夢の子供






 タンタンとリズムよく石畳を踏み越えて、いつものように玄関の引き戸に手をかけようとして――「さくらは家にいる」というアキラの言葉を思い出したヒカルは、慌ててチャイムに指を伸ばした。
 耳に優しいチャイムの音色が屋内から漏れ聞こえてくる。少し待つと玄関の内側から物音がして、引き戸の磨りガラスに見慣れたシルエットが映った。
 が、身構えていたのは当たりだった。ガラガラと開かれた扉の向こうにいたのはさくらだった。
 ヒカルは昨日のことを思い出し、何となく気まずさを感じて「よお」と小さく声をかけるのみだった。さくらはぺこりと頭だけを下げて、身体をずらして中に入るよう無言で促がす。
 この家にアキラしかいなかった時は、いつもフリーパスで無遠慮に入り込んでいたヒカルにとって、こんなふうに誰かの許可を受けて靴を脱ぐというのはあまり気分の良いものではなかった。アキラの両親ならともかく、ただの従妹で年下のさくらが相手というのが余計にそう感じさせるのかもしれない。
 しかしすぐに自分の傲慢さを認めて顔を赤らめた。――実際に血の繋がった親戚が赤の他人を出迎える構図に、どんな文句があると言うのだろう。
 靴を脱いだところで立ち止まってしまったヒカルに、さくらがぽつりと声をかけた。
「……アキラが、部屋に行っててくれって。今お茶を持っていくからって」
 さくらを振り返ったヒカルは、明るく返事をすることも躊躇われて軽く首を動かすに留まった。部屋、と言うのは恐らくアキラの部屋だろうと見当をつけ、もうすっかり慣れ切った廊下を迷うことなく歩き出す。
 ヒカルの後を、さくらがついてくるのが分かった。
『検討の邪魔になるようだったら他の部屋に行かせるよ』
 夕べのアキラの言葉を思い出す。……邪魔になるようだったら、ということは、とりあえず最初は一緒に検討を行うということだろうか。
 もちろんそれはそれで構わないのだが、どことなく胸を引っ掻く棘が復活したようで、ヒカルは無意識に右手を心臓の上に当てていた。
 アキラの部屋にはすでに碁盤と碁笥、そして検討するのだろう棋譜が臨戦態勢で揃えられていた。
 部屋に入っていつもの定位置、襖を背にした座布団の上に腰を下ろすと、さくらが碁盤を真横に臨む位置に同じく座布団を敷いてぺたりと正座した。
 無言でいるには辛い近距離だった。
 ヒカルは何か話しかけるべきだろうかと眉を下げ、しかしさくらは側面から碁盤をじっと見つめたままヒカルのほうをちらとも見ないので、タイミングが掴めない。
 ちょっとは気を利かせろよと、理不尽な苛立ちがヒカルの身体をそわそわと揺らす。
 ――大体、コイツはなんでこの家に居座ってんだよ。
 ヒカルはさくらがやって来た日のことを思い出しながら、このアキラとそっくりの不思議な少女の横顔をまじまじと眺めた。
 ――そういや、親父さんが「利かない娘で困った」って言ってたよな。いくら夏休みだからって、滅多に来ない親戚ん家に長く居座るって……変だよな。
 徐々にヒカルの眉間に皺が寄り始めた時、からりと乾いた音が背中に届き、「お待たせ」と涼やかな声が聞こえてきた。
 振り向くと、盆の上にコップを乗せたアキラが優雅な仕草で襖を閉めている。アキラは盆を畳の上に置くと、ヒカルの傍には炭酸飲料を、自分とさくらにはアイスコーヒーの入ったコップをそれぞれ置いて行く。
「あ」
 ヒカルは思わず声を上げた。アキラが用意してきたコーヒーには、砂糖もミルクも添えられていなかったのだ。
 何?という表情で首を傾げたアキラの後ろで、さくらがきつくヒカルを睨んで首を小さく横に振っていた。――言うな、ということだろう。
「な、なんでもない」
 わざとらしくごまかしながら、ヒカルはうまく話を切り替えることもできずにコップに手を伸ばす。
 何度もこの家に訪れているヒカルの好みは知っていても、久しぶりに会った従妹の好みを知らないアキラがむず痒い。そして、少しだけさくらが気の毒になった。
 さくらは黙ってコーヒーを飲む。昨日、ヒカルの前で見せたような躊躇いはない。
 これが惚れた弱みで、強さでもあるのかもしれない。普段は大人しそうなこの少女が酷い剣幕でヒカルを睨んだ目を思い出して、ヒカルは得体の知れない肌寒さを感じた。
「じゃあ始めようか。さくらが気になったら言って。客間に行かせるから」
「い、いいよ、大丈夫だよ。は、早くその棋譜見せろって」
 あっさりした口調でアキラが告げた内容は、さくらにとってはキツイものだろう。それでもさくらは眉一つ動かさない。
 何故か自分ばかりが気を回して疲れてしまったヒカルは、とにかく早く頭を切り替えようと検討に没頭する道を選んだ。その企みは成功し、いつしか傍にいるさくらのことを気にする余裕もないほど攻防目まぐるしい棋譜の素晴らしさに集中して、ここはこうだ、いやこうだと普段のように遠慮なくアキラと言い争いをすることになった。
 打ち筋の珍しさも伴って、ヒカルとアキラの意見は面白いほど真っ二つに割れた。しかしどちらの道を辿っても胸を躍らせるような新たな棋譜が出来上がるだろうことは必須で、それが分かっているからこそヒカルもアキラも譲らない。
 時間を忘れた二人は、ずっと傍で二人の検討の様子を見ていたさくらが途中でいなくなっていることにも気づかずに、数時間白熱した口論を続けた。




「すっかり暗くなったな」
 ようやく一息入れようと棋譜や碁石から手を放した時、すでに窓の外は真っ暗になっていた。
 アキラは検討の最中に散らばってしまった棋譜を一まとめに掻き集め、部屋の壁にかかっている時計を見上げる。ヒカルも釣られて時刻を確認すると、すでに短針が八を指そうとしていた。
 塔矢邸にやってきたのは夕方五時より少し前だったから、三時間近くも声を張り上げていたわけだ。そりゃ喉も渇くよな、とすっかり空になったコップをヒカルが恨めしく眺めて、同じく空になったアキラのコップを見たところで、さくらの不在に初めて気がついた。
「……イトコは?」
 声をかけると、アキラもきょとんとする。部屋にいないことは分かりきっているだろうに、ご丁寧に部屋中を見渡してから、「いないな」と一言告げた。
「いつの間に出て行ったんだろう。あんまり酷い検討だったから呆れたんだろうか」
「酷いってなんだよ。ムチャクチャ真剣だったぞ、俺は」
 不貞腐れたように頬を膨らませるヒカルを見て、アキラが静かに苦笑する。
「ボクだって真剣だったよ。でも、相手がキミだと加減ができないから」
「加減?」
「意見を言うのも声を上げるのも。ボクはキミと出会って初めて自分の声がこんなに大きかったんだって知ったんだから」
 しれっとしてそんなことを言うアキラに、よく言うよとヒカルは噴き出した。単に遠慮がないだけではないか。もっともそれは自分も同じことなのだが。
「もう遅いから、夕飯食べて行くだろう? 出前取るから」
「先生たち、まだ帰って来ないのか?」
「出版社の人と会食だって言ってたよ。もう少しかかるだろう。いつものラーメンでいい?」
 碁盤の上の碁石を綺麗に黒と白に選り分けながら、アキラが何でもないことのように尋ねてくる。
 普段、アキラの両親がいなくて出入り自由になっていた時は、何度かこうして一緒に夕食をとることもあった。だからヒカルもうんと返事をしかけたのだが、今日はこの部屋にいないもう一人の存在がある。
「……、イトコも、晩飯食うよな?」
 少し声のトーンが落ちていたことにアキラは気づかなかったのだろう。ああ、と少し目を丸くして、
「そうだ、さくらもいるんだった。こんな時間まで待たせて悪かったな……今、出前の電話してくるよ。悪いけどさくらを探して居間まで呼んで来てくれないか?」
 碁石を碁笥にしまうと同時に立ち上がった。
 ヒカルはぎこちなく頷き、空になったコップとカップを盆の上に乗せて足早に部屋を出るアキラの背中をぼんやり見送った。
 ……全てにおいてさくらよりもヒカルを優先にしてくれるアキラの行為が、嬉しいという気持ちはある。
 しかし同時に、さくらがそんなアキラの無意識の行動の差に気づいたら、と思うと少しだけ切ない気分になって、すぐにヒカルは首を振った。
 アキラとさくらは似ている。最初こそ、棋風や性格までよく似ているものと思い込んでいた。
 ところがさくらと顔を合わせたほんの数日で、彼女が決して何もかもアキラと同じではないことを知ってしまった。そしてそれはどうも、彼女が垣間見せる女の部分であるということも。
 ――そんなの、当たり前じゃねえか。塔矢は男で、さくらは女なんだから……
 アキラとの違いが際立つさくらの仕草を思い浮かべると、何故だかまた胸がちくちくと不愉快に疼きだす。ヒカルはこの棘の正体が分からないまま、ゆっくりと立ち上がる。
 コーヒーが飲めないことをアキラに言うなと、ヒカルを睨み付けたさくらの目は鋭かったのに、不思議と黙って座っていた時より女性らしく見えた。そしてその時のさくらの顔を思い出すと、ヒカルはまた胸に錘がぶら下がったような錯覚を覚えるのだった。






わーんどんどん訳分かんなくなってきました……
フィーリングで読んでやってください……