なんとか時間が取れないかとアキラに電話をした。 この前はごめん。もう一度会ってお前と打ちたい――ヒカルの電話はもうすぐ日付が変わろうかという遅い頃だったが、長くコール音を鳴らしてようやく出てくれたアキラの返事は芳しくなかった。 『ボクも打ちたいのはやまやまなんだが……永夏がボクを通訳代わりに使うものだからなかなか解放されなくてね。明後日の昼なら少しは時間があるけど』 「……明後日は俺、泊まりで長野行ってるから……」 『そうか、じゃあ金曜は? ちょうど棋院に行く予定がある。夕方には終わるだろうから、そのまま対局室で』 「金曜は……白川先生の囲碁教室の手伝いが……」 『そうか……』 食い違うスケジュールに歯噛みする。 何故あの日永夏と打ってしまったのだろうと悔やんでも遅い。……あれが最後のチャンスだったなんて思いたくない。 『仕方がないな。また時間が空きそうなら必ず連絡するよ。残念だ』 「……うん……」 アキラは来週の予定については何も口にしなかった。 ……来週もまだ日本にいるのか、とは怖くて聞けなかった。 *** 「進藤くん?」 正面から顔を覗き込まれて、きらりと天井の蛍光灯の光を反射させた眼鏡がヒカルの意識を取り戻す。 気付けば白川が不思議そうにヒカルを見上げていた。 「あ、あれ?」 「ぼうっとしてるね。大丈夫?」 白川はにっこりと微笑む。 見ればヒカルの脇には年配の女性が困ったように立っていた。どうやら質問を受けていたようなのに、ぼんやりして耳に入っていなかったらしい。 ヒカルは慌てて女性に謝り、棋士の顔を作り直す。 ――マズイ、仕事中だった。集中しないと―― 月に一度、スケジュールが詰まっているときは数ヶ月に一度になってしまうが、ヒカルは白川の囲碁教室の講師役を手伝っていた。若い世代にも囲碁の面白さを知ってもらうきっかけになるよう、と頼まれて始めた仕事だが、熱心な生徒に教えるのはヒカルとしても良い勉強になっていた。 その手伝いもここしばらくは忙しく、三ヶ月ぶりにようやく顔を出すことができたというのに、ぼうっとしていては生徒たちに失礼だ。 そうして細々と動き始めたヒカルだが、どうしても時計を振り返ってしまう。 『じゃあ金曜は?』 アキラの棋院での用事は夕方までには終わると言っていた。囲碁教室は午後七時まで……ひょっとしたら、その後で連絡したら間に合う、なんてことはないだろうか。 淡い期待を何度となく抱いては、しかしもうひとつのアキラの言葉がその膨らみに針を刺そうとする。 『永夏がボクを通訳代わりに使うものだから』 どうやら永夏がべったりという噂は本当のようだ。棋院の用事とやらも、和谷が言っていたように韓国へ戻るための調整だったとしたら? もし連絡しても、すでに永夏に先約を取られてしまっているかもしれない。あの電話の時、夜はずっと空いているのか聞いておけばよかった――今頃そんなことを思いついても遅すぎる。 そうして悶々とした顔のヒカルにじっと目を瞠らせていた白川は、まだ囲碁を始めて数ヶ月という女性同士の対局を見守っているヒカルにそっと耳打ちをした。 「進藤くん、ちょっと」 白川はヒカルを教室の外に呼び寄せ、先ほどヒカルを窘めた時と同じ優しい笑顔で口を開いた。 「何か、予定があるのかい?」 「えっ……」 「時間を気にしているね。約束でもあった?」 「い、いえ、その」 注意力散漫になっているのを気付かれてしまった。ヒカルは気まずそうに背中を丸めて、自分よりも身長の低い白川を見上げる。 プロなんだから、仕事には集中しなさい。そんなふうに叱責でも受けるかと思ったが、意外にも白川はにこやかだった。 「もうあがっていいよ。今日は対局中心だから。僕だけでも見回れそうだ」 「えっ!? で、でも」 「忙しいところ都合をつけてきてくれたのは有難いけど、大事な用事があるんだろう? そんな顔しているよ」 白川は口ごもるヒカルの肩をぽんぽんとリラックスさせるように叩き、少し小声で「早く行かないとフラれちゃうよ」と囁いた。 ヒカルは驚いて目を丸くした。含みのある白川の笑みを見ると、どうやら恋人を待たせているものと勘違いしているらしい。ヒカルは慌てて否定しようとして――しかし言いえて妙な白川の言葉にどこか納得し、照れくさそうに笑い返した。 「……いいんですか?」 「いいよ。今日も無理して来てくれたんだろう? また時間がある時にお願いするよ」 「すいません」 白川に頭を下げたヒカルは、急いでスタッフルームに飛び込んで荷物を肩に引っさげ、風のように囲碁教室が開かれている会館を後にした。 ――早く行かないとフラれる――その通りだ。急がなければ、無理矢理にでも都合をつけなくてはアキラは掴まらず、ひょっとしたらこのまま日本を離れてしまうかもしれないのに。 ずっと楽しみにしていたのだ。アキラと逢うこと。アキラと打つこと。 一度も成長した自分を見せられないまま、違う奴にライバルの座を明け渡すなんてそんなことさせない―― 棋院に滑り込んだのはもうすぐ午後六時を迎えようかという頃。 まだ棋院にいるだろうか? ヒカルは携帯で連絡してから来た方が良かったか、と尻ポケットに差し込んだ携帯に手を伸ばそうとして、ふと目をやったエレベーターが一階に下りてきたのに気づいた。 静かに開いた扉から現れたアキラを見て、ヒカルは思わず声をあげた。 「塔矢!」 その声に弾かれたようにアキラが顔を上げ、ヒカルを認めて目を丸くした。「進藤」と動いた口に応えようと駆け出しかけて、アキラの後ろからまたもひょいと顔を出した永夏にむっと口唇を尖らせる。 「進藤? どうしたんだ、今日は予定があるんじゃなかったのか?」 アキラが近づいてくるその後ろを、永夏もぴったりとくっついてくる。ヒカルが目つきで威嚇しても全く意に介さない。 目の前まで来たアキラは、涼やかな淡いグレイのスーツに身を包んでヒカルを見下ろした。アキラと顔を合わせるために顎を上げなければならないヒカルは、アキラよりも更に背の高い永夏の存在を気にしながらも僅かにかかとを持ち上げて背伸びをした。 「予定、早く終わったんだ。お前、これから時間ある?」 「これから……」 アキラは二、三度瞬きし、ちらりと横目で永夏を確認してから頷いた。 「ああ、いいよ。どうする? そこの対局室で打つか?」 ヒカルはアキラの永夏への目配せを気にしながら、対局室でアキラと打っている図をイメージする。 このまま対局室へ行けば、当然永夏もついてくるわけで…… 「で、できれば場所変えねえ? 碁会所行こうぜ。そのほうが落ち着いて打てる」 ヒカルの提案に、アキラは一般のギャラリーを想定したのか、そうだな、と頷いた。 「じゃあ碁会所へ行こうか。あそこも人目はあるけど……」 そう言いながら歩き出したアキラにヒカルは並ぼうとしたが、何故か永夏も当たり前のように隣をついてくる。 ヒカルは思わず後ろから永夏の肩を掴んでいた。首だけ振り返った永夏の表情には驚きの欠片もなく、毒を含んだような目でヒカルを見下ろしている。 「お前、ついてくんなよ。関係ねえんだから」 ヒカルの言葉に永夏は肩を竦めた。そしてアキラに何かをぺらぺらと話す。アキラがそれに答えると、永夏はハッと短く息を吐き出して笑った。 以前見たときと同じ光景がヒカルの前にあった。 何事か無理強いをする永夏と、その永夏を宥めようとするアキラ。徐々にアキラの口調が強くなり出したが、永夏は怯む様子も見せない。 間に入れないもどかしさと、またも訳の分からない会話でアキラを取られてしまった悔しさで、ヒカルは苛立たしく身体を揺らし始めた。 すると永夏がふいにヒカルに顔を向け、何か言いながらアキラの腕をぐいっと引っ張った。咄嗟のことにバランスを崩したアキラは、背中から永夏に受け止められる。勝ち誇ったようにアキラを支えた永夏を見て、ヒカルの頭に完全に血が昇った。 「離せよ!」 叫んで、まるで子供の玩具の取り合いのようにアキラの腕を引っ張る。今度は前につんのめったアキラを永夏から庇うように押しのけて、歯を剥き出しに永夏を怒鳴りつけた。 「塔矢はお前のもんじゃねえんだよ! 俺なんかお前よりもずっとずっと前から、塔矢と一緒だったんだからなっ!」 駄々っ子のようにそんなことを一方的に吐き出したヒカルは、永夏の反応も待たずにアキラの手を引いて走り出した。 永夏が追ってこないように。永夏に追いつかれないように。 アキラの手を取ったまま走り続ける。アキラは最初こそ唐突なマラソン状態に体勢を整えるのがやっとのようだったが、やがてヒカルに合わせて一緒に走ってくれた。長身の男同士が手をつないだまま、地下鉄の駅を目指して走る様子は傍目には異様だっただろう。 地下鉄の階段を駆け下りて、ヒカルは行き先に困った。碁会所は永夏も場所を知っているはずだ。不慣れな日本とはいえ、一人でたどり着いてくるかもしれない。 永夏の知らないところ――誰の邪魔も入らない場所。 俺んちだ、と呟いたヒカルは、一瞬止まりかけた足を再び猛スピードで回転させ始めた。 |
子供っぽいヒカルってなんだか書いていて
とっても楽しいかも!と思ってしまいました……!