キャンディ






 大好きだったのだ。とてもとても。
 あの頃はまだ舌足らずできちんとした発音ができず、にいたんにいたんと笑顔で走ってくるヒカルに対し、ヒカルちゃんヒカルちゃんとアキラも両手を広げて迎えてあげたりしていた。
 結婚の約束をして、ご丁寧に指きりまでして。哀しいかな小さな純情はしっかりアキラの記憶に刻み込まれ、十年経った今でも鮮明に覚えている。
 ヒカルが男の子だと知った時、失意のあまりアキラは三日食事ができなかった。
 ヒカルが引っ越すと分かった時も、寂しくてたまらずに毎晩枕を涙で濡らし、ついに見送りにも顔を出すことができなかった。
 あの盲目的な恋心を思い出すたび、切なくて懐かしい気持ちになる反面、自分を埋めてやりたいほどの恥ずかしさに髪を掻き毟りたくなってしまう。
 あれは若気の至りだった。未だ十五歳にも満たない子供が振り返るには若気もクソもないような気はするが、アキラ本人はそう自分に言い聞かせて過去の思い出を封印しようとしていたのだ。
 しかし封印どころか、張本人がひょっこり現れたのだから現実は残酷だ。
 久しぶりに逢ったヒカルは、まだ顔も幼く身長も低かったが、表情に悪餓鬼っぷりが滲みでているその外観はどこからどう見ても男の子だった。
 おまけに本人は昔のままにアキラに懐いてくるものだから、トラウマに纏わりつかれているようで苦しくてたまらない。
 かといって、邪険に振り払ったりもできない。
 お互い十年分成長したとはいえ、可愛かった幼馴染であることに変わりはないのだ。あの頃のように笑顔を向けてくれるヒカルが嫌いなわけではない。
 一人っ子のヒカルにとっては自分を本当の兄のように想っていてくれたのかもしれない。ならば兄として、甘えてくる弟に優しく接してあげればいい、それだけのことかもしれないが。
 どうしても幼い自分の慟哭がいたたまれないのだ。大人は何を大袈裟なと笑うかもしれないが、アキラがあの時感じた絶望は筆舌に尽くし難いものだった。
 初恋の相手との再会――普通は甘酸っぱい思い出として若い自分に浸ったりするものだろうが、如何せん酸味が強すぎる。洒落にならない哀しみを抱え、ヒカルを見るたび胸中はとんでもなく複雑だ。
 できればそっとしておいて欲しい。だけどヒカルは寄って来る。
 あの時のような少女めいた可愛らしさではない。しかし随所に残る大好きだった面影がちらちら覗くたび、切なくてやりきれなくなってしまう。
 こんなことなら二度と逢えないほうがずっと良かった、なんてアキラは叶わぬたらればに現実逃避するのだった。




「なー、いつ遊びに行っていいの」
「……父も母もまだしばらく海外だ。来たってしょうがないだろう」
「アキラ兄ちゃんがいるならいいじゃん」
「……、ボクも仕事があるんだ。暇じゃない」
「じゃあいつ暇になるんだよ」
 さくさくと足を進めて帰路を辿るアキラの後ろを、時折小走りになりながらヒカルがちょこまかとついてくる。
 昔、しょっちゅう家に遊びに来てはアキラの両親に可愛がられていたヒカルを思い出し、アキラは振り向かずに軽く顔を顰めていた。
 現在ヒカルが住む家は以前ほどの近所ではないが、同じ中学に通うだけあって充分遊びに来れる範囲内だ。
「……何もないよ。遊びに来たって。楽しいことなんか何もない」
 まるで自分に言い聞かせるように呟くアキラを、隣まで追いついてきたヒカルが不思議そうに見上げている。
 何もない――全くその通りだとアキラはしみじみ思う。
 男女の区別もろくにつかなかった子供の頃は、お約束のようにおままごとなどで遊んだものだ。そしてそれ以外の遊び方はアキラはほとんど知らなかった。何しろ、ヒカルが飛び回って擦り傷を作っている間はおろおろと見守っていることしかできなかったのだから。
 ヒカルが引っ越した後、連日のように仲良く遊ぶ友人はいなくなり、アキラは囲碁一本で黙々と勉強し続けた。息抜きに詰め碁を選ぶくらいなのだ、今ヒカルが尋ねて来ても気の利いた話ひとつできない。
 すっかりつまらない男になってしまったと思われるのは寂しいことだった。だからこそボロを出さないように理由をつけては来宅を断っているのに、無邪気なヒカルは食い下がる。
「別にいいよ、何もなくても。久しぶりにあのでっかい家見たいの! な、鯉まだいる?」
「……いるよ」
「縁側もそのまま? 風鈴とか、ブタの蚊取り線香とかまだある?」
「……あるよ」
「じゃ、俺が途中まで登って落っこって頭縫った木は?」
「覚えてるのか、そんなこと」
 意外な質問にアキラは思わずヒカルを見た。
 ヒカルは満面の笑みを浮かべて頷いている。
 思わずヒカルの笑顔に釣られ、昔二人で広い庭を走り回ったことを思い出す。胸が温かくなったのは一瞬で、すぐにさっと青ざめたアキラは慌てて顔を逸らした。
 過去のことを詳細に覚えているということは、アキラのうっかりプロポーズだって覚えている可能性が高いではないか。
 当時ヒカルは三歳、言葉も怪しい頃だったから自分が何故小指を絡めることになったのか理解していなかっただろう。しかし今のヒカルならば謎を全て解くことができてしまうではないか。
 もしもあの時のことを他人に言いふらされたりしたら――ありえなくない想像にぶるっと身を震わせたアキラだったが、ヒカルは特にそのことには触れず、新しい質問を寄越した。
「じゃあ、……まだ碁やってる?」
 話題が変わったことに幾分ほっとして、ああ、と頷きかけたが、その前にヒカルが自ら質問に答えてしまった。
「なんてな。やってるよな。アキラ兄ちゃん、プロだもんな」
 ヒカルの独り言のような呟きにアキラは少なからず驚いた。
 学校ではアキラがプロ棋士であるということはそれなりに有名だが、ヒカルまでもが知っているとは思わなかったのだ。
 小さい頃のヒカルは碁石を見せても何の興味も示さなかったため、アキラもヒカルの前では碁盤を持ち出したりはしなかった。恐らく碁を嗜んでいたことさえ忘れているだろうと思っていたというのに。
 プロ棋士として活動はしているが、飽くまで囲碁ファン向けのものであって、囲碁知識のない人々にアプローチできているかと言えば決してそうではないだろう。
 あからさまに驚いているアキラの隣で、ヒカルが少しはにかんだ笑顔を見せた。
「アキラ兄ちゃんが載ってる新聞、見たよ俺。すぐ分かったよ。全然変わってねえなあって」
「新聞?」
 その言葉に更に驚く。確かに新聞に取り上げられるのはしょっちゅうだが、それは碁の記事を専門としたものばかりだ。
 過去に一度だけ写真つきで全国紙に掲載されたこともあるが、そのたった一度をヒカルがたまたま目にしたというのだろうか? この、見るからに新聞など手も触れなさそうな少年が。
 アキラの不審な視線を感じ取ったのか、何故か慌てた様子でヒカルは付け加えた。
「じ、じいちゃんが碁やるからさ! じいちゃん家に週間碁があって、……それで」
「ああ……」
 それならば納得だとアキラは頷く。
 アキラの父親は現在は引退しているが、ヒカル一家が近所にいた頃から棋士として高名だった。囲碁を嗜むヒカルの祖父が存在を知っているのは当然だし、その流れで孫と遊んでいたアキラのことを覚えていてくれてもおかしくはないだろう。
 恐らく祖父から自分のことを知らされたのだろう――そう判断したアキラは静かに微笑み、おじいさんによろしく、と小さく囁いた。
 ヒカルは不思議そうな顔をしたが、アキラはそれ以上何も言わなかった。
 そう、きっとヒカルが自らの記憶だけでアキラを覚えていたのではなく、周りからあれこれと幼馴染の情報を聞いて頭の中で育てた部分が多いのだろう。
 必死のプロポーズなど恐らく覚えていまい。……ほっとすると同時に、どこか寂しく思う初恋への憧憬を、アキラは一人胸のうちでそっと宥めた。


 だから、ヒカルが囲碁に興味を持っている可能性なんてちらりとも考えなかった。
 幼い頃と変わらない、落ち着きのない少年が囲碁だなんてと無意識に決め付けてしまっていたのかもしれない。
 アキラがその現場に触れたのは偶然だった。






凄いダメ要素満載なアキラさんになってしまった……
展開は相変わらずのワンパターンです。