途中誰かが乗り込むこともなく、開いたドアの外へヒカルが足を踏み出す。釣られるように外に出たアキラは、ほとんど音を出さずに背中で閉まったエレベーターの前で呆然とヒカルを見た。 「……、……キミは……」 掠れた声を漏らすと、ヒカルがちらりとアキラに目を向ける。その横顔は不貞腐れているという表現がぴったりで、むすっとした下口唇が上を向いたままぼそりと動いた。 「悪かったな。邪魔して」 悪いなどと思っていないような口調でそれだけ告げると、ヒカルは身体をターンさせ、アキラの脇をすり抜けてエレベーターのボタンを押した。他に何処からも呼ばれていなかったエレベーターが再びドアを開いたが、ヒカルが中に滑り込む前にアキラが強くその腕を掴んでいた。 「なっ……」 唐突に後ろへ引っ張られたヒカルが驚きの声を漏らすが、アキラは構わずそのまま腕を引く。それどころか走り始めた。体勢を整える余裕もなく、ヒカルは後ろ向きに引きずられながら転ばないよう必死で足を回転させた。 アキラは胸ポケットに差し込んでいたカードキーを抜き、ちらりと部屋番号に目を走らせて速度を速める。 廊下の一番奥、ジュニアスイートルーム目指して駆け抜けると、ドアノブ下のカードリーダーに素早くカードを差し込み、ロックが解除されたドアの奥へとヒカルの身体を突き飛ばした。 受身も取れずに床に転がったヒカルは、バネを仕込んでいたのように上半身をがばっと起こし、絨毯に尻をつけたままアキラを睨みつけた。 アキラは自動でロックされたドアの前に立ち、怒りに震えながらヒカルを見下ろしている。 「……んだよっ! 痛えだろ、このバカ!」 「キミは……、何を考えてあんな真似を……」 「あ? そんなにあの女逃がしたのが惜しかったのかよ。そいつはご愁傷様でした。フォローしたけりゃ勝手にしろよ、俺はもう帰るから」 立ち上がってわざとらしく腰の埃を落としたヒカルは、ドアの前に立ちはだかるアキラを睨んで顎をしゃくった。 「どけよ」 アキラは返事をせず、動きもしない。 焦れたヒカルが無理に押しのけようと一歩前に出ると、それを吹き飛ばす勢いでアキラがヒカルの胸を突き飛ばした。 あまりの衝撃に堪え切れなかったヒカルの身体が傾く。再び床に尻餅をつくと、身体を起こす間もなくアキラが膝で腰を押さえ込むように体重をかけてきた。 「キミはあそこまでしてボクに彼女を渡したくなかったのか? 先を越されたのがそんなに悔しかったのか! よくも、よくもあんな……!」 「うるせえ、あんな女どうでもいいんだよ! お前にイイ思いさせたくなかっただけだ! 不意打ち食らったからってキレてんじゃねえよ!」 「ボクだって彼女なんかどうでもいい! ボクが聞いているのは何故あんな方法を選んだのかということだッ!」 ヒカルの胸倉を乱暴に掴み上げ、アキラがこうまで激しく怒鳴るのは初めてだった。ヒカルは足で腰を押さえつけられている屈辱に顔を赤らめ、負けじと上半身を左腕で支えてもう一方の手でアキラの襟を捻り上げる。 「理由なんかねえよ。ショック与えられりゃなんだって良かったんだ。何キスくらいでカッカしちゃってんの? まさかファーストキスだったとか?」 目つきは鋭いが、口元をへらっと歪めて人を小ばかにした笑みを見せるヒカルに、アキラは奥歯を食い縛って顎を震わせた。 ヒカルの胸倉を掴んだ拳は、そのまま何かを殴りつける気だろうかと思うほど硬く握り締められていたが、その力がふいに緩む。あっと思った時にはヒカルは床に背中を打っていた。 「キミはっ……! ボクの気持ちも考えないで……!」 両手の拳を宙に浮かせたまま強張った顔で声を絞り出したアキラの目には、怒りよりも哀しみが色濃く表れている。 その目に一瞬戸惑った顔を見せたヒカルだったが、無理矢理に顔を逸らして言い返した。 「な、んだよそれ。何でお前の気持ちなんか考えなきゃなんねえんだよ。……だったらお前は俺の気持ち考えてんのかよ。いつだって人のことバカにするくせに」 「売られた喧嘩を買っているだけだ。キミは昔からそうだ……ボクのことなんか少しも考えてくれないで、わざとボクを傷つけるようなことばかり。言葉だけならまだ我慢できた。でも……、あんな、あんな酷いこと……」 泣き出す一歩手前のように顔を歪めたアキラは、涙こそ零さないものの目を潤ませて黒い瞳を揺らしている。 ヒカルは声を詰まらせた。アキラの言葉にはっきりショックを受けた――そんな顔だった。 二人は無言で睨み合ったが、部屋に飛び込んで来た時のような激しい怒りは消えている。代わりに充満する戸惑いと哀しみに、何か言葉を挟むこともできずにただ震える目を見つめ合わせるだけだった。 やがてアキラはのろのろと身体を起こし、ヒカルを解放した。ゆらりと立ったまま何も言わないアキラの前で、ヒカルは静かに立ち上がって、俯きがちに口唇を薄ら開く。 「……悪かったよ。そんなに嫌がられるなんて思ってなかった。……気色悪りぃことしてごめんな」 語尾を震わせて呟いたヒカルの淋し気な語感に、アキラがはっとして振り向く。ヒカルはすでにドアへと向かっているところだった。ドアノブに伸ばした手を、追いついたアキラが後ろから掴む。 ヒカルはぴくりと足を止めたが、振り向こうとはしなかった。 「……放せよ……」 「ボクが言ったのはそういう意味じゃない」 ヒカルの拒否を無視して、アキラは早口で否定した。 「ボクは……ふざけてあんなことができるキミが許せなかっただけだ」 「だから、俺がキスしたのがムカついたんだろ。許せないくらい嫌だったんだろ!」 「どうしてそうなる!? ボクは誰にでもキスできるキミのふざけた態度に腹を立てたんだ!」 「誰にでもなんてしてねえよ、お前にキスしたんだよ! お前だからあんなことしたのに、ふざけんなって怒られたら俺もう何にも言えねえよ!」 振り向いてまくし立てたヒカルの目は赤かった。 その薄ら濡れた表面を見てアキラは呆然と口を開いたが、ヒカルの腕を掴んだ手は放さなかった。 「キミは……ボクが嫌いなんじゃなかったのか」 「お前が俺のこと嫌いなんだろ」 「ボクがキミを嫌いだといつ言った!?」 「俺だってお前のこと嫌いだなんて言ったことねえ!」 声と一緒に大きく息を吐き出した口の形はそのままで、二人の顔色が徐々に驚愕を表して変化し始めた。 一度言葉が途切れてしまえば沈黙を修復する方法はすぐには見つからなかった。 ただ、焦り、戸惑い、そんなもので不安定に揺れる相手の目を見ることくらいしかできなくて、ヒカルはドアを背に立ったまま、アキラはヒカルの腕を掴んだまま随分長いこと無言の時が続いた。 怒鳴り合った勢いに任せて、何らかのアクションを取るべきだったと二人が気づいた時には遅かった。気まずく相手の目を伺う探りあいの時間はじわじわと首を絞めていく。 耐え切れずに動いたのはヒカルだった。アキラがぼうっと掴んでいた腕をふいに振り払い、掴まれていた手首を引き寄せて庇うように胸に当てる。 それが合図になり、アキラもずっと力の入りっぱなしだった肩をトンと下ろして、振り解かれた手で乱雑に髪を掻き上げた。 「……馬鹿馬鹿しい……」 吐き捨てるように呟かれたアキラの言葉に、ヒカルが耳聡く反応する。 「……バカバカしいだって? ……そうだよな、お前にはバカバカしいことかもしんねえけど、」 「どうしてすぐそう早合点する! ……馬鹿馬鹿しいと言ったのは、十年近くもこんなことで悩んでいた自分の行動に対してだ」 ヒカルの自嘲気味な呟きを乱暴に遮って、アキラは掻き上げた髪を耳の後ろでぎゅっと握り締めた。口唇を噛んだアキラを見てヒカルも黙る。 「……ボクはずっとキミに嫌われているんだと思っていた」 独り言のようにアキラはぽつりと零す。 「キミはボクのやること全てに不満があったようだから。ボクは何故キミが怒っているのか分からなかったし、どこが悪いんだと問い詰めてもキミは要領の得ない文句を言うばかりだったじゃないか」 「お、お前だって……俺が一生懸命やってんのに全部ケチつけて、メタメタにけなしたじゃねえか。俺、いっつもムチャクチャ凹んで……」 「ボクはそんな覚えはない。一人で怒っていたのはキミだ!」 「怒ってなんかねえよ、お前が俺をボロクソに言ったんじゃねえか!」 「だからそれはいつの話だ!」 「ずーっと前だよ! お前、言ったじゃねえか! 落ち着きがない馴れ馴れしい、そんなんじゃ誰からも相手にされないって!」 「はあ!?」 ヒカルの説明を要約するとこうだった。 遡ること約十年。 俺藤本先生の研究会にも誘われてさ。うん、女流の。 高間先生の女流本因坊防衛記念パーティー、俺も呼ばれてるんだ。なんか最近よく話してたら気に入ってくれたみたい。 岡田さんが今度家に遊びに来いって。手土産とか持ってったほうがいいのかな〜。 ――キミが落ち着きなくフラフラしているからみんな仕方なく構ってくれているんだ。あまり他人に馴れ馴れしくするな。キミが気づいていないだけで、あんまりしつこくすると誰からも相手にされなくなるぞ―― |
この先はもうご想像通りの展開です……