BAMBINA






 食事が終わって、ヒカルが昨日のように後片付けをしている間、アキラは碁盤を用意していた。
 普段は寝室隣の空き部屋で一人で打っているが、ヒカルと打つとなれば居間に運んだほうがいいだろうと思ったのだ。
 力を入れて丁寧に運ばなければ落としそうな碁盤を両手に抱え、よろよろと居間へ移動する。碁盤を置いたら次は碁笥だ。碁盤傍らにそっと碁笥を下ろし、ヒカルの茶碗洗いが終わるのを待つ。
 当然のように自分の手元には白石。先番の黒石は、ヒカルが座る予定の向かいに置いてある。
 どの程度の棋力かなんて期待もしていないが、この不思議な青年が囲碁を知っていると言う事実に単純に興味があった。
 全く、掴めない男だとアキラは肩を竦める。
 あれよあれよという間に転がり込んで、ちゃっかり居座りながらも家事を完璧にこなしてくれる。おさんどんが彼の言うところの「癒し」なのだろうか。
『一週間で、人に凄く幸せにしてもらったんだ。その恩返し』
 言葉だけ捕らえると、ヒカルは慈愛に溢れた博愛主義者のようだ。
 しかし、誰彼構わず恩返しをしたくて一週間奉仕するなんて、そんな人間が本当にいるのだろうか?
 他に、何か意図があるんじゃないだろうか。
 今まで彼が「癒し」てきたという人々は、何も疑問に思わなかったのだろうか。
(思っただろうな)
 思っただろうに、今のアキラのように訳が分からないうちに丸め込まれてしまったのだろう。
 何故だか、こんなふうにヒカルと一局打つために碁盤の用意までして、彼がこの場にいることをすでに疑問に思っていない自分がいるのだから。
「おまたせ〜」
 ヒカルは拭いたばかりでまだ湿った手を擦りあわせながらやってきた。
 すでに対面に座っているアキラの向かいに腰を下ろし、少し目を細めて碁盤を見つめる。
 その、どこか懐かし気なぼんやりした視線が、一瞬悲し気に揺れたように見えたのはアキラの気のせいだっただろうか?
「置石、置いてもいい?」
「え? あ、ああ、好きなだけ」
 アキラの言葉に、ヒカルは黒石を手にとり、天元を含めた星を全て埋めていった。――置石九つ。
「たぶん、これでも相手にならないと思うぜ」
「構わないよ」
 アキラがそう言うと、ヒカルは少しほっとしたように頬を綻ばせてみせた。
 そのふにゃっとした仕種にアキラの胸が何故だかどきんと騒ぐ。
「お願いします」
「お、お願いします」
 頭を下げたヒカルのつむじを見て、アキラも慌てて頭を下げた。



 確かに、ヒカルの言う通り、棋力はアキラの相手になるものではなかった。
 しかししっかりとした定石を身につけており、基本を忠実に守ったいい手を打って来る。数回打った程度の素人ではないことは、アキラはものの数分ですぐに見抜いていた。
 プロの知人とやらに、余程しっかり教えを受けていたのだろうか。もう少し布石を勉強したら、きっともっと強くなるだろう――そんなことを思いながら、アキラはいわゆる指導碁でヒカルの黒石を綺麗な形に導いていた。
 そう、そこのツケはいい。多少形が崩れるが、ここは引かないほうが相手にはプレッシャーを与える。
 地に捕われずにもっと自由に打ってもいい――そんなことを考えながらアキラが白石を打ち、何の気無しにヒカルを見やると、ヒカルは睫毛を伏せて物憂気にじいっと碁盤を見下ろしている。その瞳の暗く澄んだ色にアキラは息を飲んだ。
 笑うと酷く子供っぽいヒカルだが、今のヒカルは最初の印象に比べて悲しいくらいに大人びて見えた。注意して目を見張ると、僅かに寄せられた眉が時折切な気にぴくりと動く。
 何か辛い思い出でもあるのだろうか? アキラがそう邪推してしまいたくなるような、そんな表情だった。
 ふと、アキラの視線に気付いたのか、ヒカルがちらりと目線をアキラに向けた。アキラがぎくりと身体を強張らせる。
 ヒカルはすぐにいつも通りの明るい笑顔を作って、何? というように首を軽く傾けている。アキラは黙って首を横に振った。
 動揺したせいか、アキラはつい黒石の急所に次の一手を打ってしまった。打った瞬間そのことに気付いたが、すでに指は離れてしまっていた。
 ヒカルがふうっと肩の力を抜いて、「負けました」と告げて頭を下げる。
 まだ、終わらせたくはなかったのに。アキラは迂闊な一手を悔やんだ。
「やーっぱ全然駄目だな。もうしばらく打ってなかったし」
「そんなことはない。確かにプロには及ばないが、もう少し勉強したらかなりのものになる」
 アキラが少し興奮した様子でそう言うと、ヒカルは目を細めてアキラに微笑みかけた。よく見る屈託のない笑顔と少し違った柔らかな雰囲気に、アキラは図らずもぼうっとしている自分に気がついて慌てて顔を逸らす。
「……塔矢、碁、好きなんだ」
 ヒカルは夢を見ているような穏やかな声で尋ねて来た。アキラは気まずく目線を動かしながらも、ああ、と頷く。
「一生懸命な目してた。……碁打ちってみんなそうなんだな」
「え?」
「さ、片付けようぜ。もう二時間経ったよ。お前、明日も仕事なんだろ?」
 ヒカルは余韻もなく碁石を崩し始める。手際良く黒と白に分かれて行く碁石と、意思の読めない笑顔を浮かべたままのヒカルとを交互に見比べて、アキラは訝し気に眉を顰めていた。
(……碁打ちってみんなそう、だって?)
 どこか懐かしむようなヒカルの碁盤を見つめる目。
 ひょっとして、ヒカルが言うプロの知人というのは……ヒカルに幸せな一週間をくれた、亡くなった人のことなのだろうか……。
 喉まで出かかった問いを、アキラは口にすることを避けた。
 人の過去にずかずか立ち入る必要はない。
 それに、たった一週間で別れてしまう人間の事を、これ以上詳しく知る必要はないだろう……



 ***



 三日目の朝も、ヒカルはしっかり朝食と、そしてアキラのための弁当を用意していた。
 アキラは渋い表情をこれでもかというくらいヒカルに突き付けたが、ヒカルは全く意に介さないようだった。
 にこにこ差し出す弁当の包みを、遂にアキラは盛大なため息と共に受け取ってしまった。
 また棋院に乗り込まれては困る……。
 一週間、いや残り五日間、我慢すればいいだけの話だ。
(……何故ボクが我慢しなければならないんだろう)
 一抹の疑問は感じるが、もう深く考えないことにした。
 考え始めたらキリがなくなってしまう。

 しかし、思った以上に周囲の視線は分かりやすかった。
 昨日に引き続き、手合いの最中に食事をとっているアキラを、興味津々といった様子のたくさんの目が遠巻きに囲んでいる。アキラは端っこで小さくなってちょこちょこと弁当を摘んでいた。
 あれ、手作りだよな。彼女かな。――ひそひそとした囁きは不必要に大きく、アキラの耳にまで届く。
(彼女なわけあるか!)
 とんでもない、こんな強引な彼女お断りだ。手合い中に食事はとらないと言ったら、分かりましたとすぐに頷く女性では無いと一緒になんていられない。
 そりゃあ、今までつき合ったどの女性よりも料理が旨いことは確かだが。昨日も入っていたけど、この甘く無い卵焼きが冷めてもふっくらしていて……本当は砂糖の入った卵焼きは苦手なのだけれど、今まで言い出さなかったらみんな砂糖を入れてしまっていたのに……
「あれえ、本当だったんだあ。アキラ、弁当持ってきてるって」
 頭の上から素頓狂な声が響き、アキラはぐっと卵焼きを喉に詰まらせかけた。
 とんとんと胸を叩いていると、声の主が大丈夫かと背中をさすってくれる。少し涙目になりながら、アキラは後ろを振り返った。
「芦原さん」
「いやさあ、俺冴木くんと外で食事してたんだけどさ、昨日お前が弁当食ってたって噂があったって聞いたもんだから。まっさかあと思ったんだけど、本当だったんだな〜」
 年は随分離れているが、小さい頃から囲碁を通じて友人として親しくして来た芦原は、全く意外だというように目を大きくしながら、それでもどこか嬉しそうな顔をしていた。
 人々の好奇心に見守られながら、背中を丸めるアキラの隣に芦原はどっかり腰を下ろした。
「なになに、ひょっとして彼女の手作り? 愛妻弁当ってやつか? お前が自分の信念曲げるほど惚れちゃったのか? いやあ、俺は嬉しいよ。髪切ったのもアレか? 長髪はイヤ〜って言われちゃったとか? まあ今でも長髪だけどね!」
「あ、あの、芦原さん……、少し声が大きいです」
「お前ってさー、彼女はできてもなんか淡白っていうかさ、どうしても彼女中心になりきれないっていうか? やっぱり碁馬鹿のまんまだったからさ、それがこんなふうに彼女のオイシソーな弁当持って来て絶対食べなかった昼飯食ってる姿見たら、もう兄貴分の俺としてはねえ」
「芦原さん、静かにお願いします」
「しかもキレイに作ってあるねえ! もう愛情たっぷりって感じ? どこの可愛い子にこんなの作らせてんだよ、全国のお前のファン泣いちゃうね。なあなあ、どんな女の子? 今度俺にも紹介……」
「これを作ったのは男ですッ!」
 しつこい芦原にぶつりと切れた血管の音と共に、部屋中に響き渡る怒鳴り声で切り返したアキラの目の前で、芦原が笑顔のままカチンと固まった。
 シーンと静まり返る休憩室。アキラは自分の発言の迂闊さを今日ほど後悔したことはない。




 どすどすと床を踏みならしてマンションの部屋へと急いだアキラは、昨日同様鍵を差し込む動作ももどかしく、がしゃがしゃと乱暴にドアを開けた。
「進藤ッ!」
 ドアを潜るとすぐに、物音で勘付いたのか玄関の灯りがぱっとつき、ヒカルが奥からひょっこり顔を出して来た。
「おかえり。今日もまた凄い顔してんな〜」
「もう明日から弁当は作ってくれなくていい!」
「ええ〜、なんでだよ」
「なんでもへったくれもない!」
 怒鳴りながらずかずか居間へと進むアキラは、夕飯の匂いの他にふわりと鼻をくすぐるフローラルな匂いが存在することに気がついた。
 はっと匂いの先に視線を移して、愕然とする。
 一面に干された自分のパンツ……
 万国旗掲揚よろしく、色とりどりのトランクスがずらりと室内物干竿に並んでいる。セットされた除湿器から出る風でひらひらと旗めくそれは、見た目には何と色鮮やかな光景だろう。
「壮観だろ〜。お前、ちょっと洗濯物溜めすぎだぞ」
「……き、き、」
「乾いたヤツはさ、適当にタンスにしまっといたから。それにしてもお前、意外に派手なパンツはいて……」
「キミはボクの彼女か!!」
 至近距離で響いた大音量に、ヒカルが耳を押さえた。
 アキラは肩でぜーぜーと息をしながら、顔を真っ赤にして口唇をワナワナ震わせている。
「洗濯はしなくていいって言っただろう! し、しかも人の下着を勝手に……!」
「だって、溜まってたから」
「休みの日にまとめて洗濯してるんだ! 他人に下着を洗ってもらうほど落ちぶれたわけじゃないッ!」
「別にいいじゃん、パンツ洗うくらいさあ。それより早く手ぇ洗ってこいよ、晩飯食おうぜ〜」
 ヒカルは凄まじい形相で荒い呼吸を繰り返すアキラにくるりと背を向け、空っぽの弁当箱を振って嬉しそうに「今日も完食だな〜」なんて言っている。
 何事にも動じず、明るく、マイペース。
 とんでもない人間を招き入れてしまった――アキラはヒカルと出逢ってから、もう何度目か分からない後悔を再認識するのだった。



 先の二日に負けず劣らず、ずらりと並んだ和風のおかずにアキラの食欲がそそられないはずがない。
 しかも、実家に帰ったら母親が作ってくれるような、どうもツボをついたメニューばかりが選択されている気がする。
 物珍しい料理はなくても、どこかほっとする温かい食事。
 ……確かに、これは「癒し」の一環であるかもしれない。
 一人暮らしを始めてからもう三年になるが、自分ではまともな食事を作ったことはなかった。その三年の間にできた二人の彼女に何度か手料理を披露してもらったことはあったが、アキラの好む懐かしい食卓の再現は叶うはずもなくて。それでも、いつも何も言わずに出されたものはきちんと食べたのだけれど。
 あれこれ指定せずに、これだけ希望通りのものが目の前に用意されたのは、実家で暮らしていた時以来だった。
(……食べ物に釣られているみたいで納得いかないが……)
 ヒカルの作る料理は、素朴だが味わい深い。転々としている間に腕を磨いたのだろうか?
 それに、自分の作ったものをとても美味しそうに食べている。そう、アキラと出逢ってから、ヒカルはずっとにこにこと笑顔を絶やさない。碁盤を前にした時だけ一瞬影を見た気がしたが、それ以外は無邪気なほどの笑顔でアキラがどんなに目を釣り上げても平気な顔をしている。
「何? 俺の顔、何かついてる?」
 きんぴらごぼうを口に運びながら、何でも無いことのようにヒカルが尋ねて来た。指摘されるほどヒカルを見ていたつもりのなかったアキラは、どきんと身体を竦ませた。
「い、いや……、お、美味しそうに食べるなと……思って」
 何だか間抜けな答えを返してしまったが、ヒカルは歯を見せて笑いかけて来た。
「だって、美味しいもん。あったかいごはんって、幸せになるだろ?」
 アキラは驚いたように数回瞬きしたが、ヒカルの言葉に異論がなかったので素直に頷いた。
 口から食道を通過して、胃に届くまでの短い間、温かい食べ物が身体の内側からそっと心を暖めてくれる。熱は美味しさを倍増させて、満足感を後に残すのだ。
 それなら何故、冷えきったはずの昼の弁当まであんなに美味しかったのだろう? ――アキラは、この問いかけに自分の納得のいく答えを出すことができなかった。
「……キミはいつも笑ってるんだな」
 胃が満たされてくると、気持ちにも余裕が生まれ始める。
 先ほどまであんなに腹立たしかったのに、いつの間にか怒りは彼の笑顔に削がれていた。
「だって、笑ってた方が楽しいじゃん。」
「楽しくも無いのに笑えるのか?」
「笑っていればねえ、楽しいことは後からやってくるんだよ」
 少し伏せ目がちに、口元だけ緩やかに微笑んで、ヒカルは箸の先できんぴらごぼうに纏わりつく赤唐辛子をちょいちょいとよけている。
「悲しい時も寂しい時も、笑ってたらなんだか楽しくなるんだ。辛いことが笑顔に負けて逃げ出しちゃうから」
「……それは……」
「お前は、ずうっと怒ってばっかだな」
 へら、と力の抜けた笑顔を向けられて、アキラはむうっと口を結ぶ。
 ヒカルは笑った顔のまま、少し黒目を上向きに持ち上げてアキラの表情を伺うような素振りを見せた。
「でも、お前も誰かを元気づけたい時は笑うだろう?」
 アキラが軽く眉を上げる。
「だから、俺は笑うんだ」
 そう言って僅かに首を傾け、瞑ってしまいそうなほど細めた目がきらりと光り、アキラを眩しそうに見つめて微笑むヒカルにアキラは言葉を失ってしまった。
 何の怖れもないような、純粋な笑顔。
 何故出逢って間も無い他人に対してここまで警戒心のない笑顔を向けられるのか、アキラがその無垢な表情に戸惑いさえ覚えるほど。
 じわりと、胸の内で何かがシミをつくるように広がって行く。
 温かい料理を食べた時と同じように、身体の内側からアキラの知らない熱が広がって行く。
 ……これもまた、「癒し」効果のひとつなのだろうか……
「今日も、対局、する?」
 柔らかな笑顔が尋ねた問いかけに、アキラはぼんやりした表情のまま黙って頷いた。