キャンディ






 創立祭が終了し、学校に通常通りの空気が落ち着き始めた頃、アキラは昼の休み時間に隣のクラスを訪ねていた。
 加賀くんはいますか、とアキラが問いかけた生徒はぎょっとしていたが、恐々と「この時間はいつも屋上にいる」ということを教えてくれた。
 礼を告げたアキラは足早に屋上への道を急ぎ、入学以来一度も上がったことのない階段を一気に駆け上がって、普段より若干早い鼓動を胸に抱えて扉に手をかけた。


 屋上は静かだった。
 幸い晴天で、青い空と爽やかな風が屋内で鈍っていた身体を覚醒させてくれるような気がした。
 扉を開けてすぐの位置では人の姿は見当たらず、アキラはきょろきょろと首を動かしながら加賀の姿を探す。ぐるりと出入り口の裏側に回ったところで、アキラははっと足を止めた。
 制服が汚れるのが気にならないのか、コンクリートの床に仰向けに寝そべっている加賀がいた。
 頭の上で組んだ腕を枕に、傍らには昼食だったのだろうパンの袋とペットボトル。動く気配がないのは眠っているからだろうか……アキラは声をかけるのを一瞬躊躇ったが、ここまで探しに来たのだからと意を決して加賀に近づいていった。
「加賀くん」
 大きく広げられていた加賀の肘がぴくりと動く。
 ゆっくりと顔の向きを変え、仁王立ちしたアキラを見上げた加賀が不審げに眉を寄せる。
「……なんだよ。プロ棋士様が何か用か」
「キミに、聞きたいことがあるんだ」
 加賀の顔がますます渋く歪んだ。
 加賀は腕を解くと、ひょいっと身体を起こしてあぐらをかき、改めてアキラを見上げた。
「聞きたいことだって?」
「ああ。……この前の創立祭での囲碁部のブース。あそこで、キミと……進藤ヒカルが打った一局について」
 加賀の目がすっと細くなった。
 不思議な眼力のある加賀の迫力に、アキラも微かに眉間に皺を寄せながら応戦する。
 まるで喧嘩を売りに来たようなアキラの態度を前に、加賀は軽く首を捻って立ち上がった。
 アキラが加賀と会話をしたのはそれが初めてだった。
 しかし年中問題行動を起こして教師に追い掛け回されている割に成績がトップクラス、県大会優勝の実績を持つ将棋部の部長ということもあって、学内ではちょっとした有名人であり、アキラも顔と名前くらいは何となく記憶していた。
 突然声をかけてきたアキラに訝しげな視線を向けつつも、加賀はアキラを屋上から理科室に案内してくれた。何故理科室なのか――その謎はすぐに解けた。
「囲碁部、部室が割り当てられてねえからここで活動してんだ。碁盤はここにしかねえからな」
 そう言って、勝手知ったるとばかりに加賀は理科室の戸棚から碁盤を取り出す。将棋部部長の手馴れた行動にアキラは若干戸惑ったが、すぐに筒井が「加賀は昔囲碁教室に通っていた」と言っていたことを思い出した。
 ひょっとしたら囲碁部の部員と交流があるのかもしれない――アキラの考えを見透かしたのか、加賀は皮肉めいた笑みを浮かべて碁盤をどんと机の上に上げる。
「昔ちょっと齧っててな。……お前とも、打ったことあるんだぜ」
「ああ……」
 筒井がそんなことも言っていた……残念ながらアキラには当時の記憶がほとんどなく、曖昧な返事を返すのみだったが、加賀はごまかされはしなかったらしい。
「ケッ、覚えちゃいねえか。ま、ガキの頃だしな」
 遠まわしに非難されているようで、アキラは気まずく口ごもった。
 しかし加賀は口調の通りにさばさばと碁笥を用意し、アキラが自分を覚えていないことなど気にした素振りも見せず、黒石を指に挟む。
「まあ、俺は確かに碁に関しちゃプロから見たら赤ん坊みてえなもんだろうが。それでもアマで段もらえるくらいの腕はあるんだ。だから素人相手にそう簡単に負けやしねえ。でも……」
 言葉を区切り、パシンと小気味良く初手を打った。
「『アイツ』は素人じゃねえぜ。この俺が手も足も出なかったんだからな」
 鋭い目でアキラを睨み、次々に石を並べていく加賀が創り出すあの日の棋譜を、アキラは固唾を呑んで見守った。




 ***




「アキラ兄ちゃ〜ん!」
 聴こえてきた軽快な声に、背中が無意識に強張った。
 振り返れば変わらない笑顔がそこにあり、アキラはそんなヒカルを苦い思いで見下ろす。
 すぐに返事をしないアキラを不思議に思ったのか、ヒカルはあどけなく首を傾げた。
「兄ちゃん帰るんだろ? 途中まで一緒に帰ろ」
「……」
「アキラ兄ちゃん?」
「……、ああ……」
 ぎこちなく頷くと、ヒカルは楽しげにアキラの隣に並んだ。
 まだランドセルのほうが似合いそうな背中が弾んでいる様子が、余計にアキラの中の疑問を深めて行った。
 昼休みに加賀が並べた一局は、確かにあの日アキラが愕然と見下ろした碁盤の上の石の並びと同じだった。
 しかし初手から並べてもらうことで、アキラは新たな戦慄を覚えることになった。黒石の打ち手がいかに洗練された打ち筋で、白を美しく導いていったのかを。
 囲碁を始めて数年程度の人間ができる芸当ではなかった。それどころか、もしもこの黒が全力で戦いに挑んだら一体どれほどの強さなのだろうかと――アキラの指が疼くほどに、抑え込まれた未知数の力が棋譜から漂っていた。
 アキラを動揺させたのは、その黒を打ったのがヒカルだということだ。
 幼い頃のヒカルは囲碁に全く興味を示さなかった。今もそんな素振りは見られないというのに、いつ囲碁を覚えたのだろう。
 いや、あれだけの腕があるのなら、どこかで名前を聞いてもおかしくはない。進藤ヒカル、という名前が噂されれば、アキラが存在に気づかないはずがなかった。
 そういえば、再会してからヒカルがアキラにまだ碁はやっているかと尋ねたことがあった。
 もしヒカルが自らも碁を打つのなら、あの時に「自分も囲碁をやる」と告げないものだろうか?
 ヒカルはそんなことは一言も言わなかった。
 それどころか、祖父のことを持ち出して、まるで自分自身は囲碁など興味がないとでも主張するように……
「アキラ兄ちゃん? 聞いてんのかよ」
 ふいに袖を引っ張られ、アキラはすっかり本物のヒカルの存在を忘れていたことに気がついた。
 慌てて顔を向けると、視線の先に子供っぽく頬を膨らませているヒカルが映る。
 ヒカルはアキラが囲碁のプロであることを知っている。もしもヒカルもまた碁を嗜むのだとしたら――今もこうして並んでいながら碁の話題に少しも触れないだなんて、そんなことあるだろうか。
 アキラはごくりと喉を鳴らし、慎重にヒカルの様子を伺いながら言葉を返した。
「……ごめん。少し疲れてて。……何の話だった?」
「だからあ、今度勉強教えてって話」
「勉強か……何の教科が不安なんだ?」
「英語と、数学と、地理と、生物と……」
 主要教科を網羅する勢いで次々挙げていくヒカルに苦笑しながら、アキラは平静を装ってさらりと告げた。
「いいよ、教えても。……囲碁も、教えようか?」
「え」
 ぴた、とヒカルのよく動いていた口が止まった。
 そして何故だか軽く背後を振り返ったヒカルは、明らかに戸惑いながらぼそぼそと答える。
「ご、碁はいいよ……」
「どうして? 碁なら、一番うまく教えられるよ」
「お、俺、じっとしてんのヤだし」
「……碁は好きじゃない?」
「う……うん」
 歯切れ悪く呟いたヒカルが、再びちらりと背後を振り返る。アキラも目だけでその向きを追ったが、ヒカルが気を取られるようなものは見当たらなかった。
 不必要に目を泳がせるヒカルの不審な様子に気づいていないフリをしながら、アキラは尚も畳み掛けた。
「……小さい時から碁石に興味さえ持たなかったな。おじいさんは囲碁を嗜まれるようだけど……一緒に打ったりはしなかったのか?」
 言葉を詰まらせながらヒカルが出した答えは、アキラがこの数日間で見聞きした情報とはまるきり違うものだった。
「う、打たねえよ、俺、碁、……分かんねえもん」




 帰宅したアキラは、自室に入ってすぐに碁盤を引っ張り出した。
 そして鞄を脇に置いたまま片付けもせず、昼に加賀が見せてくれた一局を並べ始めた。
 ――アイツ、進藤って言うのか? 口だけじゃねえぜ。かなりの棋力だ。
 加賀の言葉が頭に響く。彼の言う通り、この黒石は確かな強さを持っている。
 ――捕まえようと思ったら、逃げ足速くて見失っちまった。お前、アイツに会ったら言っとけよ、今度はハンデもらうぜってな――
 冗談めかして言っていたが、目には本気が含まれていた。
 加賀がかなりの腕の持ち主だということは棋譜を見ても分かる。プロには及ばないとは言え、努力すれば院生レベルに到達できるかもしれない。
 しかしその加賀とは比べ物にならないヒカルの打ち筋は、若手トップクラスと呼ばれるアキラにとっても脅威だった。
 これだけの碁を打っておきながら、碁が分からないだなんて馬鹿な――先ほどのヒカルの言葉を思い出し、口唇を噛む。
 何故、碁が打てることを隠しているのか? アキラにはその理由が分からなかった。
 分かったのは、ヒカルが意図的に碁の話題を避けているということだけだった。
 あの後、アキラの追及をうやむやにごまかして、逃げるように去っていったヒカル。その頼りない背中は「これ以上聞くな」とはっきり主張していて、アキラの胸にどうしようもない苛立ちが広がった。
 並べ終えた碁盤を見下ろし、厳しい顔で小さく息をつく。
 打ちたいと――純粋な欲求が湧き出て来た。
 この打ち手と対局したい。自分でさえ、すんなり勝てるかどうか分からないこの相手と。
 ただ、それがヒカルだというのがどうしても認めきれず、何かの間違いではないのかと頭を抱える。
 どうにかして確かめる方法はないものか――アキラは碁盤を睨みながら考えを巡らせた。






実際の加賀の棋力ってどんなもんなんでしょう……
……と思ってかなりぼかして書いてしまいました。