車の中でもヒカルはずっと眠っていた。 頬を少し赤らめて、ぐったりシートに凭れる様は熱のあった一日目と変わり無いが、違うのはこれらの症状が病気によるものではなく、単に酔っ払っているということである。 どれだけ飲んだのだろうと、酩酊しきっているヒカルを見てアキラはため息をついた。 男の言う「それほど」とはどれほどを指すものか。ヒカルが極端に酒に弱い体質なのだろうか。しかし、遊びに行くと言ってからこれだけの時間が経っているのだから、一杯や二杯で済んだなんてはずがない。 ずっと、あの男と一緒にいたのだろうか? ――そう考えると、何故だか胸の奥から黒い靄が生まれて来る。 ――この一週間は、ボクを癒すために使うんじゃなかったのか? そんなふうに問いかけたい自分がいることに気付き、妙に悔しくて歯噛みした。 出逢って数日の、怪しい青年を信用するまいと思っていたのに。 どちらかと言えば、この数日間、癒されるというより腹を立ててばかりだったというのに。 何故だか心から怒れない自分がいる。こんなふうに見知らぬ店まで迎えに行かされて、本当だったら拾って来る義理もないはずなのに、律儀にも酔ったヒカルを連れて帰ろうとしている自分がいる。 今は閉じられているヒカルの瞼が開いたら、きっとあの屈託のない笑顔を向けてくれるだろうことを期待してしまっている。 (……馬鹿な) 頭では否定しているのに、身体は実に正直だ。 ヒカルの重い身体を引きずって、マンションの部屋まで連れて行くことを苦だと思っていない。口ではぶつぶつ不平を漏らすものの、部屋についたらヒカルをソファに横たえて、足は真直ぐ着替えを取りに向かっている。 水を用意して、念のため二日酔いの薬も用意して。こんなことをしてやる義務なんかないのに。 (ボクはどうしてしまったんだろう) 振り回されるのはうんざりだと思っていたはずなのに…… ――その気なくても可愛くなっちまうんだよ、この天使みたいな悪魔がさあ…… 男の言葉を思い起こしてぎゅっと目を瞑った。 可愛いだなんて、馬鹿らしい! 彼がたまたまヒカルに夢中になってしまったというだけで、全ての人間がそうなるとは限らないはずだ。 「……とうや?」 ふと、ソファに凭れて頭を落としていたアキラの後頭部に、頼り無い掠れた声が触れた。 アキラはゆっくり振り返って、弱々しく瞬きをしているヒカルを見下ろす。 「起きたのか?」 「……俺、酔っ払ってた? ゴメン……」 ヒカルは目を擦りながら上半身を起こした。眠そうな仕種は犬や猫のそれと同じで、妙に獣じみて見える。 「いいよ、寝てて。どれだけ飲んだんだ?」 「んー……、そんなに、飲んだつもりなかったんだけど……」 ヒカルはふわあとあくびをしながら、起こした身体を右手で支えようと突っ張って、その手が肘からかくんと折れた。 咄嗟にアキラは腕を伸ばしてヒカルの身体を支える。まるでヒカルを正面から抱きかかえるような格好になり、思わずカッと頭に血が昇った。 「あー……ごめえん……」 ふにゃふにゃした声で、ヒカルはアキラの肩にことんと額を落とした。 ヒカルにとっては何でも無い、ただ体重を支えるための支点でしかなかったのだろうが、アキラにとっては予想外の動きにビクリと身体が強張る。 酔っ払いはそんな不自然な筋肉の強張りには少しも気がついていないようで、それどころか擦り寄せるように額を肩に押し付けて来た。 「塔矢って、いいニオイする〜……」 「お、おい、し、進藤」 「髪のニオイかなあ……、優しいニオイ……」 しなだれかかるようにぐたりと体重がアキラの胸にかかり、ソファから滑り落ちたヒカルの身体はずるずるアキラにのしかかって来た。アキラは硬直したまま、指先だけを宙にぴくぴく動かして、胸に纏わりつくこの大きな赤ん坊をどうしたものかと思案に思案を重ねている。 いや、そんな高尚なものではなかった。すっかり頭に昇ってしまった血が、アキラから「ソファに突き返せ」というごくごく単純な結論を完全に奪ってしまっていた。 この状況で、ヒカルがアキラに体重を預ける必要は全くないはずなのだ。ソファに転がっている方が体勢的にもどんなに楽か。それなのに、あえて身体を起こしてアキラに絡み付かなければならない理由は何だというのだろう。酔っ払いの脈絡のない行動、と言ってしまえばそれまでなのだろうか? 同じ年の男のはずのヒカルの身体は、こうして僅かな布越しに密着すると酷くしなやかに感じられる。酒を飲んだせいか、やけに体温が高くて、仄かに香るアルコールの匂いが何故だか無性に甘ったるくて…… (――何故ボクがドキドキしなければならないんだッ!?) アキラは過剰反応を示す自分の心臓に愕然とした。 アキラにぺったり身体をくっつけていたヒカルが、くつくつと身体を震わせる。その些細な動きさえおかしな気持ちを掻き立てるようで、いかん! と目をきつく瞑ったアキラの耳に、囁くような吐息混じりの声が熱い息を吹きかけて来た。 「塔矢あ……なんで心臓どっきんどっきんしてんの……?」 「ばっ……!」 馬鹿を言うな! と怒鳴りたかったのに、突然声を発したものだから乾いた喉が貼り付いてうまく行かなかった。意識していなかったが、相当荒い口呼吸をしていたらしい。 ヒカルはひょいっと身体を起こし、悪戯っぽい上目遣いでアキラの顔を覗き込んで来た。その至近距離で感じるヒカルの吐息に、アキラの見開いた目が瞬きを忘れる。 「ねえ、なんでどきどきしてるの?」 赤らんで潤んだ目元が、口角を釣り上げた口唇が、何故こんなに艶めいて見えるのか。 いつもとは質の違う含みのある笑顔に、完全に四肢の自由を失ったアキラの金縛りは解けない。 何故ドキドキしているかなんて、……こっちが聞きたいくらいだ! 頭の中の混乱は絶頂を迎えようとしていた。 たった数日前に出逢ったばかりの男に、ちょっと艶っぽい目で覗き込まれて、衣服越しに感じる熱に縛られて動けないだなんて、どこの思考回路を探ったらこの現象に対する答えが出て来るのだろう! 落ち着け心臓! 鎮まれ心臓! 相手はただの酔っ払いで、その上忘れちゃいけない大切なこと、男なのだ! いくらおふくろ料理が旨くて家事もこなして、堂々と人のパンツまで洗うような気配り(?)があっても、本人が言った通りシャツは襟までぴしっとアイロンがかけられていても、ふにゃんと笑う笑顔がどんなに……愛らしくても! (相手は男だ!!) 絶叫は言葉にならない。 それ以上、顔を近付けないで欲しい。そんな、心の奥底の弱い部分まで見透かすような黒い瞳を向けないで欲しい。 息がかかるほどに近く、少し身体を前に傾けたら……口唇が触れてしまいそうなほど。 突き放せばいいのに、身体が固まって動かない。アキラは唯一、呆然と見開いた目をぎゅうっと瞑ることしかできなかった。 「……」 どのくらいそうして硬直していたのか。 ふと、自分に絡み付いた熱に動きがないことに気付き、アキラはそろそろと瞼を開いた。 見ると、ヒカルはアキラに体重を預けたまま、その首筋に頭を寄せて眠りこけていた。 「……進藤?」 呼び掛けに返事はない。 すやすやと安らかな寝息が聞こえるばかりだった。 アキラは肩の力を抜き、抜き過ぎてヒカルを支え切れなくなるなんてことのないように腕だけは床に突っ張って、はあ〜と大きなため息をついた。 気付けば全身汗だくである。随分精神力を酷使したような気がする。……たかが酔っ払いが引っ付いて来ただけで? アキラは口唇を噛み、呑気に寝ているヒカルをようやく自分から引き剥がした。ごろりとソファに寝転がして、仰向けに目を閉じ気持ち良さそうに腹を上下させているヒカルを憎々し気に見下ろす。 『ヒカルは悪魔だって呼ばれてんだよ』 「……悪魔、ね……」 分かりたくもないが、……分からなくもない。 本人に自覚がないから尚タチが悪い……アキラはもう一つ盛大なため息をついて、ずっとおかしな格好のまま固まっていた身体を伸ばし、人の気も知らないでぐっすり眠るヒカルに毛布を持って来ようと立ち上がった、その時だった。 「……さい」 「え?」 何か聞こえた気がしてアキラが振り返った先のヒカルは、先程と変わらず寝息を立てている。 「……、さい?」 聞こえたような言葉を反芻してみるが、なんのことか分からない。 動物園に行った夢でも見ているのだろうかと、アキラは深く考えずに視線を元に戻した。 *** ――……や。とうや、とうや…… なんだか、どこか遠くで自分の名前を呼ばれているような気がする。 柔らかくて、優しい囁き。天界からの迎えが来たような、うっかりすると魂を差し出してしまいそうな危うい魅力のある声…… 引き摺られたい、そんなふうに思ってしまう。 腕を伸ばせば、連れて行ってくれるのだろうか。 身も心も蕩けるような、甘い危険に満ちたその向こう側へ―― 「塔矢!」 アキラの瞼が音を立てるかのごとく一気に開いた。 その唐突な様子に驚いたのか、同じように目を見開いている……ヒカルの顔が飛び込んで来る。 アキラは状況が掴めず、しばし丸い目のまま視界に映るヒカルを見つめていたが、徐々に覚醒しつつある頭が、ここが自分の部屋で、自分のベッドに寝ていて、今が朝だと言うことを理解し始めた。 「びっくりした〜。お前、いきなり目ぇ開けるなよ。朝だぞ、塔矢」 「……朝」 「お前いっつも勝手に起きてくんのに、今日なかなか起きて来ないからさあ。起こしに来たんだけど、今日ってひょっとして仕事ない日?」 ヒカルの言葉がいまいち頭に入って来ない。 そう、昨夜は酔っ払ったヒカルをソファに寝かし付けて、それから自分もベッドに入ったのだが、なかなか眠りが訪れずに随分寝返りを打って悶々としていた。どのくらいそうして眠れずにいたのかは覚えていないが、この身体の怠さからして朝方まで眠れなかったのかも知れない。 そのせいで……寝坊した。そして、ヒカルが起こしに来た。 そうだ、寝坊だ! 「しまった!」 アキラは飛び起きた。 今日は手合いの日だ。アキラは枕元の時計を掴んで目の前に掲げた。――いつもより三十分も遅い。 夕べは帰宅して食事をとり、すぐにヒカルを迎えに行くハメになって、その上帰って来てからも理不尽に疲れてしまったため風呂にも入らずに寝てしまったのだ。朝シャワーを浴びればいいと思っていたが、これだけ寝坊しては相当支度を急がないと間に合わない。 「と、塔矢、大丈夫か?」 「あ、ああ、起こしてくれてありがとう」 アキラはばたばたと部屋の中を左右に走り回り、着替えやらタオルやら一通りの支度の順番に混乱しながら走り回った。そんなアキラをしばし呆然と眺めていたヒカルは、「俺、居間に戻ってるな」と残してアキラの部屋を出て行った。 アキラはタオルを引っ掴んでバスルームに駆け込んだ。頭からシャワーの湯を被り、すっかり覚めた頭で今朝の微睡みに自己嫌悪する。 何が、引き摺られたい、だ! (そんな訳あるか!) どうやら昨日のショックがまだ残っているらしい。 あんな、酔っ払いの妙な色気を間近で見てしまったから、おかしな妄想が生まれるのだ。 アキラはガシガシと頭を洗い、煩悩を掻き出すように爪を立てて頭皮を刺激した。 |