ヤサ男の夢






「じゃあ収録頑張って〜。うん、またね」
 通話を切ってほっとするのも束の間、間髪入れずに再び音を立てた携帯を思わず放り投げそうになるほど驚きながら、表示された名前を見てヒカルは眉を垂らした。
 迷いはほんの数秒で、すぐにボタンを押して耳に当てる。さっきまでずっと話中だった携帯電話は微かに熱を持っていた。
「もしもし? 大田センセ?」
 いつもの軽い調子で名前を呼びかけると、最近連絡が遅い、新しい店に付き合うって言ったじゃない、今もずっと話中だった――次々に早口で責められ、ヒカルはかん高い声に歯を食いしばりながらフォローの言葉を探した。
「ごめん、今度ちゃんと時間合わせるから。そこそこ棋戦も忙しくてさ〜知ってんじゃん?」
 割り切った付き合いで、身体の関係もほんの数えるほどしかないと言うのに、可愛がっていたペットが離れていく気配を察するといつも女性は我が強くなる。
 「俺はあなたのものじゃない、あなたも俺のものじゃない」――そんなこと最初からお互い分かりきっているはずなのに。
 なんとか宥めて通話を終わらせ、小さくため息をついて辺りを見渡す。仮にも棋院の階段付近、いつ人が通るか知れない場所で揉め事を悟られるのも気まずい。ただでさえ年配連中にはあまり良い顔をされていないのだ、本当は目立った行動は避けておきたい。
 ただひとつ、例外がある。あの顔を見たら周りのことも忘れて、とにかく食ってかかって何らかの変化を与えたくなってしまう。
 手っ取り早いのは怒らせることだった。だからいつも突っかかり、絶対に引かず、認めない。涼しい顔に浮かぶ余裕の笑みが、他の誰かに向けられるのは見たくない。
 そんな自分勝手な意地のために、今もこうして褒められないやり取りに奔放しているわけだが――ふと、階下から声が聞こえてきて、だらりと階段の手すりに凭れていたヒカルは慌てて背を伸ばした。
 別に姿勢を正す必要はないのだが、常日頃怒られやすい人間の条件反射なのだろう。最初こそ無意味に階段の傍で兵隊のように突っ立っていたが、やがて声がすぐには階段を上がってこないこと、そしてその声に聞き覚えがあることに気づいたヒカルは、眉を顰めて手すりに掴まりながら階下に身を乗り出した。
「ごめんね、ここしばらく忙しかったから。なかなかまとまった時間がとれなくて」
「でも、誰かと頻繁にお電話とかしてますよね……? 私、何か気に障ることしましたか」
「そうじゃないんだよ。ボクの個人的な用事だから」
 階段の真下で話し込む二人の会話がはっきり聞こえたヒカルは、そのおおよその内容を察してずんと瞼を下げた。このまま上ってこられたら身を隠す場所がないと焦ったが、二つの声がその場から動く様子はないようだ。
「棋戦をおろそかにすることはできないから。キミも棋士なら分かるよね?」
「……」
「時間ができたら必ず連絡するよ。約束していたお店にも連れて行ってあげるから」
「……本当ですか……?」
 聞いているだけで身体がむず痒くなってきたヒカルは、両腕を抱いてぶるりと背中を震わせた。
 甘ったれた女の声にも寒気がするが、それに答える優しい声が更にヒカルの神経を逆撫でする。
「じゃあ、ボクはこれから打ち合わせだから。またね」
「あ……、は、はい……」
 どうやら話し合いを打ち切ったらしい声が、品の良い靴音と共に階段を上がってくる。
 まずい、とヒカルは乗り出していた身を引っ込めたが、踊り場まで上がってきた男が顔を上げた瞬間、見事に目が合ってしまった。
 驚いたように丸くなったアキラの目が、一瞬で細く鋭くなったのを見て、ヒカルもまたむっと顔を顰めた。
「盗み聞きか? いい趣味だな」
 吐き捨てながらゆっくりと残りの階段を上がってくるアキラを睨みつけ、ヒカルも言い返した。
「所構わず痴話喧嘩するほうに問題あんじゃねーの? 聞かれたくなきゃ気ぃ遣えよ、こっちが迷惑してんだよ」
「キミのように不必要な大声は出していないはずだが? 息を殺して耳をそばだてる通りすがりがいるとは思わなかったよ、以後気をつけよう」
 階段の一段下で、偉そうに見上げてくるアキラの横柄さは、ヒカルの胸にもやもやとした苛立ちを膨らませた。
 同じ調子で言い返してもすぐやり込められることは分かっている。残念ながら、口は遥かにアキラのほうが達者だった。
 それならばと、ヒカルはついと顔を背け、横目だけをちらりとアキラに向けて挑発するような笑みを浮かべた。
「その様子だと内藤ちゃんに手ぇかかって大変みたいだな。意外に縛るよなあ? マメなお前がしんどそうにしてんだから」
 内藤の名前を出した途端、アキラの表情に凄みが増した。眉間に出来た山脈に怯みそうになったヒカルだったが、できるだけそんな素振りを見せないように下口唇に力を込める。
 アキラはじっとヒカルを睨みつけたまま、その形の良い口唇を薄く開いた。
「キミこそやけに時間がかかってるじゃないか。すぐに落とす自信があったんだろう? それともやっぱり無理でしたと負けを認めるか? ボクはそれでも構わないけど?」
「誰が負けてんだよ。お前だって――」
「ボクは今度逢う約束を取り付けたよ。キミはせいぜい電話で楽しくお喋りする程度の扱いだろう」
「えっ……」
 思いがけない言葉にヒカルははっきり声を詰まらせた。
 アキラの言う通り、一日に一度はメールか電話でやり取りする仲にはなったものの、逢おうと誘うようなニオイを漂わせるとひらりと躱される、そんな状態が続いていたところだった。
 どちらかというと、直に逢った相手の目を見て駆け引きするのが得意だったヒカルにとって、文字と声だけのやり取りはいまいち手応えのない戦法だった。
 確かめてはいなかったが、勝手にアキラも同じような状況だろうと楽観していたのが悪かった。まさかもう逢う算段を整えていたなんて――ヒカルは明らかな動揺を顔に表してしまったことに舌打ちし、目尻を吊り上げる。
「……へえ。逢うんだ。逢って何すんの?」
 そこらの女が逢う約束をするのとは状況が違う。相手はメディアに頻繁に露出している有名人だ。どういう意図で相手が誘っているのか、そしてその誘いを受けるとはどういう意味か分かっているはずだ。
「楽しくお喋り、で終わるかどうかは気分次第じゃないか? 幸いにも誰かに許可を得なければならないような年齢ではないからね」
 しれっと答えたアキラは、険しい目つきを冷ややかに細めてヒカルを一瞥し、立ち止まっていた足を持ち上げた。
 カン、と最後の一段を上ってヒカルの横を通り過ぎる瞬間、独り言のような囁きを零す。
「覚えておくといい。安っぽい男に寄って来る女性は、惹かれているんじゃなくて同情心だ」
 カッと顔を赤らめたヒカルは、すでに背中を向けていたアキラを振り返って声を張り上げた。
「安っぽくて悪かったな! お前みたいに金に物言わせて素っ気ない付き合いするなんてつまんねえんだよ!」
 ぴたりと足を止め、アキラが僅かに横顔を向けた。
「別に金に物を言わせてる訳じゃない。金で釣ったような言い方はやめてくれ」
「同じじゃねえか。女モノにしたいならそれなりの対価払えっつったじゃねえか!」
「そんなことは言っていない!」
 振り返ったアキラの髪が大きく揺れる。
 僅か数メートルの距離で睨み合う二人の表情は、鏡に映したかのようによく似た歪みを持っていた。
「そもそもこんなくだらない勝負を持ちかけたのはキミだろう!? どう誘おうとボクの勝手だ! そして彼女はボクを選んだ、その結果が不満なら初めからこんなことしなければいい!」
「お前の根拠のない自信にムカついたんだよ! どうせろくでもない話しかできないくせに、イイ男ぶって次々女誘ってるお前の勘違いっぷりが見てて苛々するんだよ……!」
「人のことを言えるか!? キミこそ十近くも年上の女性に甘やかされて、自分がみっともないと思わないのか! 他人には平気で媚びるくせにキミは……!」
 そこで言葉を区切ったアキラは奥歯を噛み締めて、無理矢理身体に言うことを聞かせたかのように大きくヒカルから顔を逸らすと、靴音を響かせて足早にヒカルから離れていった。階段に突っ立ったままのヒカルは、遠ざかる背中に捨て台詞を叩きつける。
「お前だって、周りのヤツラにばっかり良い顔しやがって! なんで……なんで俺には」
 ――優しくねえんだよ。
 口の中で呟いた言葉は外に漏れずに飲み込まれた。






普通に要領悪くてモテなさそうな二人だ……
キラースマイルが最強武器なのかもしれません……