私を独りにしないでね






「すまない、進藤。永夏がどうしてもついてくると言って聞かなくて……」
 アキラの言葉に、ヒカルは思わず永夏に目を向ける。
 永夏は遠くからでも分かる不躾な視線をヒカルに寄越し、にやりと笑ったようだった。つい、ヒカルはむっと顔を歪める。
 永夏はゆっくりと、ヒカルとアキラがいる場所まで歩いてきた。そのままカツンと靴を鳴らしてアキラの隣に並ぶと、おもむろにアキラの肩に手を置いて何事かをぺらぺらと話した。
 するとアキラが少し怒ったように永夏に何か言い返す。永夏はしれっとした様子で応戦しているようだった。
 目の前でぺらぺらと訳の分からない言語が飛び交い、ヒカルは呆然と立ち尽くした。その困惑に、徐々に怒りの色が含まれ始めるまでそれほど時間はかからなかった。
 ――なんだこれ? 何で永夏がここにいるんだ?
 指折り数えたアキラとの対局のため、忙しいスケジュールの合間を縫って駆けつけたというのに、何故だか予定外の永夏がヒカルの知らない言葉でアキラを拘束している。
 二人が何を喋っているのかさっぱり分からないヒカルは、苛々と微かに足踏みをし始めた。
 少しの時間も惜しいのに。……おまけに、馴れ馴れしくアキラの肩に手なんか置いて……
 やがてアキラは降参した、というようにため息をつき、躊躇いがちにヒカルに向かって口を開いた。
「実は……永夏が、……キミと打ちたいと言っているんだ。今日はボクと約束をしているんだと何度も説明しているんだが」
「俺と……?」
 ヒカルが永夏を見上げると、永夏は上からヒカルを見下ろしてフンと鼻を鳴らした。明らかに馬鹿にされたような笑いにヒカルはぐっと口唇を噛む。
 冗談じゃない、というのが本音だった。そりゃあ韓国のトップ棋士の一人と打つことが出来るなんて滅多にない機会だし、永夏の碁はヒカルにとっても魅力的だ。
 しかし今は、五年間待ち望んでいたアキラとの対局が最優先されるべきだ。アキラから電話をもらってからの四日間、夢にまでアキラが出てくるほど楽しみで仕方がなかったというのに、この貴重な時間を永夏なんかに使うだなんて……
 ヒカルが渋っている様子が分かったのだろう、永夏はまた何かをアキラに告げた。アキラははっと目を見開いて、首を横に振る。通訳を拒否したようだった。
 すると永夏は、くるりとヒカルに向き直り、アキラの肩に置きっぱなしの手に軽く力を込めたように身体を傾けて、拙い発音で「マ・ケ・イ・ヌ」とはっきり口にした。
 ヒカルの頭にカッと血が昇った。
「んだと!? てめえ、今なんつった!」
「進藤!」
 ぐっと身を乗り出したヒカルをアキラが止めにかかる。睨みつけた視線の先で永夏はニヤニヤと笑っていた。
 否が応でも思い出す。初めての北斗杯、後から誤解だと説明されたとはいえ、永夏に挑発されて舞い上がってしまった幼い自分を。
 まるで壇上から見下されたあの時のように、永夏の目には揶揄が過分に含まれていた。
「すまない進藤、永夏はよく日本語の意味を分かっていないんだ。どこであんな言葉を覚えてきたのか知らないが……」
「分かってなくても充分喧嘩売ってんだろ!」
「落ち着け、永夏はからかってるだけだ。放っておけばいい、どうせ興味本位でついてきたんだから……」
 アキラのフォローが余計にヒカルの心を煽る。
 ――なんで、お前が永夏の代わりに謝るんだ? なんで俺がコイツにからかわれなきゃなんないんだ?
 俺はこんなに塔矢との対局を待っていたってのに!――
 沸き起こる怒りがヒカルに耳打ちする。このまま黙っていていいのか? と。
 ヒカルはアキラを押しのけて、永夏の前に立った。胸を張っても永夏に余裕で見下ろされる身長差に一瞬気持ちが怯む――が、碁は身長で打つものではない。
「邪魔した落とし前、つけてもらうぜ」
 ヒカルが吐き捨てると、アキラは諦めたようにぐしゃっと前髪を掻き上げてため息をついた。
 永夏がヒカルを顎でしゃくる。ヒカルは肩を怒らせて永夏の後に続き、立ち止まった場所で乱暴に椅子を引くと、床も抜ける勢いでどっかり腰を下ろした。
 向かいに座った永夏は相変わらずニヤニヤと笑いながら、ヒカルに握るようジェスチャーで伝えてくる。
 言われなくても、とヒカルは白石の碁笥に手を突っ込み、ざらっと石をぶちまけた。
 永夏の黒石は二つ――先番はヒカルだった。






 カチャ、と黒石が碁盤に落ちる。無造作に転がったそれは、一手にはならないただの碁石だった。
 反射的に口唇を噛んだが、言わなければならない言葉を告げるためにぎゅっと結んだ口を開かなくてはいけなかった。
「……ありません」
 ヒカルが小さく呟くと、永夏は軽く肩を竦めて椅子の背凭れに体重を預ける。
 ヒカルは顔を上げることができなかった。すぐ傍にアキラの気配があって、顔を持ち上げればきっと目が合ってしまう。
 アキラが今どんな顔をしているのか、向き合う勇気はなかった。
 永夏が何か話している。口調からして良いことではないのだろう。言葉が分からなくて良かったと、ヒカルは今日初めてそんなことを思った。
 ヒカルは項垂れたまま、左手首の腕時計をちらりと見た。午後五時五十分――もう出なければ次の予定に間に合わない。
 盤上に手を伸ばし、負けた碁をざらっと崩す。アキラが何も言わないのが余計に辛かった。
 永夏はまだ何か言っている。――うるさい。うるさい!
 ヒカルは手早く黒石を片付けると、誰とも目が合わないように俯いたまま席を立った。
「進藤!」
 アキラの声が追ってきたが、立ち止まるのが精一杯で振り向くことはできなかった。
「……ゴメン。約束、ダメになっちまって」
 何とかそれだけ小さな声で告げると、ヒカルは声を振り切って碁会所を飛び出す。


 負けた。負けた。負けた!
 売られた喧嘩を買って、無様に負けていれば世話がない。その上アキラの目の前でこっぴどくやられた。早い段階で活路を断たれて、最後の足掻きも通用しなかった。……鮮やかな打ち回しだった……
 あれが世界のトップ棋士。数年ぶりに打った永夏は間違いなく北斗杯の頃より強くなっていた。それは自分だって同じことだと思っていたのに、彼のレベルにはまだ足りていない。
 五年、アキラはあの永夏と共に打ってきた。永夏に認められて、引き留められる腕を持っているということだ。
『キミにがっかりされたくない』
 出国前のアキラの言葉が胸を刺す。
 それは俺の台詞だ――ヒカルはぎゅっと目を瞑り、気を抜くと目尻に浮かんできそうな水滴を押し潰した。

 お前にがっかりされたくなかった。
 お前の隣に並んで恥じない男になれるよう、頑張ってきたつもりだったのに……

 打ちたかったのに、打てなかった。
 楽しみにしていたのに。アキラと打つのを、ずっとずっと、五年間待っていたのに。
 それに見合うだけの力が伴っていなかった……






永夏が何を言ってるのかは完結後にまとめておまけつけますね〜。
ヒカ頭に血が昇ったみたいです……