優しくしたいの






 部室を大きく横切るずらりと並んだ二列の机、一列には碁盤と碁石が十セット、もう一列には同じく十五セット。
 二列の机の間にヒカルとアキラが立ち、列の外側には囲碁部員たちが若干興奮した様子で碁盤に向かっている。
 ヒカルもアキラも向かって右から多面打ちを始めたため、列の中央付近で時折すれ違う。背後にアキラの気配を感じるたびに、ヒカルは思わず後ろの様子が気になってしまう自分をごまかせなかった。
(馬鹿、後ろは気にすんな)
 目の前には真剣に碁盤を睨む二十の目がある。適当な指導碁を打つわけにはいかない。
 彼らは予想以上に面白い一手を返してきた。ヒカルの白石に食らいついてくるその様はプロ棋士にも劣らない本気の気迫がある。
『私がヒカルの幼馴染だって言ったら羨ましがられちゃった』
 少し前のあかりとの会話が脳裏に蘇る。
『ヒカル、うちの囲碁部で大人気なんだよ。指導碁頼めそうだって伝えたらもう大騒ぎで』
 みんなヒカルと打ってもらうために、毎日一生懸命腕磨いてたんだから――
(悪い、あかり)
 ヒカルだって本当は今日の日を楽しみにしていた。プロの棋士として社会に出たヒカルにとって、同年代の彼らと懐かしい雰囲気の中で打ち合える時間は貴重だった。
 今のヒカルにできる限り、彼らのための明日の一手として指導碁を打っているつもりだ。
 しかし、集中しきれない自分がいる。胸に棲まう偏屈な虫がぶつぶつと不平をぶちまけている。
 居所の悪い虫は、背後から聞こえる会話をしっかり耳に入れていた。
「ここは、慌ててツケないほうがいい。盤全体をよく見て、そうしたら優先させるべき次の手が見えてくるから」
 優しい声。
「今の踏み込み方はいいね。小さくまとまらないように、相手よりも厳しい手を返そうとする姿勢を忘れないで」
 柔らかく、丁寧に響く声には気品さえ漂わせて。
「地合ばかり気にしすぎないように、無理につなげようとしないで。この場合はね……」
 諭すように穏やかに、気持ちよく耳に触れる優しい声。
 後ろでアキラがどんな表情をして女の子たちの前に立っているのか気になって仕方がない。こんなことなら、自分が女の子を引き受ければよかった……ヒカルは情けなくも嫉妬している自分を恥じる。
(だって……なんかカワイイ子多いんだもんなあ)
 華やかで、いい匂いがして。あかりだってまあまあ可愛いほうだと思っていたのに、彼女たちの中に入ってしまえばそれほど目立たない。
 特に、一人際立った美人がいた。髪の長い、伏目がちの大きな瞳。日本人形みたいな肌の白さで、なんだかとってもアキラにお似合いな……
(……)
 ヒカルがそろっと背後を振り返ると、まさにその日本人形の打つ碁盤にアキラが向かっていた。
 アキラは彼女の打った手に対して微笑みながら、ここはこう、と優しく指導する。彼女の頬はほんのり赤い。
(……、……)
 何とも言えず顔を顰めてしまったヒカルの前で、「負けました」と告げた男子部員が不思議そうにヒカルを見上げている。
 慌てて顔の向きを戻したヒカルは、ぐきっと少々首の筋を捻りながらも、負けた彼に対して最善の一手を説明する。
 ――ああ、ダメダメじゃん俺。
 ヒカルはもう一度心の中であかりに詫びた。
 今度指導碁を頼まれた時は、アキラを置いてきてもう一度真剣にやります! ――ヒカルの懺悔があかりに届いたかどうかは分からない。



 多面打ちが全員終了した時は、すでに一時間以上時間が経過していた。一度休憩をとろうかと言う話になって、部員たちは一斉に肩の力を抜いたようだった。
 ヒカルは相変わらずアキラの様子を気にしていた。休憩だというのに、女子生徒たちはやんわりとアキラを取り囲んでいる。その中央で、特に嫌がるふうでもなく穏やかな笑みを浮かべたアキラが、彼女たちの質問に何やら答えているようだ。
 にこやかな雰囲気に、ヒカルはますます暗くなる。
(なにニコニコしてんだよ)
 ヒカルのほうをちらとも見ない。というより、囲む女の子たちのせいでアキラ自身がほとんどヒカルから見えない。
 彼女たちの隙間から覗くアキラの笑顔が胸に痛い。
(あ、あ、またそんな近くに)
 例の日本人形がアキラに随分と近い位置をキープしている。何事かアキラに尋ねたらしい彼女と、微笑み合うアキラが酷く優しそうな顔をしていて、ヒカルの不安はちりちりと心臓を焦がし始めた。
「進藤二段はどうしてプロになったんですか?」
「え?」
 気づけば自分の周りにも部員たちが集まっていた。アキラと違うのは、それが男ばかりということ。
 ヒカルは咄嗟にかけられた質問を飲み込むのに多少の時間を要し、えーとえーとと余裕のない前置きのあと、「囲碁が好きだったから」と月並みな返事をした。
 ――それから、あそこで女の子に囲まれているアイツのせいだよ。
 アキラが佐為を追い、そしてヒカルがアキラを追った。心を繋ぐ関係になっても、ひょっとしたら追いかけっこは終わっていないのかもしれない。
 ……なんてことを彼らに伝えるつもりはなかったが。
 男子部員は部長こそ真面目なイメージだが、他の部員はそれなりに髪型にも気を使った様子で、学ランの隙間から覗くカラフルなシャツを見る限り私生活ではそこそこお洒落なのだろう。
「あのさ、敬語使わなくていいよ。俺、たぶん年同じくらいだし」
 ヒカルは思わずそう言った。
 ただでさえあまり集中していない指導碁を打ってしまったのに、先生扱いされるのは申し訳ない。
 ヒカルの言葉に安心したのか、徐々に彼らは砕け始めた。囲碁の話から最近のテレビ番組まで、ごく普通の学生のように明るい話題を楽しみながらも、ヒカルはやはりアキラを囲む集団に時折気をとられる。
 ふいに、どっと女子部員の間から笑い声があがった。その中央にいるアキラもまた楽しそうに笑っているのを見てしまい、ヒカルは思わず立ち上がる。
 不思議そうにヒカルを見ていた男子部員たちに、「ちょっとトイレ」と断って部室を出る。
 見ていられない。
 閉じたドアの向こうで、ヒカルは曇ったため息を一気に吐き出す。
(なんだよ、アイツ)
 今日は一度も自分に笑顔を向けてくれないくせに。
(女の子に囲まれてヘラヘラしやがって)
 そりゃあ、男性としてかなりオイシイシチュエーションではあるけれど。
 しかし、仮にも恋人が傍にいるのに。その恋人を放っておいて、可愛い女の子にばかり優しい声と笑顔を大サービスするなんて。
(……やっぱり連れてこなきゃよかった)
 囲碁一直線だったアキラにとって、女の子との出会いなんてあってなかったようなものだったに違いない。
 きっかけを与えるのが怖い。もし、何かのはずみで自分よりも可愛い女性に魅かれるようなことになったら。
(……そんな訳ないだろ)
 言い聞かせる自分の心の声までも酷く頼りない。
 ふいに背中のドアががらっと開いて、支えを失ったヒカルは仰け反った。腹筋を駆使し、なんとか体勢を戻して振り返ると、驚いた表情のあかりが立っている。
「ヒカル、トイレ行ったんじゃなかったの?」
「あ、ああ、こ、これから行くんだよ」
 上擦った声を怪しまれないだろうか。ヒカルはドキドキうるさい心臓に静まれと念じる。
 あかりはフーン、と小さく呟いた後、廊下に出て部室のドアを閉めた。一瞬聞こえてきた女の子たちのざわめきが遮断される。
「あのさ、ヒカル、ちょっといい?」
 少し声のトーンを落としたあかりが、ドアから離れてこっちこっちとヒカルを手招きする。ヒカルはまだ落ち着かない胸を抱えて、正直面倒くさげにあかりに近づいた。
 あかりはそっと耳打ちするように手を添え、ヒカルはそれに合わせて少しだけ身を屈めてやる。
 どうせ大した話じゃないんだろう、なんて思っていたヒカルの耳には、
「塔矢くんって彼女いるの?」
 予想だにしていなかた爆弾が投下された。
「え? え?」
 突然の質問にうまく切り返しができず、口ごもるヒカルにあかりの表情が暗くなった。
「やっぱり、いるの?」
「い、いや……、いない、よ」
 彼女は。
(間違ってねぇぞ、俺は)
 彼女はいないというのは嘘ではない。しかし目の前の幼馴染にこれ以上ない罪悪感を感じるのは何故だろう。
「な、なんで塔矢の彼女なんか気にすんだよ。お前、まさか……」
 ヒカルが疑いの目を向けかけた時、あかりは真っ赤な顔で首と両手をぶんぶん横に振った。
「違う、違うよ! 私じゃなくて、その……美咲が」
「ミサキ?」
「ヒカル、見てない? 髪長くて色白いコ」
「……日本人形?」
 思わず自分の中だけでのコードネームを口にしてしまい、ヒカルは慌てて口を塞いだ。
 あかりは不思議そうな顔をしていたが、
「ああ、うん、そう。日本人形みたいなコ」
 すぐに納得してくれたようだった。
「美咲ね、ずっと塔矢くんの大ファンだったんだよ。こんな機会もうないかもしれないから、チャンスだってみんな美咲に協力することにしたの」
「チャ、チャンス?」
 チャンスって何の――聞かずとも分かる。
 ヒカルの背中に嫌な汗がじわりと浮かんだ。
「美咲、凄く可愛いでしょ。それに凄くいいコなの。塔矢くんと並んだらお似合いなんだよねえ」
 その様子はさっき見ましたとも。ええ、確かにお似合いでしたよ。
「あのコ恥ずかしがりやだから、自分からはなかなかいけないみたいで。でも、彼女いないんだ。よかったぁ」
 彼女はいないけど、恋人はいるんだよ――口走りそうになる自分を抑えるのが辛い。
 ヒカルはなるべく表情を変えないように、その代わり拳をきつく握り締めた。少し伸びていた薬指の爪が手のひらに刺さって痛む。
「ねえ、ヒカルも協力して?」
 やなこった。
 ヒカルは純真無垢な幼馴染に、曖昧な笑みを見せた。
「ヒカル?」
「……あんな可愛い子、塔矢にはもったいないよ」
「またあ! ちゃんと二人見てみなよ、美男美女ですっごいお似合いなんだから!」
「俺、トイレ行く」
「もう、ヒカル、お願いね!」
 ――もうやめて欲しい。
 なんだか、心がどんどん黒くなっていくような気がする。
 知らなかった、嫉妬って醜いものなんだ。
(前に、塔矢が社と俺の碁に嫉妬したことがあったけど)
 あの時とは状況が違う。
 だってこんな人に言えない関係で。
 理由の分からない喧嘩もしていて。
 おまけにアキラに並んだ彼女はとても綺麗で。
(なんだよ、俺と塔矢なんかエッチまでしてんだぞ)
 あのすました顔を必死でいっぱいにさせて、女性のような柔らかさなんて一切ないこの身体を、辿々しくも大切に抱いてくれたのだ。
 ついこの間、あんなに幸せな気持ちになったばかりだったのに――心とは脆いものなのだと、ヒカルは男子トイレの窓から見えるどんより厚い雲を睨んだ。
 もう少し時間が過ぎたら、代わりに空が泣いてくれるかもしれない。
 できれば、泣き出す前にアキラと二人になりたかった。
 もう、何でもいいから謝ってしまおう。あの笑顔を自分だけに向けてほしい。
 早く帰りたい――ヒカルは自分の気持ちをいよいよ素直に認め、素早く用を足した。






私はオリキャラを使うのが非常に下手なので、
極力使わないか名前をつけないようにしてます……
でも今回はちょっとそれだと難しくて渋々。
自然で素敵なオリキャラ出せる方は憧れ。
ヒカルは前向きで、それ故に自分勝手でいて欲しいというか。
子供っぽいから落ち込みやすくて立ち直りも早いのかと。
でもその分、いろんなことを吸収して
大人になったらとてもいい男になるんじゃないか……
と夢見てます。