BAMBINA






 四日目の朝も、やはりヒカルは律儀に弁当を用意していた。
 その日は手合いの予定ではなかったが、午前中から夕方まで取材や研究会で棋院に入り浸り、夕方からは指導碁の仕事が入っているため帰宅時間は遅くなりそうだった。
 ヒカルに先に寝ていていいからと告げて、言い争いをするのも面倒になってきたアキラは素直に弁当を受け取り、元気ないってらっしゃいコールに見送られて部屋を後にした。
 こんな生活も今日を入れてあと四日で終わる。
 彼がいなくなれば、落ち着いた静かな時間が戻って来るだろう。
 アキラは家に留まり続ける台風の笑顔を思い出し、どことなく複雑な気持ちを持て余していた。




 若手棋士の研究会を終え、同席していた芦原と棋院を出ようとしたところだった。
 アキラはその入り口に見覚えのあるツートーンカラーの頭を見つけて、ぴたりと足をとめる。
「アキラ?」
 隣の芦原が不思議そうにアキラを見て、それからアキラの視線の先のヒカルを見つけた。
 慌てたアキラは、芦原にここで待っていてくれと念を押し、急いでヒカルの元へ駆け出した。
「進藤!」
 アキラの声に、ぼんやり棋院の催し物のポスターを見ていたヒカルは振り返り、にこっと笑顔を見せた。
「塔矢、お疲れさま」
「お疲れさまじゃない! 何してるんだ、こんなところで」
 アキラが大きな声を上げるので、後ろを通過する関係者が何事かと二人の様子を伺っている。アキラは耳まで赤くなりながら、なるべく人目につかないようにヒカルの腕を引っ張った。
「棋院には来るなと言っただろう。どうしたんだ、一体」
「ゴメン、でもお前今日帰り遅いって言ってたからさあ。俺、ちょっとだけ遊びに行ってもいいかなあって」
 ヒカルは深く顎を引き、申し訳なさそうな上目遣いで眉を極限まで垂らしている。
「お前帰って来ないと、あの部屋タイクツ……」
 確かに、アキラの部屋には余計なものがほとんどない。テレビはあってもゲームはないし、コンポは前の彼女にせがまれて買ったものの、CDはクラシックが数枚置いてある程度。雑誌も漫画もなく、そう言ったものを好みそうなヒカルの退屈を紛らわすものは望めなかった。
 恐らく、ヒカルのことだから家事全般をこなしてしまったのだろう。どうにも手持ち無沙汰になってしまったのだろうか。
「……それは構わないが、それを伝えるだけなら電話だって……」
「俺、お前の電話番号知らない」
「あ」
 そういえばそうなのだ。ヒカルとは会ってからまだほんの数日で、本来電話番号を知らせるほどの仲ではない。成りゆきで家に置いてはいるが、こんなふうに連絡を取り合う必要性は発生しないと思っていた。
 もしや、こうして少しずつ個人情報を入手しているんじゃないだろうな。一瞬アキラは脳裏に浮かんだ考えに片眉を持ち上げかけたが、ヒカルの小鹿のような頼り無い目を見て、ふうっとため息でその考えを吹き消した。
「……分かった、ちょっと待て」
 アキラは胸元からスケジュール帳を取り出して、メモ欄に携帯の電話番号を走り書きした。破り取った切れ端をヒカルに差し出す。
「何かあったらこれに連絡して」
「……いいの?」
 ヒカルは手にした紙の番号を左から右へと何度も視線でなぞり、そうしてきらきらした目でアキラを見上げた。なんだか、プレゼントをもらった後の子供のような顔を見て、アキラは何だか気恥ずかしくなる。
「悪用するなよ」
「もちろん! 遅くなるようなら電話するね! 塔矢大好き!」
 そんなことをのたまって、ヒカルはまるで身体にバネをしこんでいたかのようにぴょんと飛び上がり、ヒカルより長身のアキラの頬に小さなキスをした。
「なっ……!」
 咄嗟のことに頬を押さえたまま硬直したアキラに、バイバイと手を振ってヒカルは駆けて行く。
 アキラは呆然とその背中を見送るハメになってしまった。
 ……今のはなんだったのだ……。
(あ、あの悪餓鬼……)
 男に大好きなんて言われたってちっとも嬉しくない! おまけに、き、キスまで……!
「……アキラ、今の子……友達……?」
 いつから様子を見ていたのか、恐る恐ると言った様子で芦原が声をかけてきた。
 アキラは慌てて芦原を振り返り、両手をぶんぶん振っていや、その、を繰り返す。
「お前にあんな友達がいたなんて……なんか、意外というか……」
「いや、芦原さん、あれは友達というか……!」
「ひょっとして、昨日言ってた弁当作ったのって彼?」
「うぐ!」
「お前、まさか……」
「ちちち違います! 彼はその、何と言うか家事が趣味で!」
 弁明すればするほどドツボにハマって行く気がする。
 芦原は疑わし気な目をちらちらアキラに向けていたが、やがてヒカルの消えた方向をもう一度だけ見て、顎に手を添えて首を傾げた。
「なんか、あの子見たことある気がするなあ」
「え?」
 頭から湯気を出す勢いで手足をばたばたさせていたアキラが、その言葉に動きを止めた。
「いやさ、あの頭、珍しいだろ。どっかで見た覚えがあるようなないような……」
「ど、どこですか?」
 アキラは思わず芦原に詰め寄っていた。
 ぐっと身を乗り出し、掴みかからん勢いで、きっとアキラが睨んだ目の先の芦原は、少し考える仕種を見せた後、へらっと笑った。
「忘れた」
 まるでコントのようにがくりとコケたアキラは、へらへらした二人目の脳天気な笑顔にどっと疲れを覚えて、指導碁にいってきます、と小さく呟いた後はもう後ろを振り返らなかった。





 そうして帰宅したのは午後の十時を過ぎた頃だというのに。
「……何やってるんだ、進藤は……!」
 ただいま、と開けたドアの向こうから、迎えに出て来るはずの金色の前髪は見当たらなかった。
 部屋の中は暗く、食卓には温めたらすぐ食べられるように夕食の支度ができているものの、それを作った本人がどこにもいない。
 ……つまり、まだどこかで遊んで歩いているというわけで。
「……何が癒しだ……!」
 アキラは一人きりの部屋で恥ずかしげもなく独り言を喚き、空になった弁当をキッチンに置いて、ぶつぶつ言いながら居間を横切る。寝室でスーツを脱いで服を着替え、時計を確認した。
 ヒカルが棋院に現れてから、五時間近く経過している。
 彼の「ちょっとだけ」とは一体どのくらいの時間を指すというのだ。
 アキラは苛立たし気にテーブルに並んだおかずを次々レンジに突っ込み、数分後、形だけは湯気の出た夕食とラップの残骸が鎮座することになった。
 もそもそとヒカルが置いていった料理を口にしながら、せわしなく時計を見る。
 何処をほっつき歩いているのだろう。大体お金だってろくに持っていなかったはずなのに、こんなに長く遊んでいられるものだろうか? 遅くなるようなら電話するって言ったのに――アキラはテーブルの傍らに置いた携帯電話に横目を向けるが、着信があった様子は無い。
 何故だか、食事もあまり味がしない。最初の三日間はとても口に合うおかずばかりだと思ったのに、何かが違うとも思えない今の夕食は酷く侘びしい。
 落ち着かない気持ちがまた居心地悪い。妙に部屋が広く感じる理由が分からない、ついこの前までと何ら変わらない景色だというのに。
『笑っていればねえ、楽しいことは後からやってくるんだよ』
 そして、何故だかヒカルの声が頭の中で反芻されている。
 あの笑顔。……あれもまた、食事に必要なスパイスだったのだろうか……?
「そ、そんなはずはない!」
 アキラはもう味わう余裕もなく、残った食事をかき込むように平らげた。
 とりあえず胃は満たされたと自分に言い聞かせ、汚れた食器をシンクへ運び終わった時、テーブルの上の携帯電話が唐突に震えだした。
 アキラは携帯電話に飛びついて、表示を見る。……見たことのない携帯番号からだった。
「――もしもし」
 普段は怪しい番号からの電話は一切無視するアキラも、この時ばかりはそれほど迷わず受話器を耳に当てた。
『もしもし? あんた、塔矢っての?』
「……どちらさまですか」
 聞いたことのない声が響き、アキラの声が自然と低くなる。
 やけにうるさいところからかけてきているようで、騒音に混じった声は聞き取りにくい。アキラは何度か聞き覚えのない声の男に「は?」と「何ですか?」と繰り返し、ようやく拾えた言葉に目を見開いた。
『あのさあ、ヒカルが潰れちゃったんだけど。今あんたのとこにいるんだって? 持って帰ってくんない? ヒカルがあんたのとこに帰るってうるさいからさあ』
 アキラは、人はあまりにも呆然とすると、怒りが追い付かないことを初めて知った。



 連絡を受けてから三十分ほどでその店に辿り着いた。
 はっきり言って、アキラには似つかわしく無い騒々しい繁華街だ。
 アキラは周囲を訝し気にきょろきょろ眺めつつ、いざ覚悟を決めて指定された店のドアを開ける。ドアの隙間から想像以上の音量で音楽が漏れて来て、アキラはぐっと顔を顰めた。
 それでも自分の勇気を奮い立たせて中に入ると、近くの客がちらりとアキラを見たような気がした。格好から何から、この店の雰囲気にはおよそ合わないだろう塔矢アキラ。アキラは居心地の悪い視線に気付かないフリをして、店の奥へと進んで行く。
 そうして、カウンターに頬をついてふにゃりと崩れているヒカルを見つけ、アキラは全身が脱力したように深く息をついたのだった。
「……進藤」
「……んー……?」
「進藤、何してるんだ」
「あー……とうやあ……?」
 ヒカルは僅かに開いた目でとろんとアキラを見上げ、嬉しそうにふにゃりと笑った。
 そのあどけない表情に怒鳴り付けてやろうと思っていたアキラの気持ちが怖じ気付くが、すぐに目を釣り上げる。
「一体どれだけ飲んだんだ? こんなに酔い潰れて、キミと言うヤツは……」
「そんなに飲んじゃいないよ」
 背後から別の人間の声がかかり、アキラは振り返る。
 見たことのない若い男だった。やや印象が違うとはいえ、耳に覚えのあるこの声は、先ほどの電話の相手だろうとアキラに推測させる。
「……貴方が先ほどの電話の方ですか」
「当たり。驚いた、ヒカル、今度はこんなヤツのとこに転がり込んでんだ」
 男はピューと口笛を吹いて、少し離れたカウンターの椅子を引いて腰を下ろした。その言い分にアキラはあからさまにむっとしたが、男は違う違うと手を振ってみせる。
「あんたが真面目そうだからだよ。大抵はもっと頭悪そうなヤツを狙うもんなんだが」
「……狙う……?」
 物騒な物言いにアキラが眉を顰める。男はにやにやとあまり品のない笑みを顔に貼り付けて、背中を丸めてカウンターに肘をついた。下からの値踏みされるような嫌な視線に、アキラの表情が強張って行く。
「あんた、知らないだろ。ヒカルはこの辺じゃ有名でね」
「有名だって?」
「一週間、限定でいろんな男のとこに転がり込むんだ。俺が貴方を癒しますってね」
 アキラは瞬きする。この男の言うことは、ヒカルが事前にアキラに告げていた内容となんら変わり無い。
 そして、アキラも渋々とは言えそれを承諾したのだ。癒してもらおうというより、仕方が無いから置いてやろうという心づもりだったが。
「ヒカルは悪魔だって呼ばれてんだよ」
 男の言葉に、アキラは図らずも目を見開いてしまった。
 その様子がおかしかったのか、男はくつくつと笑う。馬鹿にされたような仕種が腹立たしくて、アキラは拳を握りしめた。
「一週間、相手を癒すってのはコイツのエゴさ。大抵は、一週間もコイツに傍にいられたら、コイツのいない時間に耐えられなくなる。にこにこ笑っちゃってさあ、その気なくても可愛くなっちまうんだよ、この天使みたいな悪魔がさあ」
 ぺらぺらと聞かれてもいないことを口に滑らせる男の話の内容を、アキラは目をチカチカさせながら聞いていた。――この男は何を言ってるんだ? 悪魔だって? 進藤が?
 いつものアキラなら鼻で笑って相手にもしないような男なのに、その軽薄そうな口から出て来る言葉がやけに耳に纏わりついてくる。
「そんな哀れな男たちを置いて、今日もコイツは新しい男の家を渡り歩くってわけだ。あんたみたいな生真面目そうなヤツは、マジになると後が怖そうだろ。だから相手にはしないと思ってたんだけどねえ」
 最後の一言があからさまな自分への挑発だと感じとったアキラは、へらへらした笑いの耐えない男に対し、その切れ長の目を座らせて横目でじろりと睨んでやった。
「……キミもその哀れな男の一人というわけか」
 男がぐっと口唇を噛む。――どうやら図星のようだ。
 アキラは男から視線を逸らし、潰れたままのヒカルの肩に手をかける。
「進藤、帰るよ」
「んー……、分かった……」
「立てるかい?」
 ヒカルの脇に腕を差し入れ、初めて会った時に介抱したのと同じような体勢で店を横切ろうとする。
 ふと思い当たって、憮然とした表情の男を再び振り返った。
「進藤の支払いは?」
 ヒカルがろくな金を持っていなかったことは分かっている。男の言う通りそれほど飲んでいないのが本当だとしても、彼の手持ちでは恐らく足りない程度には飲んでいるだろう。
 男は、ちっと舌打ちしてアキラから目を逸らした。
「いいんだよ、俺が出しとく」
「……それはどうも」
 アキラは言葉だけの礼を言い、男の目の前でヒカルを引きずって行った。アキラから顔を逸らしたはずの男が、再び視線をこちらに向けたのが分かる。
 アキラを見ているのでない。……ヒカルを見ているのだ。
 ――ヒカルは悪魔だって呼ばれてんだよ――
 彼こそが、悪魔に魅入られた可哀想な人間だということだろう。
 転々と男の家を渡り歩くうちに、妙な感覚が芽生えないとも限らない。彼はヒカルを迎え入れ、そうして魂を奪われたというわけか。
 馬鹿馬鹿しいと、いつもなら一笑に付すアキラも、この時ばかりは笑えなかった。
 ヒカルがいたのはほんの数日。それだけで、あれほど部屋が広く感じるとは思わなかった。
 目の前にあった眩いほどの笑顔がひとつなくなっただけで、部屋の灯りがあそこまで薄暗いものだったなんて、気付きもしなかった。