Unstoppable






 野菜を切ったり調味料を合わせたりしていると、上の階からどたばたと賑やかな音が響いてくる。とてもゲームだけでは収まらない騒音だった。
 思わず上を見上げたアキラと社はそのまま顔を見合わせる。
「なんや進藤くん、豊秋に付き合わされて疲れるんちゃう? 清春、あんた豊秋に言うてきて」
 心配そうな社の母の言葉をやんわり遮ったのはアキラだった。
「大丈夫ですよ。進藤はタフですから。寧ろ本人のほうがはしゃいでいると思います」
 にっこり優雅なアキラの微笑みに、社の母もそう?と赤らめた頬に手を当てる。その様子を半眼で遠巻きに見ていた社は、そっとアキラに近づいて耳打ちした。
「ガキの相手は疲れんで。駅からずっと気になってたんやけど、進藤ちっと痩せたんやないか? 静かに遊べって言うて来てもええんやで」
「子供の相手くらいは大丈夫だよ。最近仕事が詰まって忙しいんだ。いい息抜きになるだろう」
 人数分の皿を並べながらさらりと答えるアキラは表情を変えない。社は首を捻りながら、「そんなに忙しいんか?」と念押しするように尋ねた。
「事情で少しスケジュールを詰めてる。適度に休みを入れて、断りやすいものは断れと言ってはいるが……ボクが使い物にならなかった時期のツケが彼に回って来ているせいもあるから、どうしても仕事の量が増えるんだ」
 自身の不調が原因のひとつであることを隠さずに告げたアキラに対し、社は何と答えたものか一瞬言葉に詰まってしまった。アキラは気にする素振りを見せないが、社の反応がどういった類のものかは感じ取っているだろう。
 口を噤んでしまったことを失敗に思いつつ、社が場を繋ぐ言葉をあれこれ探していると、玄関から「ただいま」と高い声が聴こえてきた。
 誰の帰宅かすぐに察した社は、タイミングの良い家人の帰宅にほっとしつつ手にしていたボールを置いて、台所から玄関へ向かった。
 廊下に繋がるリビングの扉を開くと、思ったとおり妹の美冬が靴を脱いだところだった。玄関に並んでいる男物の靴三足を訝しげに見ている妹に、社は「おかえり」と声をかける。
 びくっと身体を揺らして顔を上げた美冬は、兄の姿を認めてほっとしたような怒ったような複雑な表情になった。
「春兄ぃ、帰ってたん?」
「ああ、ついさっきな。お前も帰り遅いやないか。寄り道しとったんか」
「通学に時間かかるだけや。……他にも誰か来とるん?」
 声を潜めて不安げに尋ねる美冬の顔色が心成しか青い。社は首を傾げながらも頷き、
「塔矢と進藤も寄っとるわ。まあ、俺らは飯だけ食ったらすぐ出るんやけど……」
 社の言葉が終わらないうちに分かりやすく顔を引き攣らせた美冬は、皆まで聞かずに恐ろしい勢いで階段を駆け上がって行った。
 思わず後を追うように階段を見上げた社の視界から、完全に階段を上りきった美冬の後姿が消える。と、その直後、上でドアの開く音がして「あれ、久しぶり〜」と呑気な男の声が聞こえてきた。
 それに応える美冬の声は聞こえなかった――代わりに騒々しい足音とバタンと乱暴に閉められるドアの音ひとつ。
 少しして、不思議そうに顎に手を当てたヒカルが階段を下りてきた。
「あ、社。なあ、美冬ちゃんなんか具合でも悪いの? 俺の顔見るなり部屋に飛び込んでったけど」
「さ、さあ……」
「相変わらずお前とソックリだよな〜。あ、あのさ、トイレどこ?」
 屈託のないヒカルの表情に毒気を抜かれた社は、黙って人差し指でトイレの方向を示した。サンキュー、と軽い調子でトイレに向かっていくヒカルは、文句なくパワフルで邪気がない。
 お前、妹に何したんだとはとても聞けず、加えて先ほどのアキラの言葉が若干引っかかってもいたのだが、ここでは突っ込んだ話は無理だと判断した社は大人しく台所に引っ込むことにした。
 台所では目をハート型にした母がアキラにべったりで、激しい虚脱感に襲われた社はわざとらしく二人の間を突っ切り、母からの非難を浴びることになった。
 料理が完成した頃に父親も仕事から帰宅し、久しぶりの息子の顔を見て意味ありげに押し黙ったものの、もう二人の客人に対しては質素ではあるが実直に頭を下げてささやかな歓迎の意を示してくれた。
 母とアキラが料理を並べている間に社は弟妹たちを呼びに行き、嫌々降りてきた美冬と、未だ興奮冷めやらぬといった調子で意気揚々とヒカルにまとわりつく豊秋もリビングに揃った。
「春兄ぃ、進藤さんスゲー! ラストステージ十五分でクリアしてん!」
 得意分野と豪語したのは嘘ではなかったらしい。六つも年下の少年に讃えられ、どうやらヒカルの機嫌も直ったようだ。偉そうに腕組みし、すっかり兄貴分気取りである。
 去年アキラが来た時より図体のでかい男が一人増えて、囲んだテーブルには少しの余裕もなくなった。その上母親が張り切って作った料理が所狭しと並び、うかつにテーブル上の皿一枚も動かせないようなぎゅうぎゅうづめの状態で、騒々しい晩餐がスタートした。


「なんやこんな賑やかな夜も久しぶりやわあ。あんたが出て行って、美冬と豊秋も今年から学校変わったやろ。帰りも遅ぅなって、最近はみんなご飯もバラバラやったもんねえ」
 言葉通り、嬉しそうに子供たちや客人の顔を眺めながら喋り続ける社の母は、先ほどから箸や茶碗は持つもののさっぱり食事が進んでいない。どうやら話すことに夢中で食べている暇がないらしい。
 そんな母の隣で黙々と箸を進める父親の伏せた目を多少は気にしつつも、社は久しぶりに頬張った母親の手製のおかずを懐かしく思いながら尋ねた。
「豊秋、部活やっとるんやってな。勉強大丈夫なん?」
「あんたの弟やろ。大丈夫なわけないやないか」
 母の切り返しに社は咽せ、左隣のヒカルがぶっと噴き出した。
「ねえちゃんが勉強教えてくれへんから」
 ぼそりと文句を呟いた豊秋は、隣に座っていた姉に後頭部を叩かれて口唇を尖らせる。
 相変わらずの弟妹の様子に目を細めた社は、飲み込みきれないおかずを咀嚼しながら妹に箸先を向けた。
「お前も高校慣れたんか?」
「箸の先向けんで。食べてる時に口開けんで」
 鋭い妹の一言に社の顔が引き攣り、再び隣のヒカルが笑いを堪えて口を押さえる。そんなヒカルの反応に、美冬は怒ったように顔を赤らめて目線を逸らした。
「まあうちの子たちは相変わらずやわ。あんたはどうなん。ちゃんと仕事しとるん?」
 和やかとは言い難い子供たちの雰囲気に慣れきっているのか、母は臆せず社に近況を尋ねた。社はずずっと味噌汁で口の中のおかずを流し込み、飲み下しながら頷いた。
「順調やで。実家気にせんでようなって泊まりの仕事が増えたくらいやな」
「忙しいんちゃうの? 塔矢くんも、進藤くんも忙しくしとるんでしょう?」
 話の矛先を向けられた途端、アキラはぴたりと箸を止めて穏やかに微笑んだ。
「ええ、でも最近は少し落ち着いています。今は進藤のほうが予定が詰まっていて」
 アキラと社の間に座っていたヒカルは、そうでもないぜ、と一言呟いてからおかずのひとつを空にした。そして空の小鉢を手に持ち、社の母に「おかわりしてもいいですか?」と悪びれずに笑いかける。人懐こいヒカルの笑顔に母親の顔がふわんと緩んだ。
「どんどん食べて。お口に合うたんなら良かったわあ」
「へへ、これうまいっすね。あ、いいです、自分でやります」
 小鉢を片手に席を立ったヒカルを見て、社は肩を竦めながらアキラに顔を向ける。
「食欲はあるんやな。せやけどアイツ、やっぱ痩せた気ぃするわ」
「言ったろう、忙しいんだ。食事の量と仕事の量が合ってない。本人は元気のつもりだけど、後でキミからも言ってやってくれ」
 アキラは何気なく言葉を流したが、飽くまで社の家族にそれと分からないような声色を使っただけで、恐らく本気で社に忠告を頼んだのだろう。静かに箸を持つアキラの横顔からそんな雰囲気を読み取った社は、思わず不安げに台所に消えたヒカルの姿を目で追った。
 そんな水面下のやり取りには気づかない社の母が、頬に手を当てながら心配そうな顔をする。
「あかんで、いくら若くても無理は禁物や。あんたたちアパート行ってもあんまり遅くまで起きてないで、明日も仕事なんやから早めに休むんやで」
「ほーい」
「はい」
 社は適当に、アキラは優雅な笑顔で返事をしたところで、小鉢におかずを山盛りにしたヒカルがご満悦で戻ってきた。
「いっぱい持ってきちゃった。これ、なんか母さん作るやつと味似てんの。あ、あとさ、このサラダお前が作るやつとなんか似てない?」
 座りながらさらりと微妙な発言を投下したヒカルに、隣の社が味噌汁を噴き出しかけた。
「ああ、それはボクがドレッシング作ったから」
「あ、やっぱり? なんかお前の味がした」
 第二波に今度は液体を喉に詰まらせ、社はどんどんと胸を叩く。
「そうなんよぉ、塔矢くんがぱぱっと作ってくれたんやわあ。帰る前におばさんに作り方教えてね。進藤くん、塔矢くんの作ったご飯食べたりするん?」
「あー、しょっちゅうです。こいつん家無駄に広いから、俺かなり入り浸ってて」
「そうなの。仲ええんやねえ」
 ヒカルと母親の危うい会話に胃を痛めつつ、社はちらりと向かいに座る妹の様子を伺った。美冬は心成しか青い顔をして、憂鬱そうな伏せ目でじっとテーブルを睨んでいる。
 その何とも判断し難い複雑な表情を、社は見なかったことにした。


「それじゃ、気ぃつけてねえ。またこっち来た時は顔出してやって」
 玄関口で社の両親に見送られ、アキラとヒカルは頭を下げる。
「突然ですいませんでした。次にお伺いする時は事前にご連絡します」
「ごちそうさまでした! すげーうまかったっす」
 性格の出るそれぞれの挨拶に上機嫌で頷いた母は、土産だと言って菓子の袋を息子に持たせ、あんたも定期的に顔出しなさいよと念を押した。
 じゃあ、と改めて社のアパートに向かうべく、三人が足先を前方に向けた時、
「清春」
 それまで言葉少なだった社の父がふいに声をかけ、ぴくりと社は立ち止まった。
「気を引き締めて頑張りなさい」
 低い言葉を背中で受け止めた社は、静かに振り返って浅く、しかしはっきり頷いてみせた。
「分かっとる」






ここで社一家は終了〜。
これ以上引っ張るのはちょっと難しい……
ヒカルは豊秋に裏技をみっつほど教えてあげました。