BAMBINA






 バスルームから出ると、ヒカルはこれまでの朝同様、見事な朝食を用意してアキラが座る椅子の向かいに腰を下ろしていた。
「御飯食べる時間ある?」
「あ、ああ」
 何となく気まずくて、あまり視線を合わせられない。
 ヒカルは昨夜のことを覚えているのだろうか。聞いてもいいものだろうか。温かい味噌汁を口に含みながら、ヒカルの様子を伺うようにちらちら目を向けていると、
「夕べ、ごめんなー」
 ヒカルから切り出されて、アキラはぐっと液体を喉に詰まらせかけた。
「ちょこっと馴染みの店に行ったらさ、知ってる顔がいて。一緒に飲んでたら酔っ払っちゃったみたい。お前、迎えに来てくれたんだよな? あんまり覚えて無くてゴメン」
 申し訳無さそうにそんなことを言われて、おまけに昨夜ほどの妙な雰囲気はないにしろフラッシュバックするような上目遣いで、アキラは怒るタイミングを失ってしまった。
「いや……、もう、いいよ」
 自分の言葉が自分で信じられない。
 普段なら怒鳴ったって足りないはずだ。遊びに出た居候が酔っ払って、それを迎えに行くハメになっただなんて。
 それなのに、何故だかヒカルに謝られるとかえって気まずくなってしまう。ころころ笑っていてくれたほうがいい。そんなことまで思ってしまう自分がいる。
 一体自分はどうしてしまったんだろう。突然現れたこの奇妙な青年が、あっという間に自分のテリトリーの奥へ奥へと侵入して来るのに、拒むどころか慣れてきているだなんて。
 ヒカルは、アキラがあまり声を荒げなかったことにほっとしたのか、またいつものような顔いっぱいの笑顔を向けて来た。その汚れない純真さと、昨夜見たやけに色づいて濡れた目とのギャップに閉口し、味噌汁を飲み干すフリをして腕で顔を隠した。
 慌ただしく食事を終え、出かける支度が完全に整って、時計を見ると普段より五分遅れている程度で済んでいた。
「塔矢、弁当」
 相も変わらず用意されている包みを、何も言わずに受け取る。
 ヒカルとの契約もすでに五日目、弁当を持参するようになって四日目。さすがに三度目の昨日は周囲も慣れて来たのか、それほど好奇の目を向けられることはなくなっていた。
「いってきます」
「いってらっしゃ〜い」
 玄関で手を振るヒカルに、閉じかかったドアの隙間から思わず手を振り返して、アキラは閉まった扉の向こうで自分の右手を凝視してしまった。
 ――何故、当たり前のように「いってらっしゃい」されなければならないんだッ!
 狂った調子はすぐには戻らず、アキラは呻きながらマンションを後にした。




 ***




 手合いを終えて簡単な検討を行った後、棋院を出ようとしたところでアキラは昨日同様芦原と一緒になった。
「よ、アキラ。久しぶりに飲みに行かない? 安くていい店見つけたんだよね〜」
「え……」
 芦原の誘いにアキラは一瞬躊躇ったが、すぐに帰宅するのが何となく躊躇われた。
 あの純粋な笑顔の中に晒されて、冷静でいられる自信がなかった、というのが本音だろう。
 それに、芦原と飲みに行くのは久しぶりだった。彼女がいた四ヶ月、囲碁の次に彼女を優先してきたアキラは、決して周囲に対して付き合いがよかったわけではなかった。
「……いいですよ、連れてってください」
 軽く笑いながらアキラが返事すると、芦原はそうこなくっちゃと両手を上げたオーバーリアクションで喜んでくれた。車は棋院に置いたまま、タクシーを呼ぼうと携帯を取り出した芦原を見て、アキラははっとして気まずく視線を宙に巡らせた。
「ちょ、ちょっと待っててください、芦原さん。すぐ戻りますから」
 きょとんとした芦原に引き攣った作り笑いを見せて、アキラはそそくさと階段の近くまで身を隠した。
 そっと携帯電話を取り出して、自宅の電話番号を呼び出す。
 コールが一回……二回……
 果たして出るだろうか? 正直、アキラが留守の間にかかってくる電話に手当たり次第に出られては困りもものだが、この電話は特別だと気づいてくれるだろうか……
 コールがもうすぐ十回になろうかという頃、ようやくカチャリと受話器を上げた音が聞こえてきた。
『……もしもし?』
「もしもし? 進藤?」
 ヒカル以外誰も出るはずがないのは分かっているが、つい確認してしまう。受話器の向こうから、『あ、やっぱり塔矢?』と安堵を含んだ声が届いた。
『勝手に出たら悪いかなって思ったんだけど、番号が渡されたメモと同じだったから』
「ああ、気づいてくれてよかった。その、今日なんだが……少し遅くなる」
『遅くなる?』
「ああ、同門の先輩に飲みに誘われて。断りきれなかったから」
 別に芦原が無理強いしたわけではないが、なんとなくヒカルに対して後ろめたくてそんな言い訳をした。心の中で芦原に強く謝罪する。
『そうなんだ……。晩飯は?』
「もう作ってくれたんだろう? 明日の朝食べるよ。」
『ん、分かった……。……あのさ、塔矢』
「何?」
 何だか自分でも恥ずかしくなるくらい優しい声を出している。電話越しのヒカルの声が少し頼りなく感じるからだろうか?
『俺、今日は遊びに行ったりしないからさ。だから……なるべく早く帰ってきて』
「……」
『ダメ?』
「……分かった、なるべく早く帰るよ」
 何故そんな約束をヒカルにしなければならないのか、そんな義務なんかどこにもないのに、アキラはそう答えていた。
 ヒカルの声が不安そうだった。アキラが帰るのを待ってくれている。……一人でいたくないのだろうか?
 そんな、縋るような声を聞かされたら、昨夜の無性に色っぽかったヒカルの目を思い出してしまう。
 今すぐ帰りたいような、帰りたくないような、複雑な気持ちが容赦なくアキラを襲う。
 電話を切った後もどこかぼーっとしてしまって、芦原が呼びに来るまでアキラは無意味に階段の段数を数えていたりした。
「アキラ、お前大丈夫か? 疲れてんじゃないの?」
 今日はぱーっとやろうぜ、なんて芦原に背中を押されて、アキラは曖昧な笑顔をとってつけたように顔に貼り付けながら、何とも整理しきれない気持ちを抱えて居酒屋へ向かうこととなった。




「そっかあ、お前別れちゃってたんだあ」
 日本酒をちびちび舐めながら、芦原は酷くがっかりした様子で肩を落とした。
「なら休憩室で彼女彼女連呼して悪かったなあ。あんな弁当持ってくるなんて、てっきり嫁に迎えるくらいの大本命の彼女ができたのかって思っちゃったんだよお」
 芦原の無礼は今に始まったことではないので(仮にも年上の芦原にそんな言い方をするあたりアキラも充分無礼だが)、アキラは困ったように笑うだけで何も言わなかった。
 つまみに頼んだ枝豆をぷちぷち口に入れて、芦原はため息をつきながらアキラを見た。その目に何だか哀れみが込められていて、アキラの表情も自然渋くなってしまう。
「しかしお前、不憫だなあ。昔っから囲碁囲碁って囲碁ばっかだったしなあ。美味そうな弁当持ってきたと思ったら、作ったのは男だって言うし」
「そ、それは……」
「あの子、お前の友達にしては今までにないタイプだよなあ。前髪なんか金髪で……」
 芦原はそこまで言いかけて、ふと視線を天にゆるりと彷徨わせ、「あ!」と叫んだ。唐突な反応にアキラの肩がビクリと竦む。
「な、なんですか突然」
「思い出した! あの子、どこで見たか思い出したんだよ!」
「え?」
 アキラは昨日の芦原の言葉を思い出し、はっと目を大きくした。
 ――なんか、あの子見たことある気がするなあ……
「ど、どこで見たんですか!?」
「藤原先生だ」
「……藤原先生?」
「アキラ、知らない? 無理もないかな。でも名前くらいは知ってるだろ? 藤原佐為先生。プロ入り二年目でタイトルとった、伝説の棋士だよ」
 アキラは目にゴミが入ったかのように何度も瞬きした。
「そりゃあ、名前くらいは……知ってるに決まってるじゃないですか」
 ――藤原佐為。
 囲碁の道を志すものなら、知らないはずがない。
 誰の門下でもなく、院生経験もないというのに、プロ試験に合格して以来ほぼ負け無しで、十代の若さでタイトルホルダーとなった。
 最多勝利賞、連勝賞、最優秀棋士賞など僅かな期間に主だった賞を総なめにし、その強さは本因坊秀策の再来かと謳われた。アキラも彼の棋譜を見て、その完璧な打ち筋に寒気さえ覚えたほどだ。
 ただ、惜しむべく、彼は……
「……亡くなっていますよね」
「ああ、まだ三十二歳くらいだったんだけどな。ちょうど十年くらい前になるんじゃないかな?」
「その、藤原先生と……進藤に何の関係が?」
「進藤くんって言うの? あの子」
 芦原は通りかかった店員に日本酒のおかわりを頼み、手元に残っていた分をぐっと飲み干した。
「そう、十年くらい前だけと、よく覚えてるよ。間違いない、その進藤くんって子だ。あの子、棋院でよく藤原先生と打ってたんだ」
「藤原先生と?」
 アキラは耳を疑った。
 ヒカルが藤原佐為の弟子だったというのだろうか?
 それはにわかには信じがたかった。確かに、ヒカルは基本の定石をきっちり身に着けてはいたが、あれだけ高名の棋士の教えを受けたにしては手筋が甘すぎる。
「といっても、ほんの一年もあったかどうかってくらいの期間だけどね。……藤原先生が亡くなるまでだったから」
「あ……」
 注文した日本酒が運ばれてきて、芦原がにこやかに受け取る。しかしアキラに振り向いた顔は少し淋しそうな、どこか懐かしむような表情だった。
「あの子、いくつ?」
「え……、あ、に、21と聞いてます」
「21か……。じゃあ、十年前なら小学生だな。そうだな、それくらいの年だった。藤原先生のファンだって言って、纏わりついて離れなかったんだよ。先生もおろおろしちゃってさあ。で、いつも一般対局室で彼が満足するまで藤原先生が付き合ってたんだ。先生はプロだけどさ、相手は小学生なもんだから、お金もとらずに延々と。名物みたいな光景だったよ」
「そんなことが……」
 呟きかけて、アキラはふと脳裏に蘇った昨夜の映像に口を押さえた。

『――さい』

 さい。……佐為。
 ヒカルが夢見心地に囁いた、その名前。
「なんていうかさ、兄弟にしては年が離れてるし……親子ってのも変なんだけど、とにかく微笑ましくってね。俺もあの時18くらいだったかな? みんなにこやかに見てたんだよ。彼と藤原先生のやりとりを。あの前髪、目立つでしょ。きらきらして笑顔が眩しくってねえ、元気いっぱいの男の子って感じで」
「……」
「でも……藤原先生が亡くなってから、ぱったり来なくなっちゃって」
 アキラは息を飲む。
「どうしてるのかと思ってたけど……、まさか、アキラの友達なんてねえ……」
 芦原は遠い彼方の記憶に思いを馳せ、ぼんやりうつろな眼差しをアキラに向けていた。
 ――一週間で、人に凄く幸せにしてもらったんだ。その恩返し――
 ――その人、死んじゃったから――
 アキラは口唇を噛む。
 碁盤を懐かしげに見つめていたヒカル。
 どこか寂しげな、憂いを含んだ揺れる睫毛……
(……藤原先生が、進藤に幸せな一週間をくれた人?)
 たかが小学生の頃の思い出の、しかも十年も昔の幸せのために、ヒカルは今も知らない誰かに一週間の癒しを分け与えているというのだろうか?
「そんなこともあるんだねえ。いやでもそんなことより、お前のほうが大事だよ。お前、もうちょっと囲碁から離れる時間作ったほうがいいよ」
「え? あ、芦原さん、その、進藤の話をもう少し……」
「彼のことはもういいって。俺はね、心配してるんだよ。お前があんまり囲碁漬けになってるから、このままじいちゃんになって枯れちまうんじゃないかって……」
 どうやら酔いが回り始めた芦原は、アキラの望む会話の方向から強引に話題を転換し、管を巻きつつ男と女についての持論を打ちたて始めた。
 アキラも最初こそ話半分なりに芦原の言うことを聞いていたが、やがてあまりにアキラのことを囲碁馬鹿、女の気持ちが分かってないなどとこき下ろすようになったため、沸々と沸く怒りをアルコールでごまかすしかなくなってきた。
 ひょっとして、昨夜のヒカルもこんなふうに頭を締め付ける余計なことから逃れるため、アルコールの波に身を任せたのだろうか――かろうじて冷静な思考を保っていた時に、そんなことを考えた気がする。
 二人が居酒屋を出た頃には、揃って怪しい千鳥足に変わっており、タクシーの中で爆睡している芦原より先に自宅のマンションで降りたアキラは、すっかり据わった半眼でぼんやり自室の窓を見上げる状態になっていた。