「えっ、お祭り?」 戻ってきたヒカルに聞かされた話は、何ともはた迷惑なものだった。 「そ、近くの神社で明日までやってるから。この後女の子たち何人かで行く予定だったんだけど、ヒカルと塔矢くんもどうかなーって」 にこにこと悪気ないあかりの笑顔がヒカルを追い詰める。 ヒカルはすぐに返事ができずに、眉を垂らして口ごもってしまう。 分かっている、祭にかこつけてアキラと彼女をどうにかしたいに違いない。 腹が立つのは、背中に女の子たちを従えて同じくにこにこしているアキラだった。 「悪いけど、俺も塔矢も忙しいから」 言葉に覗く棘を隠し切れない。きっと表情もあからさまに嫌な顔になっているだろう。 それでも、あかりや彼女たちにどう思われようとも、これ以上自分の嫌な気持ちを抱えていたくなかった。アキラだってヒマな訳ではない、今日も本当なら忙しいのに無理をしてついてきたのだから。 ところが、そのアキラが信じられないことを言い出した。 「ボクは構いませんよ。進藤、行こうよ。用事ないだろう?」 わあっと女子部員に歓声が上がる。 ヒカルは思わず美咲の顔を盗み見た。僅かに赤らんだ頬が嬉しそうに緩んでいる。 目の前が暗くなっていく。 (なんで?) 早く二人になりたいのに。 (なんでそんな嬉しそうにしてる?) ヒカルを一人取り残して、アキラもあかりも勝手に話を進めていく。 「私たち、一度帰って浴衣に着替えてくるから。六時くらいに神社で待ち合わせでいいかな?」 「浴衣か、いいね。ボクらも浴衣着ようか、進藤?」 振り返ったアキラに、ヒカルは魂の抜けたような顔しか返すことができない。 「ええ、浴衣あるの?」 あかりが興奮した様子でアキラに尋ねると、アキラは笑って頷いた。女の子は全員見たい見たいとはしゃいでいる。 「うちでは毎年何着か作るから。進藤、ボクのを貸すよ。後でうちに寄ろう」 ようやく自分に向けられた笑顔にも、ヒカルは素直に喜べない。返事もできず、かといって「俺は行くなんて言ってない」とも言えず、黙っているヒカルを周囲は肯定したと受け取ったらしい。 じゃあ六時に集合、とまとまった話は和やかな拍手で締められた。 (ああ、嫌だ) こんなに不安な空の下、お祭りなんてきっとすぐに中止になる。 胸の中には空より黒い雲の群れ。 嫌だ嫌だ。自分が嫌だ。心の狭い自分が嫌だ。誰にでも笑いかけるアキラが嫌だ。 早く雨が降るといい。心が泣き出す前に、空が泣いてくれれば少しは気持ちが晴れる。 しかし、祈り虚しく二度目の多面打ちが終わっても、空は涙を堪え続けていた。 校舎を出てすぐに拾ったタクシーの中、ヒカルは黙って振動に揺られるがままぼんやり空間を見つめていた。 隣のアキラは行き先に自宅を告げ、どことなく楽しげだ。 (そんなに嬉しいのかよ) 女の子引き連れてお祭りに行くのが? 醜い嫉妬がきゅうきゅうと胸を締める。 あの後、すっかり碁盤からヒカルの心が離れてしまったまま、ヒカルとアキラは男女を入れ替えて多面打ちを行った。 女子の実力は男子に劣らず、十五人もの相手を一度にするのは正直きついと思った瞬間もあった。 美咲はなかなか筋の良い碁を打つと思った。それが余計にヒカルを苦しめる。 囲碁ができて、美人で、控えめで、性格も良さそうで。 そんな彼女とアキラを、あかりを筆頭にくっつけたがっている人々がいる。 (コイツ、分かってんのか?) ――俺がいるのに。 こんなに近くにいるのに、なんでこんなに惨めな思いをしなければならないんだろう。 まだ雨は降らない。早くしてくれないと間に合わない。 恨めしげにヒカルが窓の外を見上げた時、ふと投げ出していた右手にそっと温かいものが触れた。 思わず振り返ると、アキラは前を向いたままヒカルに左手を重ねている。ぎゅっと力を込められ、ヒカルは息を呑んだ。 アキラの横顔はヒカルに何も言わず、ただ黙ってヒカルの手を握り締めている。ヒカルが困惑の眼差しを向けても、アキラは振り向かなかった。 (……分かんねーよ、このバカ) 穏やかな目で真っ直ぐ前を見つめるアキラ。 今日会ってからろくな笑顔も見せてくれなかったくせに、今更こんなふうに触れられたって。 (分かんねーよ……) 自分の心は嫉妬に狂いそうなのに。 久しぶりに感じたアキラの温かさに、空に負けて先に泣いてしまいそうになる。 雨よ降れ。些細な願いは届かない。 右手だけが温かく包まれて、タクシーは静かに塔矢邸の前で停車した。 「これ、何年か前に作ったものだけど。ほとんど袖は通してないから」 アキラはヒカルに浴衣を羽織らせて、長さを確認する。 ヒカルは黙ったまま、覚束ない目で浴衣の柄を見ていた。 白い涼しげな布地に、紺の短冊が市松模様に並ぶ。薄ら葵色の向日葵が散りばめられた、夏らしい柄だった。 「キミに似合うと思ってた」 アキラは手際よくヒカルに浴衣を着付けながら、伏せた睫毛をぱちぱちと揺らす。そんなアキラを見下ろしながら、ヒカルの心も複雑に揺れていた。 今日初めて見る、ヒカルに対するアキラの優しげな表情。 あんなに不機嫌だったくせに。邪推してしまう自分をごまかせない。 ヒカルは口内の肉を噛んで、じっとアキラの着せ替え人形になっていた。腰を締める紐を口に咥えたアキラが妙に凛々しく、胸が苦しくなる。 「……ごめんね、今日は」 ふと、沈んでいたヒカルに意外な言葉がかけられて、落ちていた眉がはっと上がる。 「いや、先週からずっと。勝手に腹を立てたりして……ごめん」 「……?」 アキラはヒカルの腰に手を回し、きゅっと紐を締めた。 「キミが、ごく自然に藤崎さんの頼みを引き受けるから……情けないけど、嫉妬した」 「え」 若草色の帯を手にとるために、床を向いたアキラの横顔が僅かに赤らんでいる。 ヒカルに帯を巻き、「苦しくないか」と問うアキラに、ヒカルは口を開けたままぽかんと頷いた。 「キミと藤崎さんは幼馴染だと聞いているから。仲が良いのは仕方ないと思っていたんだけど……やっぱり、気になって」 「……バカ……俺とあかりがどうこうなるわけないだろ……」 困ったように苦笑するアキラに、ヒカルは笑い返すことができなかった。 「うん、そう思おうとしてたのに、君があんまり藤崎さんを庇うから。つい、ムキになって……行かせたくなかった。一人で行かせるくらいなら、ボクもついて行こうと思ったんだ」 歪みなく締められた帯を確認し、アキラはヒカルの胸元の合わせを軽く引っ張って整えた。 「でも、実際彼らに会ったら、その真剣さに反省したよ。キミはただ彼らの熱意に応えようとしただけなのに、くだらない嫉妬でそれをぶち壊そうとしたなんて。本当に、キミのこととなるとボクは心が狭くて嫌になる。……厄介ごとだなんて言って本当にすまなかった。キミ、ボクが不機嫌だったからずっと怒っていたんだろう?」 (バカ、むちゃくちゃ心が狭いのは俺だっつーの) 微かに震える口唇は、開こうとするとうっかり余計なことを言ってしまいそうだった。 アキラは一歩下がって浴衣の着付け具合を確認し、ヒカルの目の前で「できあがり」とにっこり笑った。 「思った通りだ。似合うよ」 緩やかに細められた瞳と口唇が美しいカーブを描いて、今日見た中で一番優しいアキラの笑顔が目の前にある。 ヒカルは喉の熱さを堪えて声を詰まらせる。 (ああ、やっぱり一番バカなのはいつも俺だ) アキラが彼女たちに見せた優しさは、棋士としての優しさで。 彼はプロとして誇りを持って、彼女たちと接したにすぎないのだ。 それなのに、くだらない嫉妬をしたのは自分のほうだ。 腑抜けた指導碁を打ってきてしまったのは自分のほうだ。 「去年キミと行ったお祭り、楽しかった。また行きたいって思ってたんだ。二人きりではないけど」 「塔矢……」 「仲直り、してもいい?」 軽く小首を傾け、アキラの髪が頬にかかる。 ヒカルはもう何も言えなくなり、答える代わりに目を閉じた。 一瞬の間を置いて、すぐに口唇は温かく塞がれる。 ――俺、塔矢が大好きだ。 ヒカルは長い長いキスにうっとりと意識を委ねて、燻っていた嫉妬の心をようやく解放した。 空は相変わらずどんよりと重たかったが、このまま雨が降らなければいい、と切に願った。 |
仲直りした途端にヒカル現金です。
二人とも、「怒ってる」「泣いてる」「悲しんでる」といった
感情の変化にはすぐに気付いても、
その理由まで悟り切れない辺りがまだ子供なのかと。
ちなみにヒカルの浴衣にはモデルがありますが
案の定女性ものだったりする……。