ヤサ男の夢






 ――アキラの言ったことはどうやら本当のようだった。

 じわじわと感じていた内藤からの連絡の減少が、翌週に入ってはっきり分かるようになった。恐らく近いうちにアキラと逢う――勝負に負けたことよりももっと大きな何かがヒカルから集中力を奪って行く。
 自然と他の女性に対しても態度は素っ気なくなり、周りに愛想を振り撒く相手がいなければ笑顔を作る必要もない。
 気分の転換もできずに苛々したまま棋院の階段を降りて行くと、ちょうどロビーから上がってきたらしい和谷とばったり顔を合わせた。
 ヒカルは慣れ親しんだ友人を見て刺々しい雰囲気を若干和らげたのだが、逆に和谷が眉を垂らして表情を強張らせる。和谷がそんな顔を見せる心当たりがなかったヒカルは、訝しげに眉間に皺を寄せた。
「なんだよ?」
 出会いの挨拶も省略し、単刀直入に奇妙な反応の理由を尋ねたヒカルに対し、和谷は少し迷った素振りを見せた。しかし軽く辺りを見渡して周りに誰もいないことを確認すると、おもむろにヒカルの腕を引っ張って階段の脇へと連れて行く。
 何だか分からないまま和谷にぐいっと身体を引かれ、目をチカチカさせていたヒカルの耳に和谷が小声で囁いた。
「……あのさ。言おうか迷ったんだけど……、お前、ちょっと前に内藤アナとやり取りしてたよな?」
 あっさりと自分の中の地雷を踏まれて、ヒカルは反応することさえできなかった。
 カチンと固まってしまったヒカルに構わず和谷は続けて耳打ちする。
「あれさ……やめといたほうがいいぜ。多分、結構遊んでる。いや、お前も本気じゃなかったかもしれないけどさ、念のため……」
 最初のダメージが大きくて呆然としていたヒカルだったが、和谷の言葉を噛み砕くにしたがってその不自然さに気づき始めた。
 何で今、こんなタイミングで――はっきり疑問を感じることができたヒカルは、和谷に顔を向けて尋ねる。
「……なんでそんなこと、今言うんだ?」
「え……っと」
「お前、何か……見た?」
 和谷の目が泳いだ。逸れてしまった視線に焦れて、ヒカルは和谷の肩を掴む。
「おい、和谷! 何で今俺にそんなこと言う? ……お前、何見た? 和谷!」
 どうやら直感は当たったらしい。
 和谷は小さな声で、ヒカルへのアドバイスのきっかけを渋々説明した。

「さっき……棋院の前、車停まってた。サングラスしてたけど内藤アナだったよ、間違いない。……助手席に、塔矢が乗り込んでたぜ」






 最後まで和谷の言葉を聞いたかは覚えていない。
 気づいたときには降りかけていた階段を再び駆け上り、和谷の声にも振り返らずに脳裏に浮かんだいくつかの顔だけを目指していた。
 棋院の中を走り回って、ようやくそのうちの一人を見つけた途端、ヒカルは掴みかかるようにして目当ての人物の肩に触れた。
 驚いて振り返る女性は、アキラの取り巻きの一人だ。
 女性は乱暴な態度に目を吊り上げかけたが、ヒカルの無言の怒気に圧されて怯えたように首を縮める。
「……教えろ」
 日頃見せる笑顔の様子からは想像もできないような低い声が地を這った。
「アイツがよく行く店かホテル。思いつくだけ全部教えろ」





 ***





 向かう前に一本電話を入れておけば、テーブルも料理も最高の状態にセッティングしてくれる。一流と呼ばれる店は頼めば何だってしてくれる、その万能さが便利で心地よい。
 軽い口当たりの食前酒で舌を湿らせ、シェフ自慢のコース料理にシンプルに着飾った彼女はご満悦。後は穏やかにひとつふたつ物珍しい話題でも持ちかければ、さすが職業柄反応は悪くない。落ち着いたテンポで交わす言葉は、今の関係をベースに考えると話が弾んでいると受け取って構わない状態だろう。
 もう何度こんな光景を見てきたか――アキラは女性であれば誰もが見惚れるような微笑の裏で、やり切れない苛立ちを隠して悶々としていた。
 まるで予め用意されたシナリオがあるみたいに、予想した反応が返ってくる。また、相手がそれを望んでいることが分かる……嫌味なく女王様気分を味わわせて欲しいという期待に応えてやるのは簡単だが、何のためにここまでするのかと問われると言葉に詰まる。
 こうしている時間が全く楽しくない訳ではない。綺麗な女性を連れ歩くのは悪い気分ではない。
 しかしこうまで必死になって何の意味があるのか――見た目も可愛らしいデザートに顔を綻ばせているテーブルの向こうの女性は、二人の男性から言い寄られてさぞやいい気分だったことだろう。
 別に勝負なんか無視したって良かった。女性には不自由していないし、大人しそうに見えて厳しい業界で生き残りを賭けているしたたかな女性を、無理に誘って落とす必要なんか全くなかった。
 ムキになったのは、ヒカルのせいだ。今回だけじゃない。そもそもこんなに頻繁に女性に声をかけるようになったのは……大昔のヒカルの発言がきっかけだった。
 その言葉を撤回させようと躍起になって、気づけば十年近くも時が過ぎた。ヒカルの暴言は撤回どころかエスカレートし、今では顔を合わせるたびに罵倒し合わなければ気が済まない状態になっている。
 喧嘩がしたい訳じゃない。吹っかけてくるのはいつもヒカルで、そしてそれに黙っていられないのが自分だ。グラスを握るアキラの指に力がこもる。
 他の人間にはこちらが心配になるほど胸のうちを曝け出すくせに、何故かと憤りたくなるほど自分だけには心を許さない。そのあからさまさを見逃せない自分も腹立たしい。
 食事が終わり、会話に一段落つけば、時刻的にも大人の時間。あまり気乗りはしなかったが、部屋は用意してあった。
 どうやらお眼鏡に適ったらしく、手洗いから戻ってきた内藤は綺麗に化粧直しを済ませてきた。恥をかかせるわけにはいくまい。予定通りのコースで決定だなと、アキラは静かに彼女を迎えて店を出た。



 これまでにも何度か訪れたことのあるホテルは、名前を伝えるだけで絶景の部屋をセッティングしてくれるようになっている。そのお手軽な心遣いは時に皮肉にも感じるが、今日のパートナーが喜ぶクラスならばここだろうと、迷いなく頭に浮かんでしまう自分が何だか哀れだった。
 サングラスをして俯きがちに隣を歩く内藤をエスコートしながら、豪奢なロビーを足早に突っ切っていく。フロントでもらったカードキーを素早く胸に、案内は不要と目で制してエレベーターへ向かった。
 ボタンを押して少し後、恭しく開いた扉の中に乗り込んで、閉ボタンに指を伸ばした時――
 ボタンによってゆっくりと閉まりつつあった扉に、突然外から指が差し込まれた。
 呆気に取られる二人の前で、まるでドアをこじ開けるように挟んだ両手の向こう側、ドアの隙間から鋭く睨みつけてくる双眼を見つけてアキラが目を見開く。
 障害物の接触で、ドアは自動的に開いた。そこに現れたヒカルの姿に、アキラだけでなく内藤も驚いた顔になる。
「……やっと見つけた。あの女、ずらずら並べやがって……駆けずり回ったぜ」
 肩で息をしながらドアのラインに足を広げ、仁王立ちしたヒカルの目つきは人を射殺しそうなほどだった。
 思わず息を呑んだアキラの後ろに、内藤が気まずげに身を隠す。
「あの、ごめんなさい、私、そういうつもりじゃ」
 内藤のか細い声にヒカルが眉を揺らした。より鋭さを増した目を見て、アキラの腕を掴んでいた内藤の力が強くなる。
 ヒカルは無言で腕を伸ばし、内藤の二の腕を掴んでぐいと引き寄せた。普段女性に対して乱暴な態度を取ることのないヒカルの行動にアキラは大いに驚いたが、その内藤をぽいと放り出すようにエレベーターの外へと突き飛ばしたのを見て更に目を丸くする。
 ヒカルはよろけて呆然としている内藤を一瞥し、
「勘違いすんなよ。お呼びじゃねえんだよ」
 そう短く吐き捨てると、くるりとアキラに振り向いて両手を伸ばしてきた。
 避ける間もなかった。何しろ狭いエレベーターの中で向かい合うだけで自然と距離は至近となる。まるで鷲掴みにするみたいに爪を立てた手が後頭部に伸び、そのまま噛みつかんばかりに近づいてきた顔が――アキラの口唇を捕らえていた。
 内藤がハンドバッグを落とす。
 がっちり髪を指に巻き込まれて頭をロックされたアキラは、柔らかさの欠片もない強烈なヒカルのキスを食らったまま固まっていた。
 ぷはっと息をついて口唇を離したヒカルは、内藤を振り返ってニヤリと笑う。
「ごめんね、あんたじゃなくて」
 その言葉は届いたかどうか、綺麗な顔を引き攣らせて愕然と突っ立っている内藤の前で扉はゆっくりと閉まった。
 エレベーターは予めアキラが押していた十八階目指して静かに上昇していく。耳が僅かに詰まる感覚がある分、スピードは速かった。






次からじわじわ?バトル開始です。
今までで一番台詞で話を進めた気がします……