私を独りにしないでね






 アキラは物珍しそうに狭い玄関内をぐるり眺めてから、お邪魔しますと上品に脱いだ靴を揃えた。
「一人暮らししてたんだ。知らなかった」
 アキラは穏やかにそう言ったが、自分の家の雑然さとアキラの優雅な立ち振る舞いのミスマッチさにヒカルは顔を赤らめる。
 まさかアキラを呼ぶなんて考えてもいなかったものだから、掃除も何もしていない。散らかり放題、服も脱ぎっぱなしで、ヒカルは慌ててそこらの汚れた服を掻き集めた。
 アキラは苦笑し、昨日食べてそのままになっていたカップ麺の容器をじっと見つめて窘めるように言った。
「こんなものばかりじゃ身体に良くないよ。忙しくしてるんだから尚更だ」
 そしてその容器を手に取り、ゴミ箱に捨ててくれる。客人にそんなことまでさせてしまって、ヒカルはすっかりパニックを起こしながらも何とかリビングの中央に二人が座るスペースを確保する。
「ご、ごめん……スーツ、汚れるかも」
 しばらく掃除機もかけていない床の上に正座しているものだから、アキラの上等なスーツが気になった。
 アキラは何でもないよと首を横に振り、ヒカルを安心させるためかにっこりと笑ってくれる。
 その笑顔に、少し前にテレビや雑誌で見た余所行きの匂いが漂っていて、ヒカルはなんだか胸にちくちくとした痛みを感じた。
「じゃ、じゃあやろうぜ。……打とう、久しぶりに」
 碁盤を置き、碁笥を横に並べる。
 アキラも頷いて、スーツのジャケットを脱いだ。ハンガー、と立ち上がろうとしたヒカルを手で制し、簡単に畳んだジャケットを脇に置いたアキラはすでに勝負師の顔になっていた。
 その目つきの鋭さにヒカルの肌がざわっと粟立つ。
「打とうか。……五年ぶりに」
 低い呟きに含まれた感慨深さと、ヒカルに対する挑戦。空気が振動するようなアキラの迫力はヒカルを強烈に惹き付ける。
 ヒカルは乾いた口唇を舐めて、碁盤の前に正座をし直し、真っ直ぐにアキラを見据えた。
 韓国のトップに引けを取らない力――成長したアキラに笑われたくはない。
 勝ちたい。勝って、自分だって大きくなった証拠を見せたい。
 ライバルとしてアキラが誇れるような、そんな男であるとアキラに認めてもらいたい――
 ヒカルは精神を集中させ、真摯に対局前の一礼をした。






 碁笥に伸ばしかけた手を止め、ヒカルは項垂れる。
 頭の中で幾通りも描いた道筋は、どれも途中で行き詰まる結末が見えていた。これ以上差が縮まらない――何度か悪足掻きをしたが、残された選択はすでに投了しかないことをそろそろ認めなければならない頃だ。
「負けました」
 ヒカルは呟いて頭を下げた。俯いたままなので、アキラの表情は見えなかった。
 きっとがっかりしているだろう……そう思うといたたまれなくて、顔を上げることができなかった。
 途中、切断の余地はあった。久方ぶりのアキラとの対局で浮かれたのか、明らかな失着と言える手をいくつか思い起こして奥歯を擦り合わせる。
 いいところを見せようと思ったのに。アキラにそれでこそライバルだと喜んでもらえるように、良い碁を打ってみせようと思ったのに。
 ――こんなんじゃ……見切りつけられて韓国へ行くって言われても引き留められない……
 ぎゅっと膝の上で拳を握っていると、進藤、とアキラの優しい声が頭の上に響いた。その優しさが何だか同情のそれのようで、ヒカルはますます肩を縮こまらせる。
「進藤……顔を上げて?」
「……」
「負けたことを気にしているのか? だが、内容は悪くなかった。本当だよ……検討しよう?」
 ヒカルを宥めるような口調が胸を締め付ける。
 うそつき、と口唇を動かしたが、音を出すことはできなかった。
 うそつき。……本当はがっかりしているくせに……
「ねえ、進藤……」
 ふいに伸びてきたアキラの指先がヒカルの前髪に触れた。思いがけなく揺らされた毛先にびくっと身体を竦めたヒカルは、つい顔を上げてしまったその先にあるアキラの心配そうな表情を見てぐっと声を詰まらせる。
 哀れまれている。そう思った途端、とてもアキラと同じ空間にいることが耐えられなくなって、ヒカルは出口を求めて立ち上がった。突然自分の部屋から飛び出そうとするヒカルに驚き、アキラがヒカルの腕を掴む。その手を乱暴に振り解いたヒカルが尚も逃げようとするので、アキラは慌てたように後ろからヒカルを羽交い絞めにした。
「待て、進藤! どうしたんだ、落ち着け!」
「嫌だ、もう……! 俺だって、五年頑張ったのに……! お前にも、永夏にも置いてかれて、ムチャクチャカッコ悪い……!」
「そんなことない、キミは勘違いしてる! 永夏との碁だってレベルは相当に高かった!」
「嘘だっ! お前、がっかりしたんだろ、俺なんかより永夏と打ってるほうがよっぽどっ……」
 言葉は最後まで続かなかった。
 恐るべき強さでぐいっと身体を引かれ、抵抗する間もないまま身体を支えきれずに床に倒された。すぐに起き上がろうとしたが、逃がすまいと馬乗りになったアキラに肩を押し込まれて再び背中をついてしまう。
 アキラの優雅な見た目からは考えられない馬鹿力だった。長い髪を乱して、肩で息をしながらヒカルを押さえつけているアキラの腕は、服の上から見るよりもずっと太いことを思い知らされる。
 情けなく床に転がされたヒカルは、あまりの自分の惨めさにきゅっと眉間に寄った皺を消すことができず、その反動で震え出した口唇は奥歯を噛み締めても止まらなくなった。
 ヒカルを上から見下ろすアキラの何もかもが大きく見えて、敵わない自分がとてもちっぽけに感じる。口唇どころか瞼まで震え出し、ヒカルはこみ上げてくるものを喉の奥に留めようと必死で堪えていた。
「……離せよ」
「離したら、逃げるだろう」
「うるせえ、いいから離せ」
「嫌なら振り解け」
 短く言い放ったアキラの声が酷く冷たく感じられて、ヒカルはますます瞳の奥を刺激するツンとした感覚に顔をぐしゃっと顰めながら、押さえつけられている肩と腕を動かそうとした。
 しかしアキラの手はびくともしない。ヒカルよりも大きな手で、余裕を持って押さえつけている。腕力でも勝てないことを知ったヒカルは、ぷつんと糸が切れたように四肢から力を抜いた。その途端、押さえていたものが堰を切って溢れ出し、じわりと瞳が潤んだかと思うとぼろぼろと頬にこめかみに零れだした。
 アキラが一瞬怯んだようだった。押さえつけられていた力が緩んだのが分かったが、そのまま突き飛ばす気力もなかった。ヒカルはひく、ひく、と嗚咽を漏らし始めた。
「どうせ……俺はなんにもお前に敵わねえよ……」
 対局に負けて、逃げ出そうとして掴まって、呆気なく倒されて……自分の惨めさに涙が止まらない。
「碁も、力も、……背だって伸びたのにっ……、お前は全部俺を置いてきぼりにして……っ」
「進藤」
「俺と打つより、永夏と打ってるほうがお前には有意義だろっ……! どうせ、俺は五年前と全然変わってなくて、相変わらずガキっぽくてすぐ頭に血が昇って……っ!」
「進藤」
「お前がこんなにカッコ良くなって帰って来たのに、俺は……っ」
 その続きは言えなかった。
 呼吸ごと吸い取られる勢いで、口唇を塞がれたためだった。
 ヒカルは目を見開いた。睫毛が触れるほどの距離にアキラの顔がある。閉じた瞼が微かに震え、黒い前髪がヒカルの額をくすぐった。
 状況が理解できず、ヒカルは呆然と瞬きする。――キスされた、と気付いたのは、アキラが身体を起こして余裕のない形相でヒカルを見下ろした時だった。
「キミは……っ! 自分のことが分かっていない!」
 アキラの下で、ヒカルは固まったままぽかんと口を開けた。
 アキラは帰国後に何度も見せていた落ち着いた雰囲気を吹き飛ばし、血走った目を釣り上げて怒鳴り続ける。
「キミと永夏の碁、確かにいくつか失着もあったが、素晴らしかった! 何故キミの相手がボクじゃないのかと悔しくてたまらなかった! 今の碁だって、何度冷や汗を掻いたか……! ボクがどれだけ、キミと打つ碁に悦んだか分からないのか!? それなのに、キミは……っ!」
 振り絞るような声でそう言ったアキラは、ぐいっとヒカルの身体を抱き起こした。
 ヒカルはアキラの胸に顔を押し付けられ、そのぞくぞくするような男臭さに身体を竦める。抱き締められているのだと理解した途端、頭の中が沸騰しそうなほど混乱した。
 パニックを起こしているヒカルに構わず、アキラは苦し気に押し殺した声で話し続けた。
「キミの前では、大人の男でいようと思ったのに……っ」
「と、とうや……」
「永夏にあんなことまで言って、冷静でいられるはずがないだろう……! おまけに、泣くなんて反則だ……!」
 ぎゅうっとアキラの腕に力がこもる。息苦しいほどの抱擁はヒカルの身体中を火照らせた。
 アキラは何を言っているのか。どうしてこんなに強烈に抱き締められているのか。そして……さっきしたのは本当にキスだろうか?
 アキラはふと身体を起こし、ヒカルの顔を覗き込む。その切れ長の瞳に見たことのない熱が揺れているのを間近で目にしたヒカルは、ごくんと喉を鳴らした。
「ずっと、我慢していたのに……」
 最後に掠れた声で囁いたアキラは、再び顔を近付けて来た。
 あ、とヒカルはアキラがしようとしていることに気付いたが、反応することができなかった。
 抵抗もできないまま、口唇が柔らかく包まれる。軽く食まれ、ちゅ、ちゅ、と啄まれた後、ぐっと深く押し当てられた口唇の奥から温かい舌が滑り込んで来た。
 侵入者の狼藉にさすがに身体が萎縮したヒカルは、咄嗟に腕をアキラの肩にかける。押し返そうとするがまるで力が入らない。それどころか余計に抱き寄せられて、ヒカルは激しい口付けに耐え切れずぎゅっと目を瞑る。
 口唇が離れても、アキラの顔は離れて行かなかった。ヒカルの頬を辿り、顎、首筋を吸いながら、徐々に下へと下りて行く。ヒカルは弱々しく腕を突っ張ったまま、震える口唇でなんとか言葉を紡いだ。
「な……に、してんだよ……っ、お前、こんな、あ、」
「嫌なら突き飛ばせ」
「無……理、お前、俺よりデカいくせ、に、……あ……」
「ボクはずっとキミにやられっぱなしだったんだ。身長くらい勝たせてくれ」
「何の話……、……あっ……!」
 アキラの手が、口唇が、ヒカルの身体を解いて行く。
 何が何だか分からないまま、考えられず、抗えず、優しい仕草から施される骨っぽい愛撫にヒカルは理性を手放した。
 熱に浮かされたように、何度も何度も繰り返されるアキラの囁きを聞きながら。




 好きだよ。
 ずっと、好きだった。
 キミの前で冷静になれない自分が怖かった。
 碁盤を挟んで真摯に向き合えなくなることを怖れて、キミから離れて心を鍛え直したつもりだったのに。
 ダメだった。久しぶりに逢ったキミは想像していたよりもずっと大人になっていて、綺麗で、眩しくて。
 動揺を気付かれたくなくて格好つけてたのに、このザマだ。
 好きだよ。キミが好き。
 キミと、キミの碁が大好き。
 さっき永夏に言った台詞、ボクがどれだけ舞い上がったか分かってる……?






ああ〜最後にカッコ良さが保てず……!
最初から最後まで素でカッコイイアキラさんをいつか書いてみたいです。
あと、ヒカルが綺麗云々はアキラさんに惚れた欲目フィルターかかっていますね……