キャンディ






 学校の創立祭で、アキラに割り当てられた役割は面倒ではあったが適役だった。
 あまり協調性があるとは言えないアキラは、校舎の外で学生たちが呼び込みに精を出す露店全般の見回りを頼まれたのだ。なるほど、物怖じしないアキラならば何か揉め事があっても臆せず間に入って行くだろうし、無言の眼力を見せ付ければ大抵の者は黙って言うことを聞く。
 風紀委員でも何でもないアキラだが、クラスメートたちと仲良くたこ焼きを作るのは自分には似合わないと悟っていたため、与えられた仕事を黙々とこなしていた。
 端から端までゆっくりと歩き、一般客で混雑している露店をひとつずつ、見落とすことのないように様子をチェックする。
 無理な押し売りをしていないか、喧嘩が起こっていないか、迷子はいないか、トラブルがないかを確認し、複雑に混じり合う食べ物のニオイの中を、賑わいに気を取られることなく真っ直ぐに歩いていく。
 ふと、混雑していた人の波がやんわりと途切れた。どうやら食べ物を提供するブースがなくなり、そこから先は文化系の部活動が自分達の活動内容を示すべくそれぞれ陣取っているようだった。
 金銭が絡むことのない区域で一瞬気が緩んだアキラの耳に、覚えのある怒鳴り声が聴こえてきた。
「ヘボ棋士! アキラ兄ちゃんがお前になんか負けるもんか!」
 その声と、紛れもない自分の名前にぎょっとしたアキラは、出所を探して目を走らせる。
 アキラが少し離れたブースに視線を向けた時に見えたのは、金色の前髪を持つ少年が椅子から派手に立ち上がって駆け出し、その少年を赤毛の青年が怒鳴りながら追いかけていく背中だった。
 走って追いかけようかと身構えたアキラだったが、二人の足があまりに速く、あっという間に見えなくなってしまう。仕方なく、現場に呆然と残されていた眼鏡の青年に話を聞こうと足早に近寄っていった。
 そのブースを見下ろしてアキラはぎょっとした。
 眼鏡の青年が腰掛けている椅子の向かい、教室で使っている机を組み合わせて作ったテーブルの上に乗っているのは紛れもなく碁盤だったのだ。
 思わず先ほどの少年――ヒカルが走って逃げて行った方向を振り向いた。
 何故ヒカルがこのブースに? 疑問がアキラの心を逸らせる。
「あの、何かありましたか?」
 アキラが放心している眼鏡の青年に話しかけると、青年ははっとして顔を上げた。そしてアキラを見つけて目を丸くする。
「と、塔矢くん!」
「ヒカ……進藤が、何か問題でも?」
 危うく出そうになった幼い頃の呼び名をぐっと飲み込み、できるだけ落ち着いた声色で問いかけた。
 改めて見ると、この眼鏡の青年には見覚えがあった。確か、弱小囲碁部の部長を勤める筒井という男だ。
 プロであるアキラは部活動に加わることはなかったが、この学校の囲碁部がどの程度のレベルなのかの情報は簡単に仕入れていた。人数が少なく、棋力もいまいちとあってすぐに囲碁部の存在は記憶の隅に追いやられたのだが、何故囲碁部のブースにヒカルがいたのか、アキラは納得できる答えを用意することができなかった。
 筒井はアキラの登場に大いに動揺したが、アキラならば事態を理解できると踏んだのか、興奮を隠せない様子で説明を始めた。
「ここで、詰め碁の出題をしてたんだ。正解者には景品をあげることになっていて、そうしたら彼……前髪が金色の、進藤くん? がやって来て」
 アキラに確認するようにちらと上目遣いを見せた筒井が、話し始めた事の顛末はこうだった。



 囲碁部のブースに集まっていたのは年配の男性二人。彼らが筒井の出題した詰め碁にうんうん唸っていると、ふいに後ろから顔を突っ込んできたヒカルが「俺解けるよ」と言い出した。
 最初の一、二問を当てた程度では筒井もそれほど驚かなかった。囲碁を齧った子供なのだろう、そのくらいの気持ちで微笑ましく見守っていたが、ヒカルがもっと難しい問題を出せとせがむ。
 これが解けたら塔矢アキラクラスだ――その言葉に反応したのは、冷やかしでブースを覗いていた将棋部の加賀だった。
 塔矢アキラと聞いて目を輝かせたヒカルを、からかうように加賀が告げた言葉はこうだった。

『塔矢アキラなんて俺に負けた負け犬野郎だ――』


 そこまで聞いたアキラが眉を顰める。
 筒井はしまったと言うように口を押さえたが、すぐに無駄だと悟ったのだろう、今度は慌てたようにフォローを始めた。
「あのね、子供の頃の話らしいんだ。加賀は小さい頃囲碁教室に通っていたらしくて、その当時のことみたいだから塔矢くんは覚えてないと思うけど」
 筒井の慌てぶりがかえって癪に障ったが、子供の頃に囲碁教室に通った覚えはあったのでそれ以上追求はしなかった。
 それよりも、とずれた話の矛先を戻そうと、アキラは筒井に詰め寄る。
「それでどうして、進藤が彼と諍いを起こしたんだ」
「あ……、それは……」

 ――取り消せ! アキラ兄ちゃんが負けるはずないだろ!

 突如大声を出したヒカルに加賀は瞬きしたが、すぐに大口を開けて笑い出した。
『なんだよ、本当のことだぜ。まあガキの頃の話だけどな。この詰め碁が塔矢アキラクラス? 俺だってこれくらい簡単に解けるぜ』
 そう言って碁盤の上の一箇所に人差し指を突きたてた加賀は、ヒカルに向かって挑戦的に笑いかけた。
 加賀は威勢の良い下級生をからかって楽しむつもりだったのだろう――そう付け加えた筒井が、その後にヒカルが叫んだ言葉を繰り返した。

『俺と勝負しろ! 俺が勝ったら今の言葉、取り消せ!』


「勝負……?」
 繰り返したアキラは、改めて碁盤を見下ろして息を呑む。
 まさか、と顔を強張らせたアキラに気づいた筒井は、言いにくそうにぽつりと漏らした。
「その黒が……進藤くんだよ。白が、加賀」
「黒が……」
 目で追った黒石の軌跡は、素人がまぐれ当たりに打ったものなどではない。
 白の棋力もかなりのものであることが分かる。しかしその白を圧倒し、明らかに分かる実力の違いを盤上にしっかりと刻み込んでいる。
 なんて美しい棋譜だろう――思わず石の並びに見惚れたアキラが背中に寒いものを感じるほど。
 何よりも、この黒石を打ったのがヒカルだということが、アキラの目に瞬きを忘れさせた。
 ありえない、と音もなく呟いてから、アキラは筒井に向き直る。
「本当に……、本当に進藤がこれを? キミが加賀という生徒と打ったのではなく?」
「ボクはこんなに強くないよ。加賀だって、今は将棋部の部長をしてるけどボクなんかよりずっと碁が強いし。加賀がこんな負け方したの、初めて見たよ」
 困惑しながら言い返す筒井は、嘘を言っているようには見えなかった。
 アキラは何度も碁盤と、ヒカルが消えた方向を交互に見る。それから再び、ありえないと呟いた。
 ――この黒……プロ級だ。この見事な打ち回し、全て意識したものだとしたら……プロの中でもトップクラスの棋士に相当する……
 まさか、ヒカルが――つい先日話をした時の、幼さの残る笑顔を思い出したアキラは、信じ難い石の並びを見下ろして愕然と立ち尽くしていた。






いろんな話をごちゃ混ぜにしている感じです……
いつか加賀はもうちょっとメインで書いてみたいなあ。