私を独りにしないでね






 ざわ、と対局室の空気が動いた。
 もっとも部屋にはヒカルたちを入れて八組ほどしか対局が行われていなかった上、他の組は全て対局中だったため、ざわめきと言っても人の耳には聞こえない程度だった。
 しかし明らかに人々の驚きがヒカルに集中している。ヒカルは自分の投了が対局室の空気を乱したことに居心地の悪さを感じて、足早に部屋を出た。



 むしゃくしゃした気持ちが治まらず、少しでも苛立ちを抑えるためにロビーで缶コーヒーを買った。すぐにプルタブを引いてぐっと中身を煽ったが、冷えた苦味だけではどうにも胸の不快感が鎮まりそうにはなかった。
 勝てる相手だった。自分でも驚くほど集中力がなく、とんでもない失着をやらかした後は立て直しのチャンスも見つけられずに、ずるずると悪いほうへ転がっていってしまった。
 背中に背負ってる王座のタイトルは飾り物かと自分を殴りたくなる。棋力があっても精神力が伴わなければ、ここぞという大勝負に勝ち残れないではないか。
 永夏との対局を未だに引きずっていることはヒカルもよく分かっていた。あれから三日が過ぎたのに、気持ちを切り替えられずにいる。
 一人で何度かあの一局を並べ直してみたりもした。落ち着いて盤上の石を追えば、当時の自分がいかに頭に血を昇らせていたかが分かるような乱雑な碁だった。
 冷静になればもう少しマシな結果になったかもしれない。しかし全ては今更だ。結局自分は北斗杯の時と何ら成長していない――緊張ですっかり硬くなり、気持ちばかりが空回ったあの時と同じ。
 あんな乱れた心のままで対局を受けるべきではなかった。それなのに、あっさり挑発に乗って荒ぶる気持ちそのままに乱暴な碁を打ってしまった。
 永夏に馬鹿にされたからだけではない。自分に驕りがあったことを、ヒカルは自覚していた。
 勝つことを前提に、自分の力を試そうとしたのだ。韓国のトップ棋士を相手にどれだけ力をつけたのか、彼を秤にしようとした……アキラの前で。
 アキラは呆れたに違いない。忙しい身なのはアキラも同じことだったのに、せっかく都合をつけて待ち合わせたその場所でヒカルと永夏が打ち始めてしまったのだから。
 おまけに無様な中押し負け――あまりの惨めさに思い出すたび胃が引き攣れそうだ。
 あれから一度もアキラと連絡を取っていなかった。ヒカルから電話をするのも躊躇われたし、アキラからもアクションはない。
 あと一週間ほどで永夏は韓国へ戻るのだろうが、だからといってすぐにアキラと顔を合わせるのも気まずかった。
 せめてあの苦い対局を精神的に乗り越えることができれば良いのに、こんなみっともない負け方をしているようでは……
「くそっ」
 苛立ち紛れに空になったコーヒーの缶を乱暴にゴミ箱に放り込んでも気分は晴れない。
 こんな調子で今日の指導碁はうまくいくだろうか――募る不安をどうにもできずにじっと立ち尽くしていると、ふいに背中に声がかかった。
「何、ゴミ箱睨んでんだ?」
 振り返ると和谷がヒカルの後ろからゴミ箱を覗き込んでいる。
 ヒカルは言葉に詰まり、いや、別にと小声でごまかした。
 和谷は不思議そうにゴミ箱を眺めていた顔を上げ、ヒカルを見て首を傾げる。
「お前、何してんだ? 珍しいな、こんなとこで油売ってんの」
「いや……、今日は対局だったから。次の指導碁まで時間あったから、それで」
「ふうん。忙しいのは相変わらずか」
 和谷はヒカルの言葉に特別な興味を示さずに、さらりと話題を流した。恐らく対局結果がヒカルの黒星だとは思っていないのだろう。
 ふと、ヒカルは和谷が手にしているものに目を止めた。厚みがある大判の雑誌を無理に丸めて右手に握り締めている。
「なんだ、それ?」
 ヒカルが眉を寄せると、和谷は右手に目をやって、ああ、と雑誌を広げてみせてくれた。
 女性向のファッション誌だった。表紙ではエキゾチックな顔立ちの美人が読者を睨みつけている。
 和谷が持っているにしてはミスマッチな雑誌にヒカルは眉を顰めた。その不審な表情に気づいたのか、和谷は慌てたように空いた左手をぶんぶん振る。
「違えよ、俺のじゃねえって。今日研究会あるからさ、石川さんが来るって言ったら奈瀬に押し付けられたんだ、これ渡せって」
「奈瀬のか……ビックリした」
「俺がこんなん読むかよ。まあ、気になってちょっと中は覗いたけどさあ」
 和谷はそう言いながらその場で雑誌をパラパラとめくった。
 ヒカルは再び眉を寄せる。女性の靴やらスカートやらが載っている雑誌の何処に気になる記事があるというのか――和谷の嗜好を少し疑い始めたその時、和谷が意図的に止めたページでヒカルの目が釘付けになった。
 大きめの写真の周りに文字がびっしりと踊っている。文章形式からすぐにインタビュー記事だと察した。
 驚いたのは、その写真がアキラと永夏のものだったからだ。穏やかな微笑を浮かべたアキラと、挑戦的に口唇を吊り上げている永夏。対照的だが、どちらも充分すぎるほど整った顔立ちで、並ぶとその威力が倍増して見える。
 ヒカルがぽかんと口を開けたのを見て、和谷はホイと雑誌を差し出してきた。思わず受け取ってしまったヒカルは、記事に目を走らせる。
「女流の間で話題沸騰なんだってよ、その雑誌。みんなで回しまくってるらしいぜ」
 和谷の説明を聞き流し、ヒカルは二人のインタビュー記事を追い続けた。
 世界への挑戦――そんな見出しのすぐ隣で微笑むアキラは五年前よりもずっとずっと大人の男の顔をしていた。
 記事を見て、写真を見て……ヒカルはじわりと背中に汗が浮かんできたのを感じていた。
 アキラが帰国してから、ここまでまじまじとアキラの顔を眺める機会もなかった。逢えたのはたった二度だけ。それもろくに話もできず、きちんと目を見ることさえままならなくて……

 記者:韓国では強豪たちと競っていたそうですが。
 塔矢:ええ、ここにいる永夏を筆頭に、韓国には素晴らしい棋士がたくさんいます。韓国のレベルの高さを痛感しました。
 記者:永夏さんとはよく対局されていたんですか?
 塔矢:はい、しょっちゅうつき合ってもらいました。彼の囲碁センスは群を抜いています。随分勉強させてもらいました。

 アキラのコメントひとつひとつが、年齢にそぐわない風格を備えていた。時折永夏が軽いジョークを交えながらも、棋戦については真面目なコメントを寄せている。字面だけでは分からないが、写真を合わせて見るとインタビューの雰囲気は和やかだったのではないかと思わせた。
 五年間の武者修行で、韓国のトップと言われる高永夏とのライバル関係を築いた塔矢アキラの今後の活躍が期待される――記事はそんなふうに締めくくられていた。
「まあ、こいつら確かに見栄えいいからなあ。知ってるか? なんかワイドショーとかでも取り上げられてたらしいぜ」
「……知ってる……見てた」
 ぽつりと呟いたヒカルは、無造作に雑誌を閉じた。無言で和谷につき返し、わざとらしく時計を見るフリをする。
「……俺、そろそろ行かないと」
「おお、頑張れよ。そういやお前、塔矢と打てたの?」
 何気ない和谷の一言にぐっと口唇を噛みながらも、それを見られないようにヒカルは俯いて前髪を垂らした。
「……いや、お互い忙しくってさ。まだ」
「そっか。早いとこ打っといたほうがいんじゃないか? アイツ、また韓国行くかもしれねえんだろ?」
 その言葉にはっと顔を上げ、ヒカルは思わず和谷の肩に掴みかかっていた。頭ひとつ小さい和谷がぎょっとヒカルを見上げる。
「……なんだよそれ」
「知らねえのかよ? 最近塔矢と高永夏が二人でしょっちゅう上の連中と面会してるって。高永夏が塔矢の韓国残留を口説き落として、その調整だって噂だぞ」
「……まさか……」
 ――そんな話聞いてない。
 呆然と和谷を見下ろすヒカルの手から力が抜けたところを見計らい、和谷はひょいとヒカルの拘束から逃れた。そして気の毒そうな顔でヒカルを見つめ、背中を軽く叩いてきた。
「まあ、お前しょっちゅう飛び回ってるから、知らなくても無理ねえか。……ホントかどうかは知らねえぜ。飽くまで噂だからな」
「……」
「でも、ホントかもしれない。今のうちにちゃんと時間作ってアイツと打っとけよ。後悔すんぞ」
 そうして、和谷は最後に勢いよくヒカルの背中を引っ叩いた。元気出せ、という意味なのだろうが、痺れたような痛みが走るばかりでヒカルの脳には信号が行き届かない。


 出向いた指導碁でも、どこかふわふわした思考のまま、取り留めのない指導になってしまった。体調があまり良くなくて、と頭を下げたヒカルに、いつもヒカルを指名する老人はにこやかに首を横に振ってくれた。
「若いのにお忙しくしておられるから疲れも出るでしょう。そうだ、先生のライバルもご活躍のようですな。この前テレビで拝見しましたよ」
 ヒカルは苦笑いでごまかした。
 ライバルと――呼ばれていた時期が確かにあったのだ。


 あと一週間もすれば永夏は韓国に帰国する。
 その時、アキラも一緒に海の向こうへ戻ってしまうのだろうか。
 まだ一度も打っていない。きちんと話もできていない。
 あの落ち着いた目を正面から見返すこともできず、ましてや隣に並ぶための自信さえ失って、こんな形で別れてしまうだなんて――
 嫌だ、とヒカルは碁石を掴んだ。
 一人きりのリビングで、中央に据えた碁盤に向かって黙々と例の一局を並べる。永夏に負けたあの碁――このまま腐らせる訳にはいかない。
 五年前より、今よりもっと強くなって、永夏よりも強くなって、アキラを引き留めるのだ。
 韓国なんかに行かなくても、お前のライバルはここにいる――そう面と向かって伝えられるように。
(だって五年前、俺にがっかりされたくないからお前は韓国に行ったんだろう?)
 帰国してみたらライバルは口ほどにもありませんでした、なんて思われたくない。
 見せてやりたい。五年間蓄えた力を。
 そうして、認めてもらいたい。
 「ボクのライバルはキミだ」と言って欲しい――






また雑誌ネタか……
きっと私がこういうネタが好きなんだと思います……