キャンディ






 ――アキラくんが同じ学校にいたって、あの子それは大喜びしていたのよ――

 ヒカルの母の声を頭に残したまま、アキラは息を切らして駆け回っていた。
 心当たりがあるわけではない。十年逢わなかった幼馴染だ、空白の時間にお互い知らない経験をたくさん積んだだろう。
 しかし家でじっとしていることができず、闇雲に走り回ることをアキラは選択した。

 ――帰って来たらアキラくんの話ばっかりなの。今度遊びに行くんだ、なんて言ってたから、ひょっとしたらお邪魔しているんじゃないかと思って……――

 ヒカルがアキラの家を出てから六時間近く経過している。ついこの前まで小学生だった彼が、真夜中と言われる時間になるまで外をうろついているだなんて、何か良からぬことが起こったのではと焦りは強くなるばかり。
 まさか、事件にでも巻き込まれたのだとしたら――最悪の想像がアキラに冷や汗を掻かせた。
 ボクのせいだ、と自然と口唇が呟いていた。
 ヒカルがまだまだ子供であることは、再会してからしばらく見守ってきた中で充分理解していたはずだった。
 そのヒカルに、一方的に怒りをぶつけて一人で落ち込んでいたのはアキラだ。
 ヒカルなりに考えて出した答えが、アキラと碁を打たないという選択だったのだろう。それをあんなふうに責める権利はアキラにはなかった。自分のことばかり考えて、十年ぶりに家に招いたヒカルに何の気遣いも見せず、自分勝手に憤って追い返したりして……
 もしもヒカルに何かあったら、自分は一生悔やんでも悔やみきれない――爆発しそうな心臓にも構わず、アキラは自宅からヒカルの家までの道のりを走り続ける。
 無事でいますようにと、何度も何度も胸の中で祈りを捧げて。




 そこに立ち寄ったのは偶然だった。
 日頃運動らしい運動もしていないため、走り続けることに体力の限界を感じ、水でもあればと思って入り込んだ公園。
 もうすぐ日付も変わる時刻に人がいるはずもないと思い込んでいた、その場所から声が聴こえて来た。
 訝しげに公園の奥に目を凝らしたアキラは、小さな身体が何か叫びながら走っているのを視界に捕らえた。
 限界を感じて立ち止まっていたはずの足が、スイッチを切り替えられたかのように跳ねた。全速力で駆け出したアキラは、先に声をかける余裕もなく、よろよろと走るヒカルに背後から追いついて乱暴に腕を掴んでいた。
 ぎょっとして振り返ったヒカルは、相手がアキラだと分かると、驚きの顔を見る見る崩す。
 掴んだ腕が痛いのかと慌ててアキラが手を緩めたが、どうやらそうではなかったらしい。ヒカルはアキラの胸に飛び込んで、意味不明なことを喚きだした。
「アキラ兄ちゃん! 佐為が……佐為が消えちゃった……!」
 泣きじゃくりながら叫んだヒカルの言葉が理解できず、アキラは瞬きしながらヒカルの肩に手を置く。
「さ……い?」
「佐為が消えちゃったんだよお! 俺が、俺が酷いこと言ったからだ……! お前なんか消えちまえって言ったからだ! うわあああ!」
 ヒカルを宥めるには時間がかかった。
 こんな時間まで出歩いていたことを叱る前に、無事であったことを喜ぶ前に、アキラは根気強くヒカルに付き合って、それはそれは不思議な話を聞かなければならなかった。





 一年ほど前、ヒカルに宿った魂は、それはそれは囲碁が大好きな平安時代の幽霊だった――

「アイツ、ムチャクチャ強かったんだ。俺は最初そんなの分かんねえから、適当にアイツの言った通りに打ってたんだけど……」
 佐為に付き合って碁を打つうちに、ヒカルもその面白さに引き込まれていった。率先して囲碁を学ぶようになり、週間碁なども自ら揃えてアキラの活躍を知ったのだという。
 周りに碁を打てる人間はほとんどいないため、遠出して碁会所に出向くようになった。まだヒカル自身は人と打つにはレベルが低く、専ら佐為の言う通りに打たせて遊ばせてやるためだったが、佐為は誰かと対局ができることを心から喜んでいた。
「アイツが打ちたいって言うから、いろんなとこ連れてって打たせてやったんだ。家に帰ったら俺と打って。佐為は強かったから一回も勝てなかったけど、楽しかった」
 ぼんやりとした目で語るヒカルの隣で、アキラは目を白黒させながら眉を寄せる。
 すんなり信じるにはあまりに突拍子もない話だが、ヒカルの純粋な瞳は嘘をついているように見えない。
 とりあえずは話を合わせてみるべきかと、アキラはヒカルの反応を気にしながら尋ねてみた。
「それなら、何故……ボクに囲碁が打てることを隠していたんだ?」
「……だって……俺、まだ弱いんだもん……」
 ヒカルの眉尻が下がる。
 軽く下口唇を突き出したヒカルがぐじぐじと言い訳めいたことを呟き、それを要約するとどうやらこういうことのようだった。
 アキラはプロとして第一線で活躍している。そのアキラと打つには実力が伴わなければ相手にしてもらえない。今よりもっと強くなったら、自分からお願いして打ってもらおう――
 呆然と目を開いたアキラは、じゃあ、と呟いた。
 ヒカルが頷く。
「さっきの対局……最初は、俺だよ。俺、ホントはアキラ兄ちゃんと打ってみたかったんだ……」
 アキラは口を押さえる。あまりに遅すぎることは分かっていたが、後悔せざるを得なかった。
『キミは、ボクを馬鹿にしているのかっ……!』
 自らの言葉がどれだけヒカルを傷つけたのか、想像するのも躊躇うほどだ。アキラが何と取り繕うべきか言葉を探していると、ヒカルの表情がぐしゃと崩れる。
 アキラの暴言に対する反応かと思ったが、そうではなかった。
「俺……、俺、あの後佐為に酷いこと言っちまったんだ……」

 ――バカ! なんであんな酷い勝ち方すんだよ! お前のせいでアキラ兄ちゃん怒っちまったじゃねえか!

 アキラとの雰囲気が悪くなったことを全て佐為のせいにして、とことん詰った。窘めようとする佐為の言葉もろくに聞かなかった。
 怒りに任せて、消えてしまえと怒鳴ってから――ヒカルは佐為の姿を見失ってしまったのだ。
「お、俺のせいだ……、アイツ、まだ神の一手を極めてないって言ってたのに……、俺が、アイツを消しちゃった……」
「……ヒカル……」
「いろんなとこ探したのに、どこにもいない……。こんなこと今までなかった。ずっと、ずっと俺の傍にいたのに……」
 そうして肩を揺らしてぼろぼろと涙を零すヒカルに、アキラはそっと手を伸ばす。
 背中に触れてやると、暖かさが布越しに伝わって気が緩んだのか、喉を激しく鳴らしてしゃくりあげ始めた。苦しそうな様子を見ていられなくて、小さな身体を引き寄せると、アキラの腕の中でヒカルはわんわんと泣き出した。
「本気じゃなかったんだ……! 本当に消えちゃうなんて、思ってなかったんだ……! ごめん佐為、ごめん……」
 もう、気配が感じられないのだ――泣きじゃくるヒカルの背中を優しく撫でながら、アキラは夜空を見上げて目を細めた。
 信じられなくても、信じよう、と思った。
 小さな頃から、粗野で乱暴ではあったが、ヒカルは優しく素直な子だった。間違っても、泣き顔を人に晒しながら嘘をつけるほど器用な少年ではなかった。
 今はヒカルの気が済むまで泣かせてやろう。そう決意して、アキラは静かにヒカルを抱き締め続けた。






ヒカル視点がないので物凄い急展開ですな。
佐為には日頃からアキラ兄ちゃん自慢をしていたと思われます。