いつの間にかため息が癖になっていたらしい。 はあ、と大きく息をついた時、すぐ隣にいた兄弟子の緒方が随分と嬉しそうに話しかけてきた。 「なんだ、悩み事でもあるのか? 随分ため息の回数が多いみたいだが」 緒方の言葉で、アキラは研究会の最中に集中していなかった自分を恥じると共に、傍から見れば悩み事があるような様子だたっということに素直に驚いた。 「別に……悩んでいるわけでは」 「眉間にそこまで深い縦皺刻んで何も悩んでないのなら、お前の日常は普通の人間に比べて随分と気苦労が多そうだ。相談ならのってやるぞ、なんだ、恋の悩みか」 十以上も年が離れている緒方が、やけにウキウキと尋ねる様子にすっかり呆れたアキラは、そんなんじゃありませんとぶっきらぼうに言い返す。 二人のやり取りを碁盤の向こうで見ていたもう一人の兄弟子の芦原が、まあまあと横槍を入れた。 「アキラも学校とプロの両立で疲れてるんですよ。まあ、プロ活動のほうは順調だから卒業しちゃえば楽になるだろうけどね」 「順調だなんて……ボクはまだまだ」 「またまた、同期じゃ負け知らずだろ。同じくらいの年頃でお前と並ぶやつなんかいやしないんだから……あ、ひょっとしてそれが悩みなのか? 物足りない毎日に飽き飽き?」 フォローに加わってくれたはずの芦原が、緒方と同じようなきらきらした目をして身を乗り出してきた。 厄介な相手が増えた……とアキラが心底辟易し始めた時、緒方がなんだそれならとある情報を教えてくれた。 「俺がたまに顔を出す碁会所なんだが、今ちょっとした客が来ているらしい。お忍びで来日しているらしいんだが……お前も名前はよく知っていると思うぞ」 *** ――韓国のプロ棋士、高永夏―― 緒方にもらったメモを握り締め、アキラは複雑な思いを抱えて道を急いでいた。 悩んでいたというわけではない。ただ、気になって気になって仕方がなかったことが、ああいう形で表に出てしまっただけだ。 それを勘違いされ、偶然とは言え思いがけない情報を得ることができた。 緒方が時々訪れている碁会所に、あの高永夏が来ているのだという。 高永夏――韓国のプロ棋士だが、その名前は日本でも耳にすることが多い。 アキラよりひとつ年上の十六歳で、レベルの高い韓国棋戦で最年少記録を次々に塗り替え、国際大会でも必ず上位に名を連ねる。アキラも彼の棋譜を見たことがあるが、洗練された打ち筋には時に寒気を覚えるような美しさがあった。 未だ公式戦で手合いの機会はなかったが、いつか打ってみたい相手の一人だった。その高永夏が日本にいる。彼の知人が経営する碁会所に連日顔を出しているらしい。 突然訪れて対局を受けてもらえるかは分からないが、永夏と打てる数少ないチャンスを逃すわけにはいくまいと勢い込んでやって来た。世の中、どこにどんな情報が転がっているか分からないと実感しながら。 雑居ビルの三階を見上げ、いざ出陣とばかりにビル内に入っていったアキラは、到着した三階の碁会所のドアの前で異様な雰囲気を感じて立ち止まった。 ガラスの壁と自動ドアの向こうに、何やら人だかりができているのが見える。 あまり碁会所では見慣れない風景に驚いたが、すぐに思い当たってアキラは納得した。――永夏が打っているのかもしれない。 あの高永夏が対局となれば、ギャラリーが増えるのは当然だろう。相手は誰なのだろうか、その後ででも一局お相手願えないだろうか……そう思いながらアキラは自動ドアを潜り、受付に席料を支払って人だかりに近づいた時。 その中央で、信じられないものを見た。 人の頭の向こうにちらりと見えたのは、新聞記事で何度か目にした高永夏の姿。その向かいに座っているのは――年若い少年だった。金色の前髪の。 確かにヒカルの顔だと認めたアキラは、驚きに目と口を大きく開いた。しかしあまりのことに声は出なかった。口唇だけが、音もなくヒカル、と動く。 「いや、やるなあのちっちゃいの。何て厳しいとこに放りこんできやがるんだ」 「何者だ? あの高永夏があそこまで追い詰められるなんて。プロにあんな子いたか?」 ひそひそと囁きあう男性の声を耳にして、アキラは爪先立ちになりながら対局を覗き込もうとした。しかし小さな碁盤を囲む二人の周りに数十人は集まっていて、後から来たアキラが割り込む隙はない。 もどかしさに焦れながら人の頭の隙間を探していると、ふいにギャラリーがどよめいた。 ガタン、と椅子を乱暴に蹴ったような音が聴こえ、碁盤に群がるようだった人垣が突然割れた。そこから長身の男が肩を怒らせて現れる。 端正な横顔ですぐに高永夏だと分かった。しかし永夏は周りに意識を払うことなく、険しい表情で人の間をすり抜け、そのまま碁会所を出て行ってしまう。 唖然とその背中を見送ったアキラの耳に、少しの間を経て歓声が届いた。 振り向くと、人の輪の中でヒカルが照れ臭そうな苦笑いを見せていた。 「やるな、坊主! 院生かい。それともプロ?」 「名前何て言うんだ。あの高永夏に勝つなんてとんでもない子供だ」 年配の男性に次々質問され、戸惑ったヒカルは目を泳がせた。 そしてきょろきょろと動いた視線の先がアキラにぶつかり――ヒカルの顔が凍りつく。 絡み合った視線の何ともいえない気まずさが、周囲の雑音を掻き消したようだった。 ヒカル、と声をかけるより早く、ヒカルの小さな身体がバネのように椅子から跳ねて、囲んでいる大人たちを掻き分けて駆け出した。 「ヒカル!」 声をかけて一瞬身体をびくつかせながらも、ヒカルは振り向かずに逃亡する。逃亡――そう、明らかに逃げ出した。アキラから逃げ出したのだ。 追いかけよう、と足を踏み出しかけた途端、 「塔矢プロ? 塔矢アキラプロじゃないですか!」 ギャラリーの視線がヒカルからアキラに矛先を変えた。 しまった、と僅かに怯んだのが悪かった。ヒカルを追いかけるタイミングを失ったアキラは、目を輝かせて話しかけてくる囲碁ファンにぎこちない笑顔を向けなければならなかった。 *** いよいよ、問い詰めねばなるまい―― 決意したアキラは端的な行動を取った。悶々と悩むよりは動いたほうが余程楽だったせいもある。とにかく、創立祭での一件に加えて碁会所でヒカルが打っていたのは間違いないのだから。 放課後の教室で恐らくクラスメートと談笑し、その笑顔のまま廊下に飛び出したヒカルは固まった。 ドアの傍の壁に背中を預け、腕組みしてじっとヒカルが出てくるのを待っていたアキラが立っていた。 「うわ〜ほんとに変わってねえ……懐かしい〜」 門の前、玄関の中、廊下と、同じような台詞を呟き続けているヒカルは、この気まずい空気をごまかす意図もあったのだろう。 どこか上ずった声には隠しようのない焦りがにじみ出ている。それを全て理解しつつ、アキラは黙ってヒカルを先導した。 話がある、家に来いと告げた時のヒカルの動揺は哀れなほどだった。あれほど家に遊びに来たがっていたというのに、嬉しがる素振りも不自然で、アキラの迫力に圧されて仕方なく頷いたといった調子だった。 ここまでの道のりで、ヒカルはずっと凍てつく空気を溶かそうと何かしら話しかけて来たのだが、アキラは無言のまま足早に先を急いだ。 アキラの頭の中には棋譜が巡っていた。 ヒカルが加賀と打ったという一局。そして、碁会所で見た高永夏との一局。 碁会所でヒカルを捕まえ損なったアキラは、開き直ってその場にいた客にヒカルと永夏の対局の再現をお願いしたのだ。一から並べてもらったその展開は、アキラの背中に冷たい汗をかかせるに充分な内容だった。 あの永夏の鋭い読みを最後の最後でかわした見事な罠……見開いた目に映っているものが真実なのか、にわかには信じ難い絶妙な攻めに言葉を失った。 そして、あの碁を打ったのはヒカルだ。今度はアキラも確かにその現場を見た。 もう言い逃れはさせない――アキラは自室にヒカルを案内した。 |
永夏の無駄遣いをしてしまった……
ヒカルちゃん、と呼ぶのは思いとどまったようです。