私を独りにしないでね






 地方に飛んだその日の夜に地方紙の取材を受け、眠る前には連載を頼まれているコラムの記事を書き、朝が来ればイベントでの挨拶の原稿を考え、指導碁では笑顔を絶やさない。
 スポンサーに頭を下げて握手を交わし、イベント会場ではサインや写真撮影のファンサービスも忘れずに、終了後は関係者の打ち上げでしこたま飲まされる。
 深夜に戻ってきたホテルで浅い眠りに身を委ね、四時間後には起床して東京に戻る準備をする。まだ人もまばらな駅で乗り込んだ新幹線の中、コラムの続きを書きながら時折あくびをし、戻ってきた東京駅からその足で真っ直ぐ日本棋院へ――


「疲れた……」
 帰宅後、つい口をついて出てくる言葉を咎められない。
 ヒカルはよろよろとたどり着いたリビングに座り込み、周りで蹲っている脱ぎ捨てた服を適当に押し退けて、年中出しっぱなしにしている小さな折り畳みテーブルに突っ伏した。
 時刻は午後十一時。これから少し碁盤に向かってシャワーを浴びたらまた真夜中になってしまう。
 それでも一日一度は自分のために集中して碁石に触れたい、とヒカルはだるい身体を無理に起こした。
 着ていた堅苦しいシャツを脱ぎながら碁盤をリビングの中央へ引っ張ってきた時、ふと尻ポケットに挿しっぱなしにしていた携帯電話が震えた。唐突なバイブレーションに思わず碁盤を取り落としそうになりながらも、そっと床に下ろしたあとで携帯を引っ張り出す。
「!」
 表示されていた名前を見てヒカルは息を飲んだ。
 ――塔矢アキラ。
 時計を振り返って、彼にそぐわない時間帯に驚きながらも、ふいにどきどきと音を立て始めた胸を押さえて携帯を耳に当てた。
「も、もしもし?」
『進藤?』
 ドキン、と心臓が胸を打つ。
 二週間ぶりのアキラの声は、電話越しのせいか直接聞いたものよりやや低く感じられた。
「う、うん。俺」
『すまない、こんな時間に。なかなか連絡する機会がなくて』
「い、いいよ、全然。起きてたし。」
 ヒカルは落ち着きなくうろうろとリビング中を歩き回り、時折散らかした雑誌やCDに躓きながら、意志と関係なく緩んでしまう頬を引っ張った。
 アキラが電話をくれた。そのことがこんなにヒカルの心を浮かれさせている。
 ずっと打ちたくて、打てないにしても話くらいする時間が欲しくて、この二週間やきもきし続けていた。その相手が自分から電話をかけてきてくれただなんて。
 声が上ずってしまいそうになるのを堪えようとしても、顔が笑ってしまう。ヒカルは異様なスピードで携帯片手に散らかった部屋中を歩き続けていた。
『帰ってきてから忙しくてね。ゆっくりキミと打つ時間が取れなくて困っていたんだ。急な話で悪いが、今週末少しでも空いている時間はないか? ボクのほうの帰国後の仕事が一段落つきそうなんだ。なるべく時間帯はキミに合わせるようにするから』
「ま、マジ? ちょ、ちょっと待てよ……」
 ヒカルは左肩で携帯電話を耳に押し付け、放り投げたままの鞄を手繰り寄せた。中から取り出した手帳も二年ほど前からつけるようになった。忙しさと記憶力が比例しなくなり、書き留めておかないと大事な予定が片っ端から抜けてしまうからだ。
 使い込んだ手帳をぱらぱらとめくり、箇条書きのスケジュールを確認したヒカルは少し難しい顔をする。
「……土曜、三時からちょっと空いてるけど。でも六時までしか……」
『三時間か、構わない。少し打てないか? 短い時間だと物足りないけど、一度キミと打っておきたくて』
 アキラの提案にヒカルは目を輝かせ、もう一度手帳の中のスケジュールを確認する。前後の予定は状況によって長引いたり前倒しになったりするようなものではない。――大丈夫だ。
「い、いいぜ。打とう! 俺も打ちたかったんだ」
『本当? でも、もし忙しいなら無理はしないでもいいよ?』
「いや、大丈夫! 打とうぜ、ちょっとでもいいからさ! どこで打つ?」
『そうだな、キミのその後の予定は? いつもの碁会所か棋院か、近いほうにしよう』
「じゃ、いつもんとこにしよう。碁会所。久しぶりだし」
 自然と明るくなってしまう声がなんだか恥ずかしい。こんなにはしゃいで、アキラに笑われてしまうのではないだろうか?
 「いつもの」という響きがこんなに嬉しいだなんてどうしたらよいのだろう。そうだ、五年前はしょっちゅうあの碁会所で打っていた。「いつもの」――そんな言葉で表せるくらい、一緒に打っていた相手なのだ。
『じゃあ、土曜の三時に碁会所で。楽しみにしているよ』
「う、うん、俺も! 土曜な、三時な!」
 通話を終えても興奮冷めやらぬまま、ヒカルはヒャッホウと奇声を上げてリビングを跳ね回った。
 アキラと逢える、五年ぶりに打てる!
 この前はろくな話もできなかったから、お互いの近況なんかも報告し合えるだろうか? いやしかし、三時間しかない貴重な時間だ、とにかく打つのもいい。早碁にすればいいところまで打てるかもしれない。
 感情の波に逆らわず、飛び上がったかと思うと唐突に床に腰を下ろしたヒカルは、それでもなおリズミカルに身体を揺らして未だ収まらない興奮に身を任せていた。
 我ながら恥ずかしくなるくらいの浮かれっぷりだ。でもどうしようもない、嬉しくてたまらないのだ。
 もう一度手帳を開き、いそいそと新たな予定を書き込む。
 「塔矢と碁会所」――その文字までもが踊って見えて、ヒカルはまたも顔がにやけてしまうのを押さえられなかった。
 土曜まであと四日。こんなに待ち遠しい週末があっただろうか。
 一気に疲れが吹き飛んだヒカルは、引っ張ってきた碁盤がちょうど脇にあることに気付き、いざ気合入れとばかりに碁笥に手を伸ばす。
 五年ぶりの対局なのだ、アキラにがっかりされないように少しでも腕を磨いておこう。石を挟む指には熱がこもっていた。





 ***





 何かいいことでもあったんですか?
 ひょっとして、これから彼女とデートかな? ……


 この四日というものそんな質問ばかりで、何にもないですよ、そんなんじゃないですよと答える顔もどこか締まりなく笑っているものだから、誰もヒカルの言葉を信用などしてくれなかった。
 思わず尋ねたくなるほど顔が緩んでしまっているらしい。ヒカルは人前に出る時はいつも頬を叩いて気合を入れるのだが、今回ばかりは週末に控えている嬉しい出来事のほうが威力が強くて効かなかったようだ。
 待ちに待った土曜日。ヒカルは直前の仕事を速やかに済ませ、晴れやかに碁会所へ向かっていた。
 もしや間際になってアキラからキャンセルの連絡が入らないかと心配していたが、今の時間でも何もないということは予定通り碁会所で会えるのだろう。羽が生えていそうな勢いでヒカルは街角を走っていた。
 もう秋に差し掛かっているというのに額に汗を浮かべて、懐かしい碁会所の階段を一気に駆け上がったヒカルは、開いた自動ドアの向こうに見えた市河に笑顔を見せた。
「あら、進藤くん!」
 ぱっと表情を明るくさせた市河に久方ぶりに挨拶しようと口を開きかけて、ふと視界に入ったその存在に――ヒカルは笑顔のまま固まる。
 碁会所の奥、ヒカルが来たことに気づいたのだろう、立ち上がってこちらを見ているアキラの少し困ったような顔。
 ……その後ろに永夏の姿があった。
「え……」
 ドアを潜ったすぐの場所で凍り付いているヒカルの元へ、アキラが足早に近寄ってくる。僅かに眉間に皺が寄っているその顔は、あまり良い知らせを持ってきたようには見えなかった。






こういうパターンのヒカルも初めてなような……?
MISTY〜の直後なんでギャップが我ながらいたたまれないです……!
でもきっと読んで下さってる方にはこういうヒカルのほうが
安心して見て頂ける気がしますね……(笑)