「進藤先生〜」 振り返ると、まだ中学生くらいだろうか、恐らく院生の女の子が二人、ヒカルの元に駆け寄って来た。 ヒカルはにっこり笑って首を傾げてみせる。女の子はきゃっと嬉しそうな悲鳴を上げて色紙を差し出した。 「あの、サインください」 「マミへって書いてもらえますか?」 慣れた手付きで色紙をサインペンを受け取ったヒカルは、さらさらと名前を書いて行く。 「マミちゃんね……」 低い響きで名前を呟かれた女の子は今にも卒倒しそうだ。 サインを書き終えたヒカルはハイ、と色紙を女の子たちに手渡し、それから握手もサービスしてやって、甘い笑顔で締めくくる。 すっかり目がハートになっている女の子たちだが、ふと彼女らの視線がヒカルの後方に逸れ、先ほどよりも若干高い音できゃあっと黄色い声を上げて走り出した――何の未練も残さずヒカルの脇を擦り抜けて。 「塔矢先生〜、サインください〜!」 がくりとヒカルの右肩が落ちる。 忌々し気に振り返ると、アキラが男も女も惑うような美しい微笑を湛えて色紙を受け取っていた。 ヒカルは腰に手を当て、フンと鼻を鳴らす。――全く、外面ばっかりいいヤツだ。 アキラにサインをもらった女の子たちは顔を真っ赤に染めながら、ありがとうございましたあと大きく頭を下げた。そうしてウキウキとヒカルの横を通り過ぎて行った。 「あ〜ん塔矢先生カッコイイね〜!」 「ホント、あれで三十五歳って絶対嘘だよね〜!」 ……なんてことを言いながら。 ヒカルは不機嫌な表情のまま、まだ余所行きの笑顔を貼付けているアキラの元へずんずん歩いて行った。 「よう、名人。相変わらずおモテになりますこと」 「そういうキミもね、本因坊。ボクに見せてくれる顔とは随分違うんじゃないか?」 そう言って含みのある目を向けたアキラに、ヒカルは少し頬を赤らめた。 綺麗に生え揃った睫毛の中央で、黒曜石のような瞳がぎらぎらとヒカルを見下ろしている。その男性的な色っぽさは年々凄みを増し、ベッドの上ではなく今みたいな棋院の廊下で対峙するには少々心臓に悪いほど。 あれから十三年の年月が流れても、アキラは相変わらず格好良くスタイルもよく、ついにヒカルは彼に身長で追い付くことを諦めた。せめて囲碁だけは常に並んでいられるよう、日々努力は怠らない。 「じゃ、食事に行こうか。その後はキミのとこに泊まってもいいんだろう?」 「ダメっつっても来るくせに」 「当然だ」 「あー、やっぱ十三年前に韓国行っちまえば良かったのに」 「またその話か? 全くキミは素直じゃないんだから」 隙あらば腰に腕を回して来ようとするアキラの手の甲をぺちんと叩き、ヒカルはずんずん歩き出す。 素直じゃない――その通りだと思う。本当に、アキラがあのまま韓国へ行ってしまっていたら、立ち直れないくらいに落ち込んだに違いないのに―― 『韓国へ? ボクが?』 床からベッドに連れて行かれて、訳が分からぬまま身体を重ねて、放心状態のままアキラの腕の中にいたヒカルは、自分の置かれている状況を理解するよりも先にアキラに韓国行きのことを尋ねていた。 アキラはヒカルの髪を梳きながら、時折額に小さなキスをして説明をしてくれた。 『韓国には戻らないよ。五年の条件だったって、キミも知ってるだろう?』 『でも、永夏としょっちゅう棋院に調整に来てたって』 『永夏は世界的にも有名な棋士だからね。この機会にいろいろ棋院側から橋渡しを頼まれていたんだよ。ボクはそのまま通訳に使えるし』 『で、でも、永夏がお前を口説いてたって……』 『不気味なこと言わないでくれ。永夏は面白がってついてきただけだよ……ボクの反応を見てからかってたんだ』 『からかって……?』 アキラはヒカルを優しく抱き寄せて、愛おしそうに髪に口づけし、まだ裸のままのヒカルの身体が冷えないように自分の胸で包み込んだ。 『キミと逢った時のボクの反応を見て、楽しんでたんだよ』 『お、俺と……?』 『永夏はボクがキミのことを好きだって知っていたからね。悪趣味なんだ』 ヒカルはかっと頬を染めた。そんなヒカルを細めた目で見つめたアキラは、再び口唇が触れ合いそうな至近距離でそっと囁く。 『もう、キミの前で格好つけたりしないよ? ……キミが欲しいんだ』 散々身体を好きなようにして、今更だとヒカルは赤らめた頬を膨らませた。 その子供っぽい仕草にアキラは嬉しそうに微笑む。 『ねえ、返事を聞いてもいい?』 『な、何のだよ』 『ボクがキミを好きだって、その返事』 『な、な……』 『こうしていても嫌がってないってことは……期待していいの?』 ヒカルは応えられなかった。言葉に詰まっただけではない、焦れたアキラにもう一度甘いキスを落とされたからだ。 太い腕と厚い胸に抱き竦められ、目を閉じてしまうとやはり何も考えられなくなった。 逢いたくてたまらなかったのは事実で、白川に誤解されたりもしたけれど――まさか、こんなことになってしまうなんて。 でも、この腕を振り解けない。力で劣るから? 身長も負けて、碁だって敵わないから? じゃあ、永夏がアキラにくっついていたのがあんなに悔しかったのは何故? ……多分きっと、それだけじゃないからだ…… 思い出すのも恥ずかしい十三年前の出来事。まるで事故のような一夜だったけれど、ベッドで目覚めた時に隣にあった優しい顔が、ヒカルに夢ではないことをしっかり教えてくれた。 翌朝は少し落ち着いた頭で夕べの一局を検討した。勝ちたいという気持ちばかりが先走って、勝敗しか見えなくなっていたけれど、実際にアキラと向かい合って検討を進めると、思った以上に良い内容の碁を打っていたことにヒカルは気付かされた。 『言ったろう、悪くないと。この前の永夏との碁もそうだ。永夏は、キミが場数を踏めば今よりもっと伸びると言っていたんだよ』 おまけにそんな驚くようなことをアキラから聞かされて。 その永夏の帰国前、改めてヒカルは永夏と対局することができた。今度はおかしな挑発に乗らず、落ち着いて、自分の信じる碁を貫いて。 結果は半目負けだったが、アキラが通訳してくれた永夏の言葉はこうだった。 『前よりは良くなったな。こんなところで腐ってる暇はないぞ、とっととここまで上がって来い』 永夏が指した彼の胸は、そのまま世界に繋がっている。 その後も何か永夏が言っていたのだが、アキラが通訳しようとはしなかった。永夏に何か怒っているアキラと、しれっとしている永夏は何だかやっぱり仲が良さそうに見えて少し嫉妬もしたけれど。 そうして永夏は韓国に戻っていった。アキラを伴うことなく、一人きりで。 日本棋院所属の棋士として完全復帰したアキラは、すっかりヒカルの前で本性を隠さなくなった。彼の理性の箍が外れたあの夜のように、ストレートに想いを伝えて来るようになった。 世の女性がうっとりと頬を染める美しい名人も、ベッドの上ではただの獣。ヒカルも人前でキリッとしていれば年よりずっと若くて格好良いと褒められるが、普段とのギャップはアキラほどではないだろう。 それでも色づいた瞳でじっと見つめられれば今でも胸が苦しくなるし、やはりアキラは文句なく格好良いと思う。あの二面性を見た後でもそんなふうに思ってしまうのは、……惚れた弱味だからだろうか……。 「部屋の掃除は終わったか? せめてベッドの上はいつでも綺麗にしておいてくれよ」 「なんだよその親父発言、って尻を触んな! ここ何処だと思ってやがる!」 「キミの背が低いから悪いんだ。ボクはちょっと足に触ろうとしたら、その位置に尻が」 「足も触んな、つうか俺の背は低くねえ!」 「フフ、ボクと向かい合う時爪先立ちになってるの知ってるよ」 「かーむかつく! 今度ストレートで名人いただくからな!」 「できるものならどうぞ。ボクが本因坊をもらうのが先だろうけどね」 「やるか!」 怒鳴るヒカルの目線はやはり上向きで、背伸びをしなければ並ぶことができないのが少し悔しいけれど。 ライバルとして、……それから何故か恋人として、ずっと隣で歩いて行ける。 ヒカルは自分を見下ろすアキラの頬を軽くつねり、むっとするアキラを見て笑った。 ずっと一緒に。 ずっと隣で。 |
30万HIT感謝祭リクエスト内容(原文のまま):
「大人になった二人。すっかり長身になったヒカル。
でもアキラの方がまだ高いお話を、できましたらお願いいたします。
大人話好きなのです(^^;」
このリクエストを戴いた後に追加で「30代半ば〜それ以上でもよいのでしょうか」
…というコメントを戴いていたのですが、実はその時すでにこの話の原形が頭にあって、
逢わない間に身長が伸びていたという設定が30代スタートだと苦しすぎて(汗)
それでとってつけたように10話目でいきなり35歳です、すいません……!
この話のヒカル全然大人じゃないし……!寧ろいつになく子供っぽい……?
ああ〜すいませんでした……アキラさんオヤジになっちゃったし。
そしておまけ(=永夏台詞解析)はこちらからどうぞ。
正直面白くないです……(あと無駄に長いです……)
いろいろ不完全ですいません!リクエスト有難うございました!
(BGM:私を独りにしないでね/山下久美子)