私を独りにしないでね






「ええ!? 一ヶ月!?」
 手合いで偶然にも席が隣り合わせになり、そのまま昼食を一緒にとるべく外へ出た冴木から聞かされた話にヒカルは大声をあげた。
 狭い定食屋で冷たい視線を一斉に浴び、向かいの冴木にも宥められ、ヒカルは背中を丸めて小さくなる。
 冴木は天丼についてきた味噌汁を啜り、一息つきながら話を続けた。
「そうなんだよ、一ヶ月こっちにいるらしいぜ、高永夏。棋院じゃ他に通訳できるヤツも揃ってないし、塔矢にべったりだってさ」
「い、一ヶ月も何してんだよ?」
「さあ? 何でも向こうじゃ随分塔矢がお気に入りだったらしいからな。韓国に残れって随分説得してたらしいぜ、あの高永夏が。世界的なトップ棋士にそこまで言われて、悪い気はしないよなあ」
 冴木の言葉に、ヒカルの胸がぎくりと嫌な音を立てた。
「説得……? 永夏が?」
「ああ。日本に戻ったって同じレベルの相手がいないんじゃつまらないだろうってさ。一ヶ月、せっせと塔矢を口説くつもりなんじゃないか?」
「同じレベルの相手がいない……?」
 かあっと頬の内側が熱くなってくる。
 ヒカルは箸を握り締めたまま、冴木の話に相槌すら打てなくなってじっと丼を睨んでいた。
 それではまるで、日本にはアキラに相応しいライバルがいないと公言しているようではないか。
 口にしようとして、できなかった。言葉にするのも耐えられない内容だったから――アキラのライバルとして、彼の帰国を待ち望んでいたヒカルにとっては。
 恐らく冴木もそんなヒカルの心情を察しているのだろう。あくまで淡々と、しかしどこか優しさのこもった目でヒカルを見て、丼の内側に散らばった米粒を箸で集めながら呟いた。
「まあ、確かに高永夏は一流棋士だろうけどな。それだけに周りが目に入らないってのはあるだろうな。腕の見せ所だな、進藤?」
 にやっと笑った冴木に一瞬大きく瞬きしたヒカルは、ふっと苦笑して頷いた。
 ――冴木さんの言う通りだ。
 確かに永夏は強い。この五年間、韓国でアキラと腕を磨き合ってきたのだろう。考えただけで身震いするような組み合わせだけれど、ヒカルだってただぼんやりアキラの帰りを待っていた訳ではない。
 自分に与えられたフィールドで精一杯走ってきた。世界を見に行ったアキラに負けないよう、小さな空間でありながらできるだけ腕を伸ばして、一番高いところを目指して努力を続けていたのだ。
 何も恥じることはない。永夏に遠慮なんかせず、堂々とアキラの前に立てば良いのだ。
 そうだ、永夏なんかに大事なライバルを渡してたまるものか――
 もやもやしていた気持ちを切り替えることができたヒカルは、残っていた丼の中身を一気に掻き込んで、味噌汁もコップの水も全て飲み干し、ふうっと満足げに息をついた。
 表情の変わったヒカルを確かめた冴木は穏やかに笑い、そろそろ行くかと立ち上がった。そうしてテーブルに乗っていた伝票をすす、とヒカルの元へとずらしていく。
「うえ!? わ、割り勘じゃねえの?」
 ヒカルの悲鳴に冴木はにこやかに頭を下げた。
「ごちそうさまです、進藤王座」
 どうやらちょっとしたアドバイス料を取られるハメになってしまったらしい。
 ヒカルは渋い顔をしつつも、仕方なく伝票を手にしてレジへ向かった。




 ***




 アキラが帰国して一週間。
 相変わらず忙しい日々が続いていたヒカルは、なかなかアキラに逢うどころか連絡を取ることさえできなかった。
 仕事が終わってから電話しようにも、大抵は真夜中と言える時間になってしまっていて、握り締めた携帯をため息混じりにテーブルに置くのが常になっていた。
 逢えないもどかしさとは裏腹に、帰国してからのアキラの噂はあらゆるところから入手できた。
 アキラもヒカルに負けず劣らず忙しいスケジュールになっているようで、おまけに韓国トップ棋士が傍にくっついているものだから話題にも事欠かず、二人セットで取材を受けたりしているらしい。
 その一端をヒカルも偶然目にした。アキラが帰国した翌朝、時計代わりにつけっぱなしにしていたテレビのワイドショー、小さなコーナーでほんの少しだけ彼らが取り上げられていたのだ。
 場所は棋院ではなく、空港だった。食パンをかじりながらぼんやり見ていたテレビに突然アキラの顔が映って、危うくヒカルはコーヒーを吹き出しかけた。
 永夏と並んで少し驚いたようにインタビューに答えている。それはそうだろう、囲碁の棋士の知名度がどの程度かなんて、棋士である本人たちが一番よく分かっている。まさか待ち構えている報道陣がいるだなんて思うまい。
 質問は他愛のないものばかりだった、「韓国はどうでしたか?」、「これからの日本での活動は?」。
 アキラは歩きながらそれらの質問に無難な返答をしていた。誤解のされにくい簡潔な回答は、彼のことを知らない視聴者たちにきっと好感を与えたのではないだろうか。
 それから画面はコメンテーターに切り替わり、「いやあ、囲碁のプロだそうですがタレント顔負けのカッコ良さですね!」なんてくだらないコメントを残している。
 背後のモニターにはアキラと永夏のアップが繰り返し放映され、彼らの戦績よりは見栄えの良さばかりがクローズアップされた形でそのコーナーは終わった。時間にして僅か三分あるかないか、画面だけ見ていたら二人の職業すら分からないのでは、と首を傾げるような内容だった。
 そのカメラワークや狙い済ました紹介の仕方を見れば、最近のマスコミが競うように見目麗しいスポーツ選手や文化人を探し出し、取り上げて売り出す一連の風潮と同じ扱いであることがすぐに分かった。
 しかし、飽くまでさらりと報道陣を躱していたアキラを見る限り、たとえあの放送がきっかけになって追い掛けられることがあっても天狗になることはないだろう。モニタ越しからでも伝わるアキラの実直さはヒカルを安心させ、同時に何処か遠くの存在にも思わせた。
 対して永夏は、カメラを意識して自信に溢れる切れ長の目を光らせ、恐らくお茶の間に強烈な印象を与えただろう。永夏はアキラに増して派手さがある。まるでハリウッドスターのようなカメラ目線にヒカルも呆れてしまった。
 その高永夏、なんでもあの広い塔矢邸の一室をホテル代わりに寝泊りして、アキラに合わせて中国から帰国してきた行洋とも日夜対局を楽しんでいるとか。思わず舌打ちしたくなるような羨ましい話だ。
 ――アイツ、五年も塔矢の近くにいたくせに、日本にまでくっついてくるなんて。
 面白くねえ、とヒカルはむくれた表情のまま一人暮らしのリビングでばさばさと服を脱ぎ、素っ裸になってバスルームまで歩いていった。
 誰の目も気にしない生活を始めて三年。二十歳目前に手に入れた自由には、それ相応の責任が付加されることを身をもって体験した。
 実家と違って甘ったれても面倒を見てくれる人はおらず、叱ってくれる人もいない。家事能力が全くないためにひとつ道を誤るとぼろぼろになりそうだった生活は、韓国で頑張っているアキラを思う度になんとか立て直す事が出来た。
 ようやく一人でも最低限の衣食住をキープできるようになって二年、まだまだ部屋は散らかり放題で食事もインスタントが多いけれど――その頃から不思議と自分の持つ棋風というものがはっきりしてきたように思う。
 初めに心があって、技がついてくる。がむしゃらに打ち続けても答えは見えてこない。澄んだ心で碁盤に向かえば、一人で碁石を打ってもそれなりの感触が返って来た、それは確かな手ごたえだった。
 このままの気持ちでアキラと打ちたい。
 きっと、とても良い碁が打てるような気がする。期待に熱は高まるばかりで、早く発散させてやらないと何だか身体の中から濁ってしまいそうで――
 ヒカルは頭から少しぬるめのシャワーを浴びて、ふと見下ろした下腹を軽く突付いた。
 ――ちょっと腹筋やっとくかな。
 和谷に言われた通り、無駄に肉になるだけでは格好が悪い。
 額を伝って流れてくる湯に目を閉じると、一週間前に会ったアキラの姿が浮かんでくる。
 アキラは随分背が伸びていた。細身のスーツを着ていたから痩せて見えたけれど、あの形は体型がしっかりしていないと様にはならない。
 同じ歳とは思えないほどに落ち着いて、帰国後の疲れも見せずに微笑を浮かべていたあの姿が、少し悔しくて、羨ましくて、なんだか遠くに感じた。
 あの時、アキラが手を差し出してくれなかったら、自ら握手を求めて手を取ることができただろうか?
「……」
 また胸の中がもやもやとする。
 一度打ってしまえばこんな気分も晴れるだろうに、見通しも立たない現状ではストレスは溜まるばかりだ。
 打たなければ俺たちは始まらない、なんて昔の自分もよく言ったものだと思う。
「……今度、メールでもしてみっかな……」
 呟きを湯気に混じらせて、ヒカルはがしがしと頭を洗い始めた。






後輩にたかる冴木さん……
ヒカルのほうが収入あるからということで……
冴木さんはどのくらいの身長なんだろう。
彼もスタイル良さそうですね。