どこか怯えたような顔で、ヒカルは戸口に立ち尽くす。 それから一度後ろを振り返った。前にもヒカルのそんな仕草を見たことがあったアキラは、訝しげに同じ方向に顔を向けるが――やはり空しかない。 「突っ立っていないで、入れ。荷物はそこに置いて」 ややきつい口調で命令すると、ヒカルは眉を垂らしてアキラに従った。アキラは静かに襖を閉め、自らも荷物を置き、そして部屋の隅に佇む碁盤を睨む。 「ボクが何を言いたいかは分かってるだろう?」 「……」 ヒカルは軽く口唇を尖らせて黙る。 「この前、キミはボクに嘘をついた。囲碁なんか分からないと……確かにキミはそう言ったな」 「……」 「しかし、あの碁会所にいたのは確かにキミだ。打っていた相手は高永夏……世界的にも有名な韓国のトップ棋士だ。あの高永夏相手に接戦の末、キミは勝った」 「だ、だって、アイツがバカにしたから……!」 我慢しきれずといった様子で声を上げたヒカルを、アキラは細めた目で見下ろした。 ヒカルは肩を竦め、上目遣いにアキラの顔色を伺っている。 「バカにした? キミを?」 「う……、うん……」 「何故? きっかけがあるだろう?」 「う……、え……と」 「バカにされたことに腹を立てて対局したというのは、ボクが尋ねていることの理由にはならない。ボクが聞きたいのは、何故キミが碁を打つということをボクに黙っていたか――それだけだ」 「……ごめんなさい」 言い返す言葉も浮かばなかったのか、ヒカルは小さく謝った。その謝罪が、アキラの熱を引き起こす。 何故謝罪なのか――思わず怒鳴りつけて問い詰めてしまいそうだった勢いをぐっと押し殺し、アキラは碁盤を持ち出した。二人の間にどんと据えた碁盤に手を置いたまま、萎縮しているヒカルをじっと睨む。 「……キミの腕はプロ級だ。ボクと、打ってもらおうか」 「……アキラ兄ちゃん」 「打って……見極めさせてもらう」 何故ヒカルが囲碁のことを自分に黙っていたのか。 アキラの中ではひとつの答えが導かれつつあったのだが、それを認める前にどうしても自分の力で確かめたかった。 ヒカルは戸惑いに眉を揺らし、再び背後を振り返った。何かぼそぼそと口を動かし、ふいにむっと口唇を尖らせたと思うと、意を決した様子でアキラに向き直る。 「……分かった。打つ……俺が」 アキラは鋭い視線でヒカルの宣言に応えた。 アキラが握った白石は偶数、ヒカルが転がした黒石の数はひとつ。 アキラの先番で始まった対局は、前半は実に早い展開で碁盤に石が広がっていくことになった。 しかしアキラの顔色は優れない。ヒカルが白石をまだ未発達の指先で打つたびに、眉間の皺が深くなる。 左辺に形ができつつある頃、ついにアキラは堪えていた怒りを爆発させた。 「……ふざけるなっ……!」 突然声を荒げたアキラに、大きく肩を揺らしたヒカルが驚いて目を丸くする。 アキラは余裕のなさを隠そうともせず、ヒカルが打った石を指して怒鳴った。 「なんだこの手ぬるい構えは! 永夏と打った時はこんなもんじゃなかっただろう……! キミは、ボクを馬鹿にしているのかっ……!」 その言葉を叫んだ瞬間、ヒカルの表情がはっきり強張った。 怒鳴られたことへの恐怖ではない。怯えの顔ではなかった。強い哀しみで凍りついたヒカルの瞳に薄っすら水面が波打ち出す。 しかしアキラには様子のおかしいヒカルを思いやる余裕はなかった。永夏とあれだけの碁を打っていたヒカルが、自分相手に手を抜いている――マイナスに傾いた思考は、アキラを完全に盲目にさせていた。 「ボク相手では本気で打つまでもないということか!? ボクが永夏に劣ると……!? ふざけるな!」 ヒカルがぎゅっと口唇を噛む。潤んだ瞳からは今にも涙が零れ落ちそうだったが、そうなるより前に学生服の袖がぐいと顔を拭った。 そして、じっと碁盤を睨んで何事か考える素振りを見せた。沈黙はそれほど長くはかからなかった。 「――分かったよ。本当に、打つよ」 そう言い放ったヒカルの表情は、どこか諦めたような寂しい色が漂っていた。 「……ありません」 押し殺した声は、項垂れた頭に遮られてすぐ向かいの相手に届いたかどうかも分からない。 アキラは膝の上で握り締めていた拳を更に硬くした。浮き出た筋が白く、拳は震えていた。 ぎこちない、どう気遣おうか躊躇っている雰囲気を感じ、アキラは堪えきれずに吐き捨てた。 「……、帰ってくれ……」 動揺したヒカルの気配が伝わる。 「……アキラ兄ちゃ……」 「帰ってくれ!」 呼びかけを遮ったアキラは、髪を揺らしてヒカルに背を向けた。硬く丸めた背中でヒカルを拒絶した。 身体を刺すような沈黙がしばし続いた後、ゆっくりと人の動く微かな音が聴こえてくる。 畳に置いたリュックサックを拾い上げたヒカルが、そっと襖に手をかけたようだった。 「……ごめん……」 掠れて消えてしまいそうな謝罪を残して、ヒカルの足音が遠ざかっていく。 一人になった部屋で、アキラは強張っていた表情を誰に隠すこともなくぐしゃりと歪めた。 畳に手をつき、爪を立てる。 「……ッ!」 ぐっと歯を食い縛っても、情けない嗚咽が漏れてしまいそうだった。 ――本気で、打つ―― そう告げた後、ヒカルの碁が一変した。 アキラが憤るほど拙く単純だった攻めの姿勢が、僅かな隙を突いて強引に内側へ入り込んでくる蛇のような動きに変わった。 脆い部分を次々に崩される。反撃しようにも前半の穴が嘘のように、どっしり構えた砦は守りが堅く、絶対的な安定感は最後まで揺らがなかった。 圧倒的な強さを感じて絶望――それだけならばここまで痛みに打ちひしがれたりしない。 アキラが強く衝撃を受けたのは、ヒカルがこれほどの腕を持ちながら、アキラと打つのを躊躇っていたことだった。 そして、最初のあの落ち着きのない打ち筋……手を抜かれたのだと、思わない理由がどこにあるだろう。 ヒカルはアキラの力を見くびっていた。そして、全力で打つまでもないと判断した――永夏との対局ほど価値がないと見限られていたのだ。 だからこそ、アキラがプロであると知りながら碁が打てるということをごまかした。 実力の差に、アキラが落ち込むことを危惧したのかもしれない。 同情された――その事実を今目の前で証明された気がして、アキラは惨めさにしばらく動くことができなかった。 止まっていた時間が動き出したのは、遠くから聴こえて来た電子的な音がきっかけだった。 ぼんやりとうつろな目を宙に向けていたアキラは、その音が電話であるとすぐに理解することができなかった。やがて鳴り止まない音が家の人間を呼んでいるためだと気づくと、どうにも全身が重たくて仕方がなかったのだが、のろのろと腰を上げる。 見渡せば辺りはすっかり暗く、明かりもつけずカーテンも閉めていないアキラの部屋は気分同様にどんよりと闇を纏っていた。 一体どのくらいああして一人で腐っていたのだろう……ヒカルとの対局から軽く数時間は経過しただろう景色の変化をぼんやり眺めながら、しつこいくらいに鳴り続ける電話の元まで歩いてきた。 受話器を手に取り、塔矢です、と答える。 耳に届いた声は馴染みがなかったが、アキラの頭を醒ますには充分な自己紹介だった。 『もしもし、進藤ヒカルの母親ですが』 息を呑んだアキラは、思わずおばさん、と呟いた。小さな囁きが聞こえたのか、ヒカルの母親が声のトーンを上げる。 『ひょっとしてアキラくん? 覚えてるかしら、お久しぶりね』 「あ……、ご、ご無沙汰しています」 『すっかり大人っぽい声になったのね。お父さんかと思ったわ。遅い時間にごめんなさいね』 ヒカルの母の謝罪を受けて、アキラは改めて腕の時計を見た。時刻はすでに午後十一時―― 一体こんな時間に何の用だろうと、驚きながらも相槌を打って受け答えをしていたが、次いでヒカルの母が告げた言葉に目を見開いた。 『実はね、ヒカルがまだ家に戻ってないの。アキラくん、あの子のこと知らないかしら……』 |
ヒカルのお母さんは塔矢さんちの電話番号を十年保管していたようですよ。
塔矢邸は黒電話が似合いますなあ。