BAMBINA






「おかえり……って、おい、塔矢」
 帰ってくるなりふらりと前のめりになったアキラを、ヒカルは慌てて差し伸べた腕で受け止めた。
「……たらいま」
「うわ、お前めちゃくちゃ酔ってねえ?」
「酔ってらい」
「常套文句だな。ほら、頑張れよ、靴脱げるか?」
 ヒカルに支えられながらずるずると廊下を引き摺られ、アキラはうつろな目でぼんやりとヒカルの金色の前髪を見上げていた。
 ほのかにシャンプーの香りがする。きっともうシャワーを浴びた後なのだろう。
 今何時くらいなのか分からないが、ずっとアキラを待っていてくれたのだ。なるべく早く帰ってきてなんて、そんな可愛いことを言いながら……
「とりあえずそこで待ってて。今水持ってくる」
 ヒカルをアキラをソファに座らせて、ぱたぱたと駆けていった。支えていた腕がなくなって少し淋しい気分になる。
 こんなに酔っ払ったのはいつ以来だろう。成人記念で先輩棋士の緒方にしこたま飲まされた時以来だろうか。
 頭がぼーっとして、気持ちいいような気持ち悪いような、ふわふわした思考がはっきりしない。ヒカルに持たされたコップの冷たい感触が心地よかった。
「水、飲んで。明日辛くなるから」
「うー……」
「塔矢、しっかりしろよ。なんだよ、こんなに酔っ払って、何かあったのか?」
 アキラは無理に押し付けられた水をちびちび口に含み、自嘲めいた苦笑を漏らした。
 ヒカルがその様子にぴくりと眉を持ち上げたようだった。
「どうせ……ボクは女心のおの字も知らない朴念仁れすよ……」
「え?」
 アキラは手にしていたコップの水を、まるで自棄酒を煽るようにぐーっと一気に飲み干した。
「ボクが女の子の気持ちを考えないからフラれるんらってさ。もっと思いやりを持って相手してやらないとらめなんらって」
「塔矢」
「ボクは囲碁を優先しすぎるんらって。囲碁馬鹿だから、女の子に呆れられても仕方ないらしい」
「塔矢」
「ボクらって、ボクなりに、努力したつもりなんら……」
 アキラはフラつく手つきで、ヒカルの後ろにあるテーブルに空のコップを置こうとして、位置が手前すぎたためにすかっと空振りした。
「危ない!」
 ヒカルは咄嗟に声をあげ、ぐらりと前傾したアキラの身体を支えた。
 アキラの手からごとりとカップが落ちて、床をころころ転がる。
 ヒカルにぐったり上半身を凭れさせ、アキラは昨夜の自分たちがあべこべになったようだと苦い笑みを浮かべた。
 だが、ヒカルがアキラに妙な気を起こすなんてことはないだろうし、何より自分が笑殺したいほど呆れた酔っ払い振りを披露してしまっている。可愛げも何もあったもんじゃない。……小さい頃から言われ慣れた言葉だった。
 囲碁ばかりで、他のことに興味を示さない。人として感情に乏しい。冷静なのはいいけれど、その域になると冷徹だな――……
 人の気持ちになって考えないから、彼女とうまくいかなかったのだろうか? 自分なりにした努力は努力のうちに入らなかったのだろうか?
 彼女はそれでもいいと言ったのに。囲碁を愛する自分でいいと言ったのに、堪えきれずにアキラを見限った。
 悪かったのは自分なんだろうか? もっと彼女を愛してやればよかった? 人を愛するってどういうことなんだろう? 夢中になりきれなかったことがそんなに罪なんだろうか?
「……塔矢」
 穏やかな声で名前を呼ばれて、ヒカルの胸に額を押し付けたままアキラは身体を震わせた。
「塔矢、前の彼女のこと……好きだったの?」
 ヒカルの声は柔らかく、囁くように所々掠れていて、その空気と混じる声の響きが耳に酷く心地よかった。
 アキラは少しの間口を噤み、やがて微かに首を横に振る。
「……分からない」
「分からなかったんだ」
「好きに、なりかけてたかもしれない」
「そうかあ……」
 ふいにヒカルの手がアキラの髪に触れた。ゆるゆると上下する動きはまるであやされているようで、素面の状態だったらその手を振り解いていたかもしれない。
 だが、今のアキラにはその暖かい手で撫でられるのがとても気持ちよく感じていた。
「塔矢は、優しいんだな」
「……ボクが、優しい……?」
「そうだよ」
 アキラの腰がずる、とソファから滑り落ちる。
 膝から落ちた床に、ぺたんと正座する格好になったまま、力の入らない上半身をヒカルに完全に預けていた。ヒカルはそんなアキラを突き放したりせず、腕の中に収めて優しく髪を梳いてくれる。
「塔矢は優しいんだ。優しすぎるから、その子の気持ちを断りきれなかったんだろ? それで、一生懸命大切にしようとしてくれてたんだよな。出来る限り愛してあげようって思ってたんだよな。」
 ヒカルが紡ぐ言葉は、まるで何か音楽のワンフレーズのように耳を優しくくすぐっていく。
 暖かい手のひらで頭を静かに撫でられて、アキラはうっとりと目を細めてしまうのを堪えられなかった。
「囲碁のこと大好きで、いいんだよ。その子に見る目がなかったんだ。あんまり一番になりたいって気持ちが大きすぎて、塔矢がどんなに優しいか気づけなかったんだな」
「ボクは……優しくなんか……他人に対して、冷たすぎるって……」
「そんなわけないじゃん。お前、見ず知らずの俺が熱出した時ここまで運んで看病してくれただろ? 塔矢は優しいよ。普段ずーっとむすっとした顔してるけど……」
 いつしか、ヒカルの背中にしがみつくように腕を回し、アキラはだらしなくヒカルの太股の上に崩れていた。髪を、背中をゆっくりと撫でる手の暖かさが胸の内側まで沁みてくる。
 囁きはまるで子守唄のように、アルコールで高まっていた興奮をじわじわ鎮めてくれた。それに、何だかとてもいい匂いがした。もっとその匂いを嗅ぎたくて、甘えるように鼻をヒカルの腹に押し付けても、ヒカルは何も言わずに受け止めてくれる。
「碁盤に向き合った時の真剣な目、俺、凄く好きだよ。お前、囲碁のこと本当に大好きなんだなって、嬉しくなった。それに、いつものむっとしたへの字口も、なんかカワイイなって思ってたんだ。怒鳴り散らすくせに、変なとこ甘いっていうかさ……」
 ヒカルの声が遠くに聞こえる。
 好きだって? 誰が、誰を? カワイイって誰のことだ?
「お前の良さ、わかんないなんてダメだなあ。こんな一生懸命ないい男、滅多にいないのにね……」
 ヒカルは何を言っているんだろう。
 いい男? 自分が? ――そんなわけない。
 芦原の言う通りだ。好きでもない女性に、期待を持たせて付き合うなんて残酷なことをした。いくら精一杯愛そうと努力しても、そんなものうわべだけの言い訳にすぎない。
 彼女を本当に大切に想うなら、最初から突き放せばよかったのだ。
 好きになれるかもしれないと気づいた時、もっともっと彼女に示してやればよかったのだ。
(でも、もう無理だ)
 自分は何て最低な人間なんだろう。
 また、好きになりかけている。
 この不思議な響きを持つ優しい声と、暖かい胸の持ち主に。
 人は自分を、悪魔に魅入られた哀れな男と嗤うのだろうか?
 この腕の中は酷く暖かい。


「塔矢は、優しいね……」


 ――優しいのはキミだ……







 ***







 翌朝アキラが目を覚ますと、すっかりパジャマに着替えさせられ、きちんと自分のベッドに横になっていた。
 昨夜へべれけ状態で帰宅したことは覚えているが、ヒカルにしがみついてなんだか恥ずかしい会話を交わした後の記憶が定かでない。
 ベッドで身体を起こすと頭の奥がブレるようにガンガン痛んだ。胃の辺りもムカついて、完璧な二日酔いだった。
 アキラはのろのろとベッドからずり落ち、競り上がってくる胃の嫌な波を堪えながら服を着替え、足を引き摺るように居間へと向かう。
「あ、おはよ〜。大丈夫か? ……大丈夫じゃなさそうだな」
 ヒカルはアキラを見るなりため息混じりにそう言った。
「仕事行けるか? 今日は遅い?」
「今日は……簡単な取材だけだから、何とか」
「簡単なやつなら今度に延ばしてもらえば?」
「いや、いい、……行くよ」
 ヒカルは心配そうに腕組みしてアキラを見ていたが、それでもいつものように弁当を用意して送り出してくれた。夕べの夕飯が残っていただろうに、朝食にわざわざおかゆを炊いてくれていたのがヒカルらしいとアキラは感謝する。
 今日でヒカルとの生活も六日目。明日でこの不思議な共同生活は終わりを告げる。
 胃の具合悪さだけではない、重苦しい痛みがアキラの額に汗をかかせた。
 電車での移動は身体に負担がかかりそうだったので、タクシーで棋院まで向かった。取材があるというのは嘘ではない。ただ、大した内容のものではないから、別に今日でなくても良かったということはヒカルには黙っていた。
 アキラは知りたくなっていた。ヒカルのことを。――ヒカルが十年前に失った、藤原佐為のことを。
 棋院ならいくらでも情報が手に入るだろうと踏んだのだが、それは当たりだった。少し資料を探れば佐為の情報は面白いほど手に入った。
 藤原佐為、享年三十二歳。没年月日、×年九月二十日。
 彗星のごとく囲碁界に現れ、華々しい軌跡を残しながら、優秀すぎた彼は不運にも自動車事故で若い命を散らしていた。
 現代の碁聖と名高い彼の功績は目覚しく、棋士として在籍した十余年、数々の新記録を打ち立てていた。
 いくつかの写真を見たが、中性的な美しい顔立ちで、どれも穏やかな微笑みを称えている。
 しかしアキラは、彼の表情よりも、腰まであろうかというその長い髪に目を釘付けにしていた。
「……髪……」
 ――聞こえてる? 髪の長いお兄さん。
 ――なんだよ、何で切っちゃったんだよお。長い髪好きだったのに……
「まさか……」
 ヒカルが、自分に声をかけたのは……佐為と、長い髪が似ていたから……?
 そんな考えに行き当たり、カアッと腹の奥が熱くなるような錯覚を覚える。
 まさか、自分は――彼の身代わりだったのだろうか?
 ヒカルは髪が長かったから声をかけてしまったと言っていた。
 では、あの時この髪が長くなければ、自分はヒカルと出会うチャンスすら失っていたと言うのだろうか。
 どす黒い気配が心を包んでいくのが分かる。
 陰鬱で厄介な感情だとよく分かっていた。――これは嫉妬だ。
 ヒカルは今も、十年前に死んでしまった男に捕らわれている。
 そして自分は、ただの身代わりに過ぎないのだ。
 胸が痛い。息が苦しい。
 明日でヒカルとの契約が終わる。たった一週間の、天使みたいな悪魔と過ごした夢のような日々。
(嫌だ)
 終わらせたくない。
(嫌だ)
 手放したくない。
(嫌だ……)
 誰にも渡したくない。そう、今は亡き彼の人にも。