BAMBINA






 二日目の朝、ヒカルはやはりアキラよりも早く起きて朝食の支度を終えていた。
 アキラは自分がそれなりに早起きをする人間だと思っていたため、自分よりも早く起きて働くヒカルに驚きつつ、意外にきっちり仕事をこなす奴だと感心してしまいそうになる。
 朝食を終えて身支度を整え、後は家を出るだけのアキラに、ヒカルはおかしな包みをふりふり振ってみせた。
「お前、今日は手合いなんだろ? 持ってけよ」
「……これは?」
「弁当」
 アキラは眉間に皺を寄せ、口元をむすっと歪めて首を横に振った。
「結構だ」
「何で? 外で食べるの?」
「対局中は食事をとらない」
 実に簡潔に伝えた言葉が、ヒカルには納得の行くものではなかったようだ。
 もう家を出るからと玄関に向かうアキラに追い縋ってくる。
「食事とらないって、昼飯抜きってこと? そんなんで午後力でんのかよ?」
「心配しなくて結構。ボクはいつもそうなんだ」
「ええ、絶対良く無いって。せっかく作ったんだからさあ、ホラ」
「悪いがキミが食べるといい」
 靴を履き、鞄を手にしてドアノブに手をかける。
 最後にちらりと振り返ると、子供みたいに頬を膨らませているヒカルの顔が視界に映ったが、気にせず外に出た。
 ドアから数歩離れて様子を伺うと、数秒後にがしゃんと鍵の閉まる音がする。それを聞き届けて、アキラはやれやれと肩を竦めながら棋院へ向かった。



 そんなふうに、朝のやりとりは決着がついたと思っていたのに。
 午前の対局を終え、黒石と白石の世界に完全にトリップしていたアキラに、おずおずと声をかけてくる人間がいた。
 顔を上げると見知らぬ少年だった。訝し気に首を傾げてみせると、彼は怯えたように小さな声で、「知り合いって人が呼んでるけど」と告げた。
「知り合い?」
 片眉を上げたアキラに彼はなおも後ずさりながら、またも小さな声で「忘れ物を届けに来たって……」と付け加える。
 アキラは奇妙な表情を作り、それからはっとして立ち上がった。
 対局室を出ると、関係者以外立ち入り禁止のはずのその場所に、ヒカルが立っていた。
「進藤!」
「よ」
 ぴしっと立てた右手の指を額の上に掲げ、左手には……今朝見たばかりの包み。
 アキラは愕然と開いた目を、包みからヒカルの顔へとゆっくり移動させる。
「やっぱメシ食ったほうがいいと思ってさあ。持ってきたぜ」
「……キミは、ボクの話を聞いてなかったのか」
「聞いたけど、食べ盛りの若いモンが昼食抜きってのは感心しませんぜ、ダンナ」
 おかしな言葉遣いをしながら、ヒカルは包みをずいっとアキラに押し付けた。咄嗟にそれを手の中に受け取ってしまったアキラは、慌てて突き返そうと包みをヒカルに差し出すが、ヒカルはひらりとそれを躱す。
「午後も頑張れよ〜!」
 ヒカルは無責任にそんなことを言って、手をぶんぶん振って脱兎のごとく駆け出した。というか、逃げ出した。アキラは手の中の包みを見下ろして途方に暮れる。ふと、背後から視線を感じて振り向くと、先程アキラを呼びに来た少年がびくりと身体を竦ませて走り去って行った。……それほどまでに凄い形相をしているだろうかと、アキラはますます荒む心を感じる。
 どうしたものかと包みを眺めた。食料を持って対局室に戻る訳にも行かない。自分の荷物と一緒に置いておこうかとも思ったが、中身が分からないため放置しておいてよいものか判断しかねる。
「……くそ!」
 顔に似つかわしく無い言葉を吐いて、アキラは仕方なく棋士達が昼食に集まる休憩室へと足を向けた。
 昼の休憩時間にこの部屋に立ち寄るのは初めてだった。中でくつろいでいた棋士達が、憮然とした表情で現れたアキラを物珍し気な眼差しで見上げる。
 アキラは人の集まっているテーブルから少し離れたところに座り、人目になるべく背中を向けて包みを開く。中から出て来たタッパーに詰められた弁当を見て、アキラはため息を漏らす。
 白い御飯に海苔が敷かれ、おかずは卵焼きや昨夜の夕飯の残りがぎっしり入っている。弁当としては充分立派な内容だろう。アキラはひそひそと恐らく自分のことを囁かれている声の中、居心地悪そうに箸を手にした。
 プロになって何年も経つが、昼食を口にしたのは初めてだ――むすっと顰めた顔のまま、一口放り込んだ卵焼きは……美味しかった。




「進藤!!」
 帰ってくるなり大声を上げたアキラに、ヒカルは丸い目を更に丸くしながらも飄々としている。
「おかえり、塔矢。血管切れそうだぞ」
「そんなことはどうでもいい! 一体どういうつもりだ!」
 ずかずかと詰め寄るアキラに後ずさりしながらも、ヒカルはまあまあと手のひらを向けて肩を怒らせるアキラを宥めようとしているようだった。
 アキラが更に怒鳴り付けようと口を開いた時、ヒカルはアキラが手に持ったままだった包みをぱっと奪い取った。軽く包みを振ってみて重さを確かめたのだろう、中身が空だと分かってヒカルは眩い程の笑顔をアキラに向けた。その屈託のなさにアキラが一瞬言葉を詰まらせる。
「食べてくれたんだ。よかった」
「……よくない!」
「え〜、食べたほうが絶対いいって。旨かっただろ?」
 ヒカルは包みを解き、中の弁当箱代わりにしたタッパーをキッチンへと持って行く。その様子をぼーっと見ていたアキラは、すぐにはっとしてヒカルの後を追った。
「大体、棋院まで押し掛けてくるなんてどういうつもりだ。変な目で見られたのはボクなんだ……ぞ……」
 言いかけて、自分の言葉にアキラは眉を顰める。
「進藤、キミ、棋院の場所を知っていたのか?」
 シンクにタッパーを置いて水を流していたヒカルの肩が、ぴくりと揺れた。
「……まあね」
「昨日、知人が碁をやるとか言ってたな。……プロなのか?」
「……うん」
 先程とは打って変わって言葉の鈍いヒカルに、アキラは首を傾げる。
 あまり話題にしたくないことなのだろうか?
 ともかく、思った以上にヒカルが囲碁の世界に詳しいことは間違い無い。ということは、ひょっとして。
「キミは碁を打つのか」
「……」
「どうなんだ?」
「……打つってほどじゃない。ちょっと知ってるくらい」
 ヒカルはアキラを振り返らずに、じっとシンクに流れる水を見つめているようだった。
 アキラと言えば、ヒカルの告げた言葉に初めて興味を抱いたところだった。
 ちょっと知ってる、程度なら大した力は望めないだろうが、ひょっとしたらひょっとすることもある。
「後で一局打ってみないか」
「ええ、お前プロなんだろ。相手になるかよ」
「そりゃ相手にはならないだろうけど」
「……お前って結構失礼なんだな」
 口唇を軽く尖らせて振り向いたヒカルに、アキラはどっちが、と同じように口唇を軽く尖らせてみせた。
 珍しく不機嫌そうな顔をしたヒカルは、ようやく流しっぱなしだった水を止めると、ヒカルの動向を見張っているようなアキラの肩を押して食卓へと促す。
「もう、とにかく晩飯食おうぜ。今日も気合い入れて作ったんだから」
 そのヒカルの提案には賛成だった。昼食をしっかり食べたというのに、この時間になるとしっかり腹が減っているのだから、人間の身体とは正確に動いている。
 今日の食事も和食中心だった。和食が得意なのかとヒカルに尋ねると、「お前のイメージ」とアキラが真意を測りかねる答えが返って来た。
「大体一通り作れるよ。和洋中。リクエストあったら好きなの作るけど」
「……どこかで料理でも習ってきたのか」
 和食で充分だったアキラは、ヒカルの言葉からは若干ずれた質問をした。
「習ってきた訳じゃ無いよ。作る機会が多かっただけ」
「……、キミはずっとこんな生活を続けているのか?」
 アキラはずっと気になっていた一言を遂に口にした。
 ヒカルのこの馴れ馴れしい態度は、ある日突然アキラを癒そうと思い立って声をかけてきた人間のものとは違う気がした。
 見たところ定職にもついておらず、きちんとした家があるかも怪しい。アキラが知っていることと言えば名前と年齢くらいだが、それが嘘ではない保証も無い。
 ヒカルは、いつもこんなふうに誰かに声をかけて、家に転がり込んでいるのではないだろうか。
 相手を煙に巻く態度といい、物怖じしない様子といい、何度もこうして他人の家に厄介になっている人間だからこそこんなにあっけらかんとしているのではないか?
 アキラの問いかけに、ヒカルは少しだけ黙り、それから上目遣いで軽くアキラに笑いかけた。
「……まあね。」
「……では、ボクを癒すというのはタテマエか」
 それは違うとヒカルは首を横に振ってみせる。
「そんなことない、タテマエなんかじゃねえって。……俺、いろんな人、癒したいの」
「いろんな人?」
「うん。落ち込んでる人の力になれたらいいなあって。普段はさ、ほら、いきなり声かけてきてお前だって怪しいって思っただろ? だから、もっといい加減そうなヤツにしか声かけないんだけどさ。たまたま、あの喫茶店で約束の一週間が終わった人とお茶飲んで、背中合わせになったお前の……髪が綺麗だったから」
 アキラはぱちぱち瞬きを繰り返した。
 ということは、自分は頭髪が長かったという理由だけでヒカルに見込まれてしまったのか。
「じゃあ、キミは一週間ずつ見ず知らずの人間のところを転々と渡り歩いているのか?」
「まあ、そういうことになるかなあ」
「……危険だろう」
 呆れたように告げたアキラに、ヒカルは悪戯っぽく口角を釣り上げて肩を竦めてみせた。
 その表情からはヒカルの意志が肯定とも否定とも伺えず、しかしアキラの言葉に大して何も答えるつもりはなさそうだった。……ひょっとしたら、何度か危険な目に遭ってきたのかもしれない。
 アキラは気持ちを落ち着かせるために味噌汁を口に含んで、ふうっと息をついた後で再び口を開いた。
「何故、こんな生活を続けるんだ? 一週間というのには何か意味があるのか?」
「……俺が、一週間で救われたから」
「……何?」
「一週間で、人に凄く幸せにしてもらったんだ。その恩返し」
 どこか遠くを見るような目で、ヒカルはうっとりとも形容して差し支えないような表情でよく分からないことを囁いた。
「……ならその人に恩返しすればいいだろう」
 アキラは自分の言葉が至極もっともだと思った。ところが、ヒカルがにこりと笑って続けた言葉は、アキラに息を飲ませるのに充分だった。
「その人、死んじゃったから」
「え」
「……だから、いろんな人に恩返し」
 アキラは何と答えたものか困ってしまい、うろうろとおかずに視線を彷徨わせた。
 ひょっとしたら、聞いてはいけないことを聞いてしまったのだろうか。でもまさか、そんな理由があるとは思いもしなかったから。ぶつぶつと口の中でヒカルに届きもしない言い訳をしていると、ヒカルが実にけろっとした声で、
「早く食べないと冷めるぞ〜。食べたら一局打つんだろ?」
 なんて言いながらガツガツと飯をかっ込むのを見て、アキラは何だかほっとした。
 そしてその直後に、何故自分が彼のことで動揺したり安堵したりしなければならないのだと、素直に反応してしまった自分を恥じた。