ヤサ男の夢






 どうぞ、と返事を受けてドアを開いたアキラの目に、普段は殺風景な応接室が花で飾られ、取材用にテーブルやソファの配置も変えられている見慣れない光景が飛び込んで来た。
 しかし、へえと物珍し気に室内を見渡しかけた表情が曇る。すでに皮張りのソファに腰を下ろし、だらしなく背中を凭れさせているヒカルの姿が映ったためのようだった。
 ヒカルはちらとアキラに視線を向け、傍にいる二人の棋院職員などお構いなしにわざとらしい声を上げた。
「さすが名人様は時間ピッタリにいらっしゃるねー。ちょっと早めに来て気ぃ利かせるとかないのかね。ね、そう思いません?」
 鉾先を向けられた職員の一人が引き攣った笑みを見せる。
 アキラは静かにドアを閉め、ヒカルを温度の低い目つきで見据えた。
「公式戦遅刻の常連にお叱りを受けるとは思わなかったよ。さすが女性が相手の仕事は行動が早い。これからは打ち合わせの時にも女性をお呼びしたほうがいいんじゃないですか」
 続いてアキラからもぞっとするほど冷ややかな微笑を見せられたもう一人の職員は、完全に言葉を詰まらせてひたすら額の汗を拭き出した。
 一気に温度の下がった室内に、目には見えないブリザードが吹き荒れる。
 その凍りついた空気を、コンコンコン! と軽快ながらもやや騒々しいノックの音が打開した。
「失礼しまーす! 今日はよろしくお願いします!」
 よく通る男性の声に振り向くと、開いたドアの向こうから今回の取材におけるディレクターらしい男を筆頭に、数人のスタッフとインタビュアーであるアナウンサーがぞろぞろと入って来た。
 目に優しいクリームイエローのスーツを身につけた女子アナウンサーは、華やかにメイクを施された笑顔でヒカルとアキラに頭を下げる。
「本日取材を担当させていただきます内藤由香里です。以前からお二人のファンで……お会いできて嬉しいです。今日はよろしくお願いいたします」
 途端、それまで氷柱の切っ先のようだったアキラの視線がふわりと柔らかくなる。
「こちらこそよくテレビで拝見しています。今日はよろしくお願いします」
 顔を上げた内藤の頬がチークに負けじと赤くなった。
 すると、ソファから立ち上がったヒカルが負けじと人懐っこい笑顔を見せた。
「テレビで見るよりずっとキレイですね。あー俺ちょっと緊張してるかも。トチったらフォローお願いしますね?」
 悪戯っぽい流し目に、頬に手を当てた内藤がアキラとヒカルを交互に見比べうっとりと溜め息をついた。
 アキラは静かに目を細め、じろりとヒカルを威嚇する。ヒカルはフンと鼻を鳴らし、挑発的な視線でやり返した。
 棋院の職員二人は、顔を見合わせてこっそりとため息をついた。



「……流れは以上で。じゃ、簡単にカメラテストしてからいきますから。内藤ちゃんいい?」
「はい、ちょっと待ってください〜」
 スタイリストとメイク担当の女性スタッフに髪やら顔やらを直されて、すっかり準備が出来上がっている主役のはずのヒカルとアキラは、彼女の支度待ち状態になっていた。
 ソファに並んで腰掛けたものの、不自然な数十センチの距離が刺々しい。それでもディレクターに言われて最初よりは若干近づいたのだ。
 さきほどから時間をかけている割には、どこがどう変わっているのか分からない内藤のメイク直しを興味なさげに見ていたアキラの隣で、ヒカルがぼそりと呟いた。
「おとなしそーな顔してるけど、結構鋭くチェック入ってんな。俺の指チラッと見てホッとしてた」
 その言葉の意味が分からず、思わず怪訝そうな目を向けたアキラに対し、ヒカルは勝ち誇ったような笑みを見せてひらひらと左手を振って見せた。
「俺の指輪。薬指についてないかちゃーんと見てたみたいだぜ?」
 言われて視線を下ろしたアキラの目に、ヒカルの左手中指にシンプルだがやや太いファッションリングが嵌まっているのが映った。そしてヒカルの言わんとすることを理解したアキラは、呆れたように肩を竦めてハッと短く息をつく。
「チェックがうるさいのはキミじゃないのか? そんなに相手にしてもらいたいのか。心配しなくとも彼女は別にキミなんか見ていない。真っ先に挨拶したのはキミにじゃないだろう?」
 口元は笑ったまま、ヒカルの瞼が若干下りた。
「あれあれ若先生、ひょっとして自分が注目集めちゃってるとか思い込んじゃってます? そのヘンな頭が珍しいからだと思いますけど〜? 初対面なら驚いて大抵目ぇ行くよなあ」
「人のことを言える頭か? その悪目立ちする前髪はキミにぴったりだけどね」
「お前、ひょっとして自分の胡散臭いスタイルに自信あるとか? マジおめでたい勘違い野郎だな。眼中ねえっての」
「キミこそ思い込みが激しすぎて滑稽だ。キミのような軽そうな男にお愛想で笑いかけただけで誤解されるなんて、彼女も気の毒に。事務所で教育済みだろうけどね、キミみたいな奴には要注意って」
「……んだと」
 再びぐんと下がりかけた温度に気づかず、内藤がお待たせしました〜と二人の対面のソファに腰を下ろす。スタイリストにスカートを直されている彼女に営業用の笑顔を咄嗟に浮かべた二人は、しかし隣り合っている相手にピリピリと牽制の火花を散らしていた。
 内藤が椅子に座ってからもあれこれと身なりを直されている間、ディレクターがカメラマンに大声で指示している声に紛れて、笑顔のままのヒカルがほとんど口を動かさないで呟いた。
「じゃあさ、賭けようぜ」
 隣のアキラにしか聞こえない声に、アキラが一瞬眉を揺らす。
「俺とお前。どっちが先にあの女子アナ落とすか。自信あんだろ?」
「……馬鹿なことを」
 アキラも小さく口唇を動かし、空気のような声で答えた。
「あ? 負けんの怖いんなら別に無理しなくていいけど」
「キミに気を遣って言ってやってるんだが? 大体いつも年上の女性に媚びて面倒見てもらってるキミが、年下に興味を持つなんてどういう風の吹き回しだ?」
「さっきタメだって言ってたの聞こえたぜ」
「彼女は十一月産まれだ。キミより一ヶ月半年下だろう」
 ヒカルが一瞬言葉に迷う。
「……何、お前あの女子アナの誕生日までチェックしてんの? 狙う気満々でキモイんですけど」
「取材前に一通り資料はもらったはずだ。そこに書いてあったことに目を通して何が悪い?」
 さらりと返したアキラに、ヒカルは更にぐっと声を詰まらせた。
「……だったらお前こそ、一ヶ月年上じゃねえか。まあ、普段は世間知らずの年下ばっかりだまくらかしてるもんな、あの女子アナなら周りにそこそこいい男いるだろうしー、怖気づくのも分かるけどー」
「自分で恥を掻きたいというなら構わないよ? 結果は分かりきっている」
「それはそれは頼もしいことで。――んじゃ、決まりだな」
 ヒカルが短く吐き捨てたと同時に、カメラが二人に向けられる。
「じゃあテストいきまーす」
 合図と共に鉄壁の微笑を浮かべた二人の男は、実に完璧に求められているキャラクターを演じ切った。




「お疲れ様でした〜」
「ありがとうございました」
 予定していた三十分を若干オーバーして取材は終了し、スタッフと形式上の挨拶を交わしつつ、アキラはさりげなく内藤の前で紳士的に頭を下げた。
「今日はありがとうございました。よく囲碁を勉強されていてとても面白い取材でした」
 アキラの賛辞に内藤は女性らしく小首を傾げ、照れ臭そうに微笑んだ。
「こちらこそありがとうございます。何度もフォローしていただいて恐縮でした……博識でいらっしゃるんですね」
「齧った程度でお恥ずかしいです。ところで先ほどお渡しした名刺……できれば改めてこちらを」
 さらりと告げたアキラが差し出した新たな名刺を、内藤は不思議そうに受け取り、一枚目と別段変化のなかった名刺を軽く裏返して、はっと瞬きをした。
 それから気恥ずかしそうに上目遣いでアキラを見て、微かに赤らんだ頬を緩めて小さな笑顔を見せる。何か考えているような笑顔だった。
 アキラもまたにっこりと微笑み返した時、脇からひょいと内藤の手の中の名刺を取り上げた男がいた。
 アキラと内藤が驚いて同時に振り向くと、アキラの名刺を取り上げたヒカルがその裏側をじっと見ている。それからちらりと内藤に大きな瞳を向けて、にこっと子供っぽい笑みを見せた。
「今日はお疲れ様でした。俺、名刺持たない主義だから。でも、忘れないでくださいね?」
 そう言って、彼女が胸ポケットに刺していた万年筆を悪びれずに抜き取り、名刺の裏側にさらさらと何かを書き込んだ。そして、堂々と裏側を表にして恭しく内藤に返す。
「楽しかったです、今日。是非、また」
 軽い口調でヒカルが渡したアキラの名刺の裏には、アキラとヒカルの携帯番号、メールアドレスが上下に並んで記されていた。
 受け取った内藤は困ったように微笑みながら、しかし満更でもない様子で二人をちらちらと見比べている。
 ヒカルは静かにアキラに横目を向ける。アキラもまた、冷えた目線をヒカルに下ろして目を細めた。






あらゆる意味でビミョーな路線に行きました……
ちなみに今回、全体的にかなりの台詞量です。