夢の子供






 近場のファーストフードに逃げ込んで、適当な飲み物を注文して席に座ると、ヒカルの口から大きなため息が漏れた。
 無理やり連れて来られたさくらは居心地悪そうにしていたが、それでも黙って向かいに座る。さすがに彼女が戸惑っていることを察したヒカルは、改めてフォローを続けた。
「ごめん、キツイこと言って。俺口悪いからさ、あんま気にしないで。でもさ、お前ホントに塔矢と似てんだぞ? 知らない人にあれこれ話しかけられたらめんどくさいだろ?」
 あれは俺なりの気遣いだったんだぞと善意を臭わせ、変な汗をかいて渇いてしまった喉を潤すため、注文したコーラを勢い良く吸い上げた。
 さくらには好みも聞かずにコーヒーを頼んでしまったが、手をつける様子がない。遠慮しているのかと思い、ヒカルは悪びれずに促した。
「奢りだから、飲めよ。高いもんじゃないけどさ」
 その言葉にびくっと肩を竦めたさくらは、ヒカルに小さく頭を下げ、おもむろに付属の砂糖とクリームを全てコーヒーの中にぶちまけた。今にも折れそうな細いプラスチックのスプーンで掻き回され、ブラックからブラウンに色を変えたコーヒーを見て、ヒカルは軽く面食らってしまった。
 姿かたち、話し方や棋風までアキラと似ているものだから、好みも同じかと思い込んでいたが……コーヒーをブラックで飲んでいるアキラしか見たことがないヒカルにとって、さくらの行動は全く予想外だった。
 もしやと観察してみれば、さくらはちびりとコーヒーを含んだ後、二口目をすぐに口にしようとはしない。
 ひょっとしたら、彼女はコーヒーそのものがあまり好きではないのでは……ようやく気づいたヒカルは、慌てて席を立とうとした。
「悪い、俺、てっきり塔矢と同じもん飲むのかと……。ジュース買って来る」
「い、いや、いい、飲める」
 さくらも焦ったようにヒカルを制する。ヒカルは一瞬迷ったが、余計なことをしても彼女が恥をかくだけだと悟り、浮かしかけた腰を椅子に落ち着けた。
 しかし座ったところで気まずい空気の中、何を話したものかとヒカルは頭を悩ませる。
 コーヒーを両手で握ったままじっとブラウンの波紋を見つめているさくらは、コーヒーの苦味のせいかそれともヒカルが気に食わないのか険しい顔をしていた。きゅっと結ばれた口唇はいかにも気が強そうで、何かを話し掛けられる雰囲気ではない。
 ――まいったなあ……なんか、塔矢と喧嘩した時みてえだ……
 日頃から口の悪い自分は、しょっちゅう失言をしてアキラを怒らせることしばしばだ。まだ怒鳴り返されるなら良いのだが、あまりに怒り心頭に発するとだんまりを決め込まれてしまう。そうなるとアキラはタチが悪い。
 目の前のさくらは、そんな時のアキラによく似ていた。にこやかに笑っていれば可愛らしい少女だろうに、何もこんなところまであの無愛想な男に似なくとも。ヒカルが小さく溜め息をついた時、さくらがおもむろに口を開いた。
「……そんなに」
「え?」
「そんなに、似てるのか」
 幾分高い声だが、アキラと怒った時と同じようなぶっきらぼうな口調で問われて、調子を狂わせながらもヒカルは答える。
「……似てるよ。女塔矢って感じ」
「……」
 複雑な表情でさくらが黙る。
 しまった、また余計なことを言っただろうかとヒカルが狼狽えかけた時、ポケットに入れていた携帯電話が軽快なメロディーを響かせた。
 周囲の人から視線を向けられながら、ヒカルは慌てて携帯を取り出す。液晶画面に表示された「塔矢アキラ」の文字に驚き、思わずちらりとさくらに目を向けてから携帯を耳に当てた。
「もしもし? ……塔矢?」
 さくらにも分かるようにアキラを呼ぶと、案の定さくらがぴくりと顔を上げた。
『進藤、今どこにいるんだ? キミ、対局早く終わっただろう? ボクも今終わったんだが……研究会まで時間があるから、予定がないなら検討でもしないかと思って』
「あー、う、うん、今さ、実は……お前のイトコと一緒なんだけど」
 またも視線を向けると、さくらの顔がかあっと赤くなった。微かにヒカルを非難するような目をしたさくらから慌てて顔を逸らすと、携帯から驚いたようなアキラの声が響いてくる。
『イトコって、さくら? さくらと一緒なのか? どうして?』
「いや、どうしてって言われても……。なんか棋院まで来てたんだよ。ちょっと騒がれそうだったからさ、俺、引っ張って外出たんだ。あの、近くのマック。場所分かるだろ?」
『本当? 分かった、今すぐ行く。ちょっとそこで待っててくれ』
 少し早口になったアキラの言葉と共に通話が切れた。
 ヒカルは切れた携帯を見下ろしてふうと息をつき、申し訳なさそうにさくらを振り返る。
「……塔矢、来るって。ここで待ってろって」
「……」
 さくらは目線を落としてきゅっと口唇を結んだ。
 ヒカルは、恐らくさくらは棋院に来たことをアキラに言うつもりはなかったのだろう、と推測した。
 昨日の態度からして、さくらがアキラを憎からず想っていることは容易に窺い知れる。さくらが何をしに棋院に来たのかは分からないが、アキラに迷惑をかけたくなかったのか、こっそり訪れてこっそり帰るつもりだったのだろう。もっとも、ヒカルに見つからなくても彼女が棋院の中を少し歩くだけで、ちょっとした騒ぎにはなってしまっただろうけれど。
 アキラが電話で告げたように、ヒカルとアキラはこの後芹澤主催の研究会に参加することになっていた。研究会まではまだ一時間ほど時間があるが、さくらがいる以上どうやって時間を潰すべきか……ほとんど会話らしい会話もなくなってしまったさくらとの気まずい空気に耐え切れず、ヒカルはひたすらコーラのストローを咥え続けた。
 どうも、女の子の扱いは難しい。プロになって以来、こんなふうに女の子と話す機会もろくになかったし……
 しかもまるで相手はアキラの女版だ。まるで変に大人しいアキラと向かい合ってお茶を飲んでいるようで、普段ならあり得ないシチュエーションにますます調子が狂ってしまう。
 通夜のように押し黙ったまま二人が飲み物をちびちび舐めていると、走ってきたのか軽く息を弾ませたアキラがやって来た。
「ごめん、進藤。さくら、どうしたんだ。一人で来たのか?」
 最初の謝罪は恐らくさくらの相手をしてくれて、という意味だろう。ヒカルが肩を竦めた向かいで、さくらもまた身を小さくしてアキラを上目遣いに見上げた。
 アキラは乱れた髪を無造作に掻き上げて、その左手首にはめられた腕時計をちらりと覗いてから、ため息混じりにさくらに告げる。
「もう暗くなる。送るから帰ろう。ここにいるのは母は知っているのか? 心配しているかもしれないから」
 帰ろう、という言葉に驚いたのはさくらだけでなくヒカルもだった。その反応が目に入ったのか、アキラはヒカルを見て申し訳なさそうに眉を寄せた。
「すまない、今日の研究会は休むよ。芹澤先生に謝っておいてくれないか」
「いい、一人で帰れる」
 ヒカルが何か言う前にさくらが間に入ってきたが、アキラは厳しい表情でダメだと一喝した。
「家に着く頃には何時になると思ってるんだ。うちの周りはそれほど明るい通りじゃないし、女の子を一人で歩かせるわけにいかないだろう。帰るよ」
 少し早い口調でぴしゃりと説いたアキラに、さくらは黙って俯いた。恥ずかしさか、それとも別な要因があるのか、ほんのり赤らんだ頬をヒカルはぼんやり見ていた。
 ――こんな顔、アキラはしない。
 アキラによく似たさくらが見せた、アキラにはない部分がまたヒカルの胸に靄を生み出して行く。
 アキラは再びヒカルを振り返り、厳しい表情を少し和らげた。
「そういう訳だから。研究会、面白い話があったら今度教えてくれ。さくらの相手をしてくれてありがとう」
「あ、ああ……」
 ヒカルの曖昧な返事が耳に届いたかどうかも分からないが、アキラは話は終わったとばかりにさくらを立ち上がらせて、じゃあと軽く手を上げる。
 連れ立って去っていく二つの背中を眺めながら、ヒカルは無意味に手を上げてひらひらと振った。
 二人が通り過ぎると近くの人が振り返る。それからひそひそと囁き合う。双子かな、なんて会話が交わされていることは間違いない。
 それでも並べば男女の違いは際立つ。長身のアキラと、細身のさくら。よく似ていても、はっきりアキラは男で、さくらは女の子だった。
 取り残されたヒカルは、一緒に出るはずだった研究会をアキラがあっさり蹴ってしまったことに、なんだか心にちくちくと棘が刺さったような引っ掛かりを感じて顔を顰める。
 ――夕べは「女じゃない」と送られるのを断った自分だけれど。今度は本物の「女の子」にアキラを取られてしまった……
 面白くねえの、と残っていたコーラを一気に吸い上げると、氷の隙間に残った液体がズズズと大きな音を立てた。




 その夜、背を向けていたベッドに放り投げたままだった携帯電話に着信があった。
 芹澤の研究会で見た棋譜を険しい顔で並べ直していたヒカルは、やかましいメロディーに集中力を削がれて渋々振り返る。
 その場から動くのが面倒で、腕だけ伸ばしてひょいと取り上げた携帯電話を顔に近づけると、相手はアキラだった。その名前を見た途端、渋っていたヒカルの表情がぽんと丸みを帯びて、次の瞬間には通話ボタンを素早く押し込んでいた。
「もしもし?」
『進藤? 今日はすまなかった』
「あ……いや、うん、しょうがねえじゃん。芹澤先生にはうまく言っといたからさ。次は是非って言ってた」
『そうか……残念だったよ。研究会もだけど、せっかく時間が余っていたんだからキミと検討したかった。父が中国から持ち帰ってきた棋譜があったんだが』
 何気ないアキラの言葉にどきんと胸が鳴る。
 研究会に出られなかったことより、ヒカルとの時間がなくなってしまったことを惜しむアキラの声は、自分でもよく分からない苛立ちを感じていたヒカルにとって不思議に甘い響きを持っていた。
『明日の予定は? 夕方でも、時間があるならうちに来ないか? 明日は両親が午後から家を空けるから、気兼ねしなくていい』
「え……」
 思いがけないお誘いにふわっと頬が緩む。
 無意識にぼやけた笑顔を作ってしまっている自分に気づいて、ヒカルは慌てて空いた手で頬をぺちぺち叩いた。
 しかし次の瞬間、アキラとよく似た少女の姿が脳裏に浮かぶ。微かに顔を強張らせたヒカルは、思わずアキラに尋ねてしまっていた。
「……イトコは、いるのか?」
『さくら?』
 アキラの声で「さくら」という音を聞き、ヒカルはそこで自分が奇妙な質問をしたことに気づいてカッと耳を熱くした。
『さくらは家にいるけど……さくらがいると何かまずい?』
「い、いや、そんなことねえよ」
『検討の邪魔になるようだったら他の部屋に行かせるよ。今度はさくらとは打たせないよ? ボクの相手をしてもらわないと』
 冗談ぽくそんなことを言うアキラの声が、焦りに揺れるヒカルの胸をひたひた満たして舞い上がらせていく。
 ヒカルは確かな笑顔を作って、見えやしないのに大きく頷いて答えた。
「わ、分かった! 明日、行く!」






恥ずかしさ継続中。
でもまだ十代だから許されるだろうか。