アキラが喜んでくれると思うと、幸せで仕方なかったのだ。 きっとびっくりする。でも、アキラは絶対喜んでくれる。滅多にあげないプレゼント、しかもヒカルが一生懸命選んだ指輪を、嬉しそうにつけてくれるだろうと思うと、どうしてもその喜びを記念日に味わわせてあげたいと願ってしまう。 アキラのことがとても好きなのだ――改めて思い知らされる素直で大きな感情が、時間を気にするヒカルを更に焦らせた。 こうしている間にも秒針は容赦なく進んでいく。 ああ、神様! ――まさしく天に祈りを捧げながら更に会場で過ごした数十分、イベント終了の声と共に、和谷の怒号を背中に浴びながらヒカルは棋院を飛び出した。 |