指導碁自体は難無く終わり、アキラは一昨日までは考えてもいなかったもう一つの予定を果たすべく、数カ月降りの床屋へと出向いた。 髪を切るのは実に四ヶ月振り。つまり、昨日別れたばかりの彼女とつき合い始めてからは一度も切っていない。 それまでも多少は髪を長めにしていたアキラだが、せいぜい顎のラインで切り揃えるくらいだった。それが彼女に言われてずっと伸ばしっぱなしにしていたため、今では肩を僅かに越えるほどになっている。 床屋を出ると、風がひゅうとアキラの軽くなった髪を撫でた。顎をふわふわとくすぐる毛先の感触が懐かしく、アキラは少し満足そうにため息をつく。 すぐに一人の時間に慣れるだろう。元々、望んでつき合い始めた訳では無い。 第一碁石を手にしている時は彼女の存在などすっかり頭から消えていたのだから、仕事にも支障は無い。 本当に、真剣に彼女と向き合う前で良かったのかも知れない。 それだけに、あの無礼な男を思い出すと沸々と怒りが沸いて来る。 『フラれちゃったの?』 一体なんなのだろう、あの進藤ヒカルという青年は。 突然声をかけてきて、「癒してあげる」だなんて訳の分からない提案を持ち出して。 初対面だというのに妙に馴れ馴れしく、人懐こい笑顔には警戒心が見当たらない。 名前と年は今朝聞いたが、職業も目的も不明だ。 『一週間だけ限定で。ね、傍に置いてみない?』 「一週間も、ボクの家に居座るつもりか?」 思わず口にして、アキラはうんざりと肩を落とした。 ひょっとして、ただのホームレスなんではないだろうか。 行く場所がないから、適当な人間に声をかけて、うまく行ったら居着いてしまう。一週間というのは相手を警戒させないためのタテマエで、うまく行ったら何週間でも何ヶ月でも住み着くつもりなのでは…… 「そんなことされてたまるか!」 アクセルを踏み込みながら、アキラは一人きりの車内で声を荒げた。 そりゃあ、今朝の味噌汁は美味しかったが。 前の彼女は横文字の料理ばかり好んで、おまけに……あまり腕がいいとは言えなかったし。 しかし! 食べ物に釣られて胡散臭い人間を傍に置くだなんて、そんな恐ろしいことはできない! そう考えて、アキラははっとした。 自分としたことが、その胡散臭い人間に合鍵を与えて、おまけに結果として留守を預ける形にしてしまった。 アキラは愕然とする。――もし、彼がただのホームレスでもなんでもなく、タチの悪い泥棒のような輩だったら? 主人のいない部屋でやりたい放題だ。部屋には通帳や印鑑も置いたままにしてある。そうだ、何故初めからそんな重要なことに気が付かなかったのだろう。 「ボクとしたことが……」 いつもなら、不必要なまでに注意深いと言われている自分がそんな単純なことを忘れるなんて。 認めたくはないが、食事に釣られてしまったから? それとも、彼の屈託ない笑顔に騙された? 『癒してあげる』 アキラは口唇を噛み、ハンドルをきつく握りしめた。逸る気持ちを抑え、なるべく安全運転を心掛けながらも、いつもより10キロオーバーで家路を急いだ。 「あ、おかえり〜」 拍子抜けする声と漂う良い匂いに、アキラは自分の心配が杞憂に終わったことを悟った。 ヒカルは昨日アキラが脱がせた自分の服に着替えて、ガシャガシャと乱暴に鍵を開けたアキラを当たり前のように出迎えたのだ。 アキラが何を言うべきかとぽかんと口を開けたまま玄関に突っ立っていると、ヒカルはふとアキラの顔をまじまじと見つめ、アキラに負けず劣らず大きな口をぽかんと開けて、丸い目をして「髪!」と叫んだ。 「髪、どうしたんだよ!」 「え? あ、ああ……切ったよ」 「見りゃ分かるって! なんだよ、何で切っちゃったんだよお。長い髪好きだったのにい」 口をへの字に曲げるヒカルに、アキラはむっとする。 何で前の彼女と同じようなことを言われなければならないのだろう。 「ボクが髪を切ろうがキミには関係ないだろう」 アキラは靴を脱ぎながら、むすっとした表情を変えずにヒカルの横を通り過ぎる。 「でも、後ろから見たらスゲーキレイだったんだ」 「キミのために伸ばしてた訳じゃ無い」 「……てことは、彼女のために伸ばしてたんだ」 アキラの足が止まる。 「そーか、それでフラれたから切ったんだ。そーなんだ」 握りしめた拳がぶるぶると震えた。 ――何が「癒し系」だ! 人の傷口を抉って楽しんでいるではないか。おまけに当然のようにこの家に居着いているし、もう我慢できない! アキラが眉尻をこれ以上無いくらいに釣り上げて振り返った先に、どこか幼さの残る上目遣いの表情がにこっと笑顔に変わる様を見てしまい、毒気を抜かれたように呆けた顔のまま固まってしまう。 「長い髪、好きだったけど、でも今の髪のほうが塔矢に似合うや。すっきりして良かったな」 細めた目が眩しそうにアキラを見上げて、大きく開いた口から覗く歯の純粋な白さに目を奪われた。 放心したようにその場で動けなくなってしまったアキラの腕を、ヒカルが引いた。 「なあ、仕事して疲れただろ? 晩飯作ったからさあ、早く手ぇ洗ってこいよ」 つい昨日会ったばかりの青年が、当然のようにアキラを洗面所へと連れて行く。その手に鞄を預かり、いまいち彼の行動に反応し切れていないアキラを追いて、ヒカルはどんどんアキラの出迎えを完遂させていった。 アキラが居間に戻ってテーブルを見ると、すでに夕飯はセッティングされていた。今朝の食事のように和食中心の食卓には、アキラには随分久しぶりの肉じゃがが小鉢に盛られていて、再びアキラの腹が小さな音で存在を主張した。 「さ、さ、座って座って」 椅子を引かれて、釣られたようにそこに腰掛ける。そしてやはりというか、決まっていたことのようにヒカルもアキラの向かいに座り、箸を持っていただきま〜すと嬉しそうな顔を見せた。 アキラはまだ少しついて行けずにぽかんと夕飯の湯気を見つめていたが、やがてそろそろと手を伸ばし始める。ここまでセッティングされているものに手をつけないのも失礼だろうと、そんな言い訳を自分のためだけに用意した。 今朝とは味噌汁の具が違う。肉じゃがも煮崩れていないし、味が染みて酷く口に馴染んだ。焼き魚なんて最後に食べたのはいつだっただろうか。 「うまい?」 「え……あ、ああ」 つい頷いて、アキラははっとする。 ヒカルは満足そうににっこり笑った。 「肉じゃがおかわりあるから、たくさん食べて」 「……」 なんだろう、この空間は。 どうして昨日会ったばかりの人間が、自分のために食事を用意して帰りを待っているのだろう。 いつのまに、「癒し」の契約が結ばれてしまっているのだろう? 彼は本当に一週間居座るつもりなのだろうか。一週間、こんなふうに食事の支度をしてくれることが、彼の「癒し」なのだろうか? 「……って、そういえばこの材料はどうしたんだ」 アキラはやけに品数の増えた食卓にようやく気がついた。 確か朝はろくなものがないとヒカル自身も言っていたはずだ。 「ああ、買物行ったから」 「買物って……、キミ、お金は?」 ヒカルが昨日アキラに見せた全財産は千円にも満たなかった。どう考えても、野菜だけでなく肉や魚が増えているこの夕飯を作るためには、千円あっても心もとない。 「それがさあ、悪いと思ったんだけど」 「え?」 「タンスの中にお札を発見しまして」 「……何?」 「ちょこっと拝借……」 「ふざけるな!」 ヒカルの言葉を皆まで聞かず、アキラはガタンとテーブルを叩いた。 ヒカルはゴメンゴメンと言いながら、悪びれない様子でへらへら笑っている。 「いやあ、タンス貯金って言葉聞くけどホントにやってるヤツ初めて見たよ」 「き、キミという奴は……!」 「ほんの三千円くらいだから! それに結局お前の腹に収まるんだからさ、いいだろ?」 「キミの腹にも収まってるんじゃないか!」 帰宅途中で想像したことは、半分は外れたが半分は当たりだった。 いざという時の予備の金として、カードを嫌うアキラはそこそこの金額を箪笥にしまっていた。確かに自分でも今時どうかと思っていたが、それを他人に指摘されるとこうも腹が立つとは。 「まあまあ、落ち着いて落ち着いて。でもそのおかげでうまいメシ食えただろ?」 「……ボクのお金でな」 「家庭料理は金出したって食えるもんじゃないんだぜ〜。それに、ちゃんと安売り食材調達して来たから一週間くらい大丈夫だよ。三千円で一週間! お得!」 ぱちんと両手を合わせてにっと笑うヒカルに、アキラはテーブルに肘をついて項垂れる。 なんてマイペースな男なんだろう。あまりにあっけらかんとして、自分が悪いことをやっているという自覚も何も無い。 そのくせ、妙に腹を暖める食事に絆されているのか、思ったよりも怒る気になれない自分がいる。 久しぶりの味噌汁に騙されているのだろうか。 「……進藤。キミ、本当に一週間居座るつもりか」 「居座るって言い方悪いな〜。一週間、俺がお前を癒すの」 「キミの言う「癒す」というのは食事を作ることを言うのか?」 「他にして欲しいことあったらするよ。あ、でもエッチなことは駄目ね」 恐ろしいことをさらっと笑顔で言うヒカルに、アキラは顔を顰めて青ざめる。 「……ボクにはそんな趣味はない」 「じゃあ問題ないよ。まあ、騙されたと思って置いてみてよ。俺、頑張って癒すからさ」 アキラはこめかみを押さえながら、深く長いため息をついた。 ……とりあえず、金品的な目的があるわけではなさそうだ。 (いや、どうだか分かったものじゃない) いつもなら、こんなに無理矢理自分のテリトリーに入ってくる人間をそう簡単に信用したりしない。 今だって信用しているわけではない、それでも、何故か手を上げてでも彼を追い出そうという気にならないのは何故なのだろう。 なんだか、あの大きな瞳があんまり真直ぐにアキラを見るものだから、純真と表してもいい輝きに怒る気を奪われてしまっているのかもしれない。人は後ろめたいことがあると目を逸らすものなのに、彼はあまりにも正面からアキラを見ているものだから。 それに、……認めたくは無いが、彼女と別れたばかりでやはり心が荒んでいるのかもしれない。 こんな怪しい存在に頼りたいだなんて信じたく無いが、気紛れにつき合ってやるくらいいいかなと思っている自分がいる。 そう、一週間と彼は言った。一週間、この不思議な男に食事の世話を頼んだ、そう思えばいいのかもしれない。 「……本当に一週間だな」 「うん、一週間。よろしく」 朝と同じ台詞を言ったヒカルが、朝とは違って手を差し出してきた。アキラに握れと言っているのだろう。アキラは顔を顰めて躊躇したが、一歩も引かずに笑顔のまま手を出し続けるヒカルに根負けして、その手をちょこんと握り返した。 ……妙な契約が成立した。 彼の仕事は一週間、アキラを癒すこと。 その代わり、一週間ヒカルはアキラの部屋に住み着く。 ベッドはひとつしかないから、ソファで寝泊まり。 着替えもないから、パジャマだけはアキラから借りる。 朝晩の食事と、部屋の掃除。シャツのアイロンがけもできるとヒカルは胸を張った。ただ、余計なものには触らないこと。必要以上のことはしないこと。 買物が必要なら、その日の朝のうちにアキラに報告すること。出かける時は連絡すること。鍵はしっかり確認すること。 運ばれて来た日はアキラに介抱されて終わったため、一週間がスタートしたのはその翌日から。 こうして、アキラとヒカルの一日目が終わりを告げた。 |