引っ越し物語 - Second Half



  さて、前回は家と学校の往復のみの高校時代まで書きました。当時、私は社会福祉関係の仕事につきたいと考えていて、大学は社会福祉学部のあるところばかりをいくつか受験したのですが、結果、日本社会事業大学という固そうな名前の学校に進むことになりました。この大学が、名前に似合わず(?)原宿にあったのです。そのうえ、私は学校の敷地内にあった女子寮に住むことになったのだからびっくり!上京するだけでもドキドキなのに、なんといきなり原宿の住人になるんですから。

  けれど、びっくりするのはまだ早かった。この女子寮こそ私がいままで住んだなかで最も強烈な住まいだったのです。だいたい日本社会事業大学は校舎自体も古くて(うわさによると、その昔海軍の博物館だったというんですが・・)、よくテレビのミステリードラマのロケに使われていました。つまり、暗くていかにも何か出てきそうな感じなのです。テレビ局もうまいところをみつけるものですね。その校舎の裏手にある坂を上ること、徒歩3分。見えてくる木造のオンボロの建物・・寮の物置かと思いきや、なんとこれこそが女子寮だったのです。その古さはどう見ても人が住めるようには見えなかったのですが、さすが社会福祉を学ぶような学生は違いますね(?)。木造2階建て、築30年はゆうに経っていそうな古さ。よくムカデが出て、大騒ぎしていました。当時、寮生は1年生から4年生まであわせて40人以上いたでしょうか。その他、管理人さんのご一家と食事作りを手伝ってくれる(寮生に順番に回ってくる食事当番というものがありました)調理師のおばさんが住んでいました。

  部屋は全部で16部屋ありましたが、すべて6畳間。そこに1年生1人、2年生1人、3年生1人の3人で暮らすのです。さすがに4年生は2年生との二人部屋にしてもらえるようでしたが。部屋の真ん中にテーブルを置くと、あと各々が使えるスペースは1畳くらいのものです。押し入れは3人共同で使えましたが、まあその窮屈なことといったら。物理的にというより、精神的に。東京で暮らすことよりも、他人と暮らすということのほうに気疲れしてしまい、大変でした。ひとりになれる時間が全くないんですから。田舎から原宿に出てきても3日も歩けば、にぎやかな町には慣れました。でも家族以外の人との共同生活にはそう簡単には慣れることはできませんでした。

  いま思うと、もしかしたら、私は寮にいる時間を少しでも短くしようと、急にいろいろな活動を始めたのかもしれません。まず、サークルは演劇研究会に入りました。それまで全く演劇なんてやったこともなかったのに。それからアルバイトを2つ始めました。1つは大学の総務課の事務、これは土曜と日曜の昼間。もう1つは火曜の夕方、白金の小児科病院の受付です。比較的楽な仕事でしたが、冬には子供の風邪を移されてしまい、大変でした。こうしてサークルとアルバイトで結構忙しく、いつも門限ぎりぎりに戻って、部屋にはほとんど寝に帰るだけという日々でした。それでもやはり他人と生活するというのは、重荷で、結局1年間で寮を出て、2年生の春から一人暮らしを始めました。

 初の一人住まいの場所に選んだのは、高円寺。しかし、なぜ高円寺を選んだのか今ではさっぱり思い出せません。中央線は終電が遅くまであるからいいと思ったのか、サークルの誰かのアドバイスだったのか。とにかく、寮を出たいという一心で探していたので、初めて見にいった物件で即決です。後から、すぐ裏がお墓だということに気づいても後の祭り。木造モルタル女性限定アパートの1階角部屋。4畳半+小さい台所+トイレ、玄関は共同です。お風呂はなしで銭湯を利用。いま思うと随分不便だったはずなんですが、それでも6畳に3人の寮生活に比べれば、自由で解放感にあふれ、満足でした。高円寺は若い人が多いせいか、物価も安いし、夜遅くまでお店も銭湯も開いているし、文句なし、といいたいところでしたが、アパート周辺に痴漢が出るようになって、怖くなり、2年の更新前にまた引っ越しです。

  今度は渋谷乗り換えの沿線に住んでみたいと考え、東横線の学芸大学にやってきました。学芸大学といっても駅から徒歩15分はかかりました。ここも女性限定で男子禁制(!)のアパートの1階。今回は4畳半+台所+玄関+トイレで、アパートにコインシャワーがついていました。100円入れると5分お湯が出るしくみです。今度は一応シャワーつきということで、とっても快適になった気がしたものです。駅から遠いのだけが難点でしたが、家賃は安いし、学芸大学はどこに行くにも便利でしたから、結局ここには8年以上住んでいました。大学卒業の頃から、OLを経て、歌の仕事を始めてからも、しばらくここにいたことになります。(日本社会事業大学を卒業したものの、私は一般企業に就職し、その後ジャズボーカルを始めます。この経緯は《つれづれなる思い2000年9月17日ジャズボーカルをはじめたきっかけ》をご覧下さい)卒論を書いたのも、出張に行ったのも、オーディションを受けてお店で歌い始めたのも、みんなここに住んでいたときだったわけですね。それでも、さすがに手狭に感じ始め、いよいよ今住んでいる桜新町に引っ越しました。97年の12月のことです。

 桜新町を選んだのは静かで落ち着いた感じがしたからで、横浜方面は多少行きづらくなったものの、地下鉄へのつながりもよく、満足しています。今度はやはり1階ですが、6畳+4畳半+台所+バストイレ+ベランダと格段に広くなり、快適です。大家さんと可愛いお孫さんがときどきライブに来て下さって、感謝、感謝。ここにももう3年以上住んでいます。とりあえず、いまのところ引っ越す予定はないのですが・・。

  今回いろいろ振り返ってみて思うのは、子供のころから引っ越しが多かったので、住まいにこだわりがほとんどない、ということです。交通の便がよければ、あとはどうでもいいという感じです。なんだかまたしても自分のぐうたらな面が明らかになってしまいました。しかし、ひとつ大きなポイントだったかなと思うのは、やはり東京に出てきて、最初に寮生活をしたことです。それまで家族と暮らしていた私が、もし上京してすぐに一人暮らしを始めたら、かなり寂しかったかもしれません。それが寮で不自由な生活を一年間したことで、その後の一人暮らしがぐっと自由で楽しいものに思えているのではないでしょうか。でも、いくらなんでもこんなに長い間、ずっと一人暮らしを続けるとは思ってもみなかったのですが。次の引っ越しでは、私はどこへ行くのでしょう・・・。


大越 康子