その晩、派手な音を立てて震える携帯電話をテーブルから取り上げ、ヒカルはメールの着信にほくそ笑んだ。 『内藤です。今日はありがとうございました!また機会があったら一緒にお仕事したいですね!』 語尾に笑顔の絵文字が輝き、ヒカルは満足げに頷く。 アドレスをチェックし、まず間違いなくプライベートのものであると見当をつけ、電話帳に登録してから返信を打ち始めた。 『進藤です。こちらこそ今日は楽しかったです。今度飯でも食いに行きましょう』 ――これくらいストレートのほうがいいんだよ。遊び半分本気半分……ってな。 ごく気軽な調子で返信を送り返したヒカルは、恐らく今日のメールはこれで終了だろうと予想し、ぱちんと携帯を閉じて再びテーブルに転がす。 もう二、三日置いてご機嫌伺いって感じかな――ぼそりと呟いたヒカルは、内藤に名刺を渡していた時のアキラの横顔を思い出してむすっと顔を顰めた。 ――女の前では目尻下げやがって。やーらしいの…… その不機嫌な顔に合わせたかのように、がりがりと乱暴に後頭部を掻いたヒカルは勢い良く立ち上がり、ばさばさ服を脱ぎ捨てながら小さなバスルームへ向かっていった。最後に脱いだトランクスを踏みつけて、勢いよく閉じたバスルームのドアは、空気をクッションにしてぱしんと消化不良気味な音を立てた。 同じ頃、控えめな電子音を鳴らした携帯電話を手にして、アキラは届いたメールを無表情で見下ろした。 『内藤です。今日はありがとうございました!また機会があったら一緒にお仕事したいですね!』 アドレスはプライベートながら、当たり障りのない文章をさらりと目で追ったアキラは、表情を変えないまま手早く返信を打ち始めた。 『こちらこそ今日は有難うございました。楽しい仕事でした。またお会いできるのを楽しみにしています。』 ――どうせこの程度のメールなら進藤にも送っているだろう。まずはつかず離れず、というところか…… 硬く締めたメールを送信した後、静かに携帯電話を閉じたアキラはふっと肩の力を抜くように息をついた。 適度にやり取りしてから喜びそうな店でも勧めてやればいい――髪を掻き上げて携帯電話をテーブルに滑らせたアキラは、自分が渡した名刺を不躾に取り上げたヒカルの目を思い出して眉を寄せる。 ――調子のいいことばかり……女性相手だといつもそうだ…… 能面のようだった顔は、ほんの僅かな眉間の皺だけで見た者が震えるような苛立ちを顕にした。 アキラは厳しい表情のままソファから立ち上がり、喉の渇きを癒そうと真っ直ぐにキッチンへ向かっていく。冷蔵庫から取り出したミネラルウォーターが残り少なくなっているのを見て、思わず小さな舌打ちをしたアキラは、そんな自分にため息をついた。 *** 昼の打ちかけ、久しぶりに連れ立って外で食事をしていたヒカルと和谷は、それぞれ午前中の展開に手応えを感じていたのか余裕が伺える表情で談笑を楽しんでいた。 「そーそー、そん時にさ、社のヤツが……」 大口を開けてまくしたてていたヒカルが、言葉の途中でぴくんと身体を揺らす。それからおもむろにポケットから携帯電話を取り出し、画面を開いて軽く眉を持ち上げた。 言いかけた言葉を切ったまま、カチカチと返信を打ち始めたヒカルの対面で、箸を持った和谷が不満そうに口を尖らせる。 「んだよ、社がなんだって?」 「あーわり、ちょっと待って」 素っ気ない謝罪を受け、どうやら続きを聞くのを諦めたらしい和谷は呆れた目でヒカルを睨んだ。 「お前なあ、今度は誰と仲良くしてんだよ」 「内藤アナ」 「は?」 「お前、知らない? 今木曜のクイズ番組で司会やってる……あー、番組名なんつったっけ」 「……って内藤由香里アナぁ!?」 大声を張り上げた和谷に、ヒカルはしっと人差し指を立てる。周囲の客がちらりと二人を振り返ったが、和谷が慌てて口を押さえたので大事にはならずに済んだようだった。 和谷は今度は、不必要なまでに声を潜めてヒカルに尋ねてきた。 「内藤アナって、ホンモノのかよ。お前、どこで知り合ったんだよ」 「ちょっとこの前仕事で取材受けてさー。メールもらっちった」 「マジかよ〜、お前おいしすぎ。俺にも紹介しろよ」 「ダメー」 「おいおい、まさかマジでやり取りしてんのか?」 「あっ、ちょ……」 メールを打ちかけの携帯電話をひょいと和谷に取り上げられ、ヒカルは慌てて手を伸ばす。しかし和谷はヒカルの携帯をテーブルの下に隠すように、ちらりと画面に目を通して顔を顰めた。 『昨日遅かったんだって? お疲れ様ー。忙しいのに頑張ってるよね』 「どこの彼氏気取りだよ」 顰めっ面でヒカルに吐き捨てた和谷は、わざとらしく肩を竦めて携帯電話を返してきた。奪い取るように取り返したヒカルは、フンと鼻を鳴らして続きを打ち始める。 「いんだよ、向こうは喜んでるから」 「お前ファンにボコボコにされっぞ? よくも今が旬の内藤ちゃんを落としやがって」 「……まだ落ちてねえよ」 ぼそりと返したヒカルの呟きは和谷には届かなかったのだろうか、うー、くそー、と唸り続ける和谷を尻目に、ヒカルは打ち終えたメールをさくっと送信した。 まだ落ちてない――良い傾向は見せるものの、品定めされている感が拭えない。 恐らく未だ自分は比較対象なのだ。……アキラと。 すぐに落ちるだろうと勝負を吹っかけて一ヶ月。こちらから送ったメールには満更でもない返事が返って来る。何度か電話だってした――もう一息というところまで来ているのは間違いないが、その一息を越えるにはアキラを蹴落とさねばならない。 あの男のことだ、中途半端に知識があるものだから話題づくりには事欠かないだろうし、うまく彼女の興味を惹きつけてしぶとく粘っているに違いない。いつだったか、アキラの取り巻きの一人から「塔矢さんて、本当にお話が面白くって」と目を輝かせて告げられた時は乾いた笑いしか出てこなかった。 ――冗談! 相当無理してるに決まってんだ。あの朴念仁が、囲碁以外でべらべら喋るなんて…… いつか出るだろうと思っていたボロは、それが案外出てこないまま今に至る。未だに鼻で笑ってしまうが、実際相手は話術を武器としているのだから侮ってはいけない。 しかし、内藤が送って来るメールの様子からすると、アキラに決めたという訳でもなさそうだった。どちらにするかにんまりしている女を思うと面白くない気分にはなるが、そもそも勝負を持ちかけたのは自分なのだからここで引く訳にはいかない。 ――ムカつくんだよ。あの余裕かました面が―― 穏やかで、品があって、落ち着いた微笑みで女性を虜にする紳士ぶった顔を想像するたび胸がムカムカしてくる。そのくせ自分に向ける目はいつも冷ややかで、見下されているようで…… 昔はああじゃなかった、と独り言を口にしかけて、慌ててヒカルは首を振って。 ――昔なんかどうでもいい。今俺はアイツにムカついてる。だから勝負に勝って悔しがらせてやるんだ。 口唇を緩く噛んでもいまいち心はすっきりせず、再び内藤から届いたメールにうんざりしながら、返事を考えるべく頭を悩ませた。 『その店、前に行ったことがあるけれどなかなか雰囲気の良いところでしたよ。いい取材になるといいですね』 届いたメールに若干の時間をかけて返信した内容は、当たり障りのないものだった。 少し待てば、さっきよりも媚びた調子のメールが届く。それならばとほんの少しだけ文章を和らげて、でも崩しすぎないように―― ふと、文字を打っていた指を止めたアキラは、作成途中だった自分の文章をまじまじと見つめ、渋い表情になった。 宙に浮いた親指はしばらく迷っていたようだったが、それでも少しの間を空けた後には一気に文字を打ち切り、見直しもせずに送信してしまう。 やや乱暴に閉じた携帯電話から手を離して、ふうっと大きな息をついたアキラはどっさりソファに体重を預けた。 ――なんだってこんなことに頭を使っているんだ…… 一度冷静になれば、女性を落とすのに必死になって大事な時間を割くだなんて馬鹿馬鹿しいとしか思えない。ずっと引けずにいるのは、これがヒカルから売られた喧嘩だからだ。 他の誰に嗾けられたって不用意に乗ったりしない。大抵のことなら苦笑いで流せるのに、唯一自分の沸点を一気に上げることができる人物が、何かと目や耳に障ることばかり仕掛けてくるのだ。 発言や行動は粗野という表現がしっくりきて、野放図に過ごす様が周囲にとっては目に余るどころか、爽快にすら感じるらしい。態度の割には敵の少ない男だと思う。それは彼の人懐こさも影響しているのだろう。 警戒なく懐に飛び込まれてしまえば、全てを許したくなってしまう。相手の隙に忍び込むのがとことん得意なのだ――そうやって何人もの女性に媚びた目を向けて、可愛がらせているしたたかさが憎々しい。 いい加減気にするのをやめろと脳は指令を出すが、一度として従えたことはない。声を聞けば熱が上がるし、姿を見れば血が昇る。つい、口が開く。余計なことを言う。責めて打ちのめしたくなる。正しいのは自分だと主張したくなる。 そして、気づけ、とも強く願っているのだ。逆効果なことばかりしているのは自覚があるのに…… 俯くように頭を垂らしたアキラは、だらりと落ちてきたサイドの毛束を鬱陶しがり、手で払いのけるように険しい顔を上げた。 とにかく、この馬鹿げたやりとりから解放されるためには、早めに勝負に勝たないと。再びメールの着信音を鳴らした携帯電話を取り、アキラはふっと息をついた。 |
おばか二人の話ですね……
細かく年齢設定はしていませんが、大体二十代前半〜半ばで。