CHANGES






 ヒカルの身体が傍目にも分かりやすく強張る。
 アキラは怯まない意志を見せつけるように、ヒカルのベッド脇にしゃがんで肩膝を突いた。
「キミは言ったな。『saiは消えてしまった』と……。消えたとはどういうことだ? キミはあの理科室で何を探していた……?」
「……っ」
 ヒカルは身体ごとアキラに背中を向けて、その肩を怒らせる。はっきり拒否を示す仕草に、それでもアキラはめげなかった。
「言ってくれ、進藤。キミは父のせいでsaiが消えたと言った。ひょっとして、それがボクを嫌っていたことと関係あるのか?」
 ヒカルの首ががくりと折れ、深く俯いたために顎の先が肩の向こうに隠れてしまう。そのまま呟いたヒカルの声は酷く遠くに聞こえた。
「……お前は信じやしねえって、言ったろ。どうせ、俺のくだらない妄想だって……」
「聞いてみなければ分からない。……いや、今なら何を聞いても信じられる気がする。キミの驚異的な力を見た今なら」
 ヒカルが僅かに首を回して肩越しに目を向けたようだった。
「絶対に否定しない。だから、話してくれないか。キミが何故、あんなに一生懸命になっていたのか……」
 ヒカルを説きながら、アキラはこれまで見てきた様々なヒカルの顔を克明に思い出していた。
 理由も分からずアキラを嫌悪していたヒカル。
 ひょんなことから夏目の相談を聞き、幽霊と聞いたとたんに顔色を変えたヒカル。
 必死で幽霊を探し続け、夜中まで理科室にいたヒカル。
 探しに来たアキラを誰かと間違えて、「sai」と呼んだヒカル……
 そして、あの棋力。
『saiは俺の師匠だ!』
 師匠だと言ったsaiに対し、「消えた」という曖昧な表現を使ったのは何故か?
 「いなくなった」でも「死んだ」でもない、「消えた」。生きている人間に使う表現としてはあまりに不自然ではないだろうか?
 ネット上でしかその存在が確認できなかったsai。
(まさか……「sai」というのは……)
 ヒカルの反応をじっと待っているアキラの前で、しばらく躊躇う素振りを見せていたヒカルだったが、やがて顔はまだアキラから背けたままにぼそぼそと口を開き始めた。
「佐為は……碁盤に宿った幽霊だったんだ……」




 平安時代に帝の囲碁指南役を仰せつかっていたという佐為。
 汚名を着せられ、志半ばで自ら命を絶ってしまった。
 しかしもっと碁を打ちたいという魂の叫びが、佐為をこの世に留まらせた。
 そうして千年の時を越え、ヒカルの祖父が持つ碁盤を介してヒカルと出会うことになった――
「佐為は、とにかく碁が好きで、いつも碁を打ちたがってた。俺は碁なんて全然興味なかったから……最初はよく分からなくて、佐為に強請られるまま碁会所でおっさんたちと打ってたんだけど、そのうち天才少年だって騒がれるようになっちまって……」
 佐為はとにかく強かった。少し腕に覚えがある、そんな程度の相手では話にならないほど。
 ヒカルは言われるままに石を置いて勝ち続け、やがてどこの碁会所へ行っても「とんでもない棋力の持ち主」と一目置かれるようになってしまった。
 騒がれるのはマズイからと、今度は仕方なくヒカルが囲碁を覚えることにした。佐為の相手役になってやろうと思ったのだ。
 佐為と差し向かいで囲碁を打つ毎日。佐為の教えでぐんぐんヒカルは力をつけ、また囲碁の面白さも知り始めた。まだまだ相手にならないとはいえ、佐為と互い戦で打つようにもなってきた。
「そんな頃、ネットで碁が打てるって知ったんだ。それなら、佐為の正体もばれないし、騒がれなくて済むって思って……」
 ネットでの碁は佐為を酷く喜ばせた。佐為はどんな相手とでも打った。実に楽しそうに、佐為の代わりにマウスを握るヒカルにも丁寧に状況を説明しながら、ネットの中の強豪たちを次々に倒していった。
「ある時期から、すげえ強いってヤツがネット碁に出始めた。「toyakoyo」……お前の親父だよ」
「……!」
「テレビで何度か対局を見たことがあったから、その強さは俺も知ってた。佐為がすげえ興奮して、是非打ちたいって対局を挑んで……でもお前の親父は……」
 行洋が提示した対局条件は、持ち時間なしで佐為が先番。素早く対局を終わらせたい、初めから佐為を相手にしていないものと同然の提案に、佐為が納得をしなかった。
『そんなついでのような対局を望んでいる訳ではない。私が勝利した時に、条件の不利を理由に言い訳されるような対局など――』
 佐為の言葉をそのままチャットで伝えたヒカルは、信じがたい行洋からの返答を目にした。
『私が負けると思っているのかね? よろしい、もしも私が負けたら棋士を引退しよう。それだけの覚悟を持って対局に挑んでいることを証明する』
 そうして持ち時間五時間、先番塔矢行洋で奇跡の対局がスタートした。
「結果は……お前も知ってんだろ。佐為の中押し勝ち。すげえ一局だった。でも、あの日から、急に佐為の様子がおかしくなったんだ……」
 いつも笑顔だった綺麗な顔を曇らせて、口数も減っていった。しかしヒカルは異変に気付きながらも重要視せず、佐為の訴えに耳を貸さなかった。
「そしたら、アイツ……ある日突然、消えちゃったんだ。探してもどこにもいなかった。今まで一緒にいたのが夢だったみたいに……消えちまったんだよ……」
 そう告げて肩を落とすヒカルを前に、アキラは思わず「何故……?」と呟いていた。ヒカルはきっとアキラを振り返り、
「俺が……俺が知りてえよ! でも、あの対局が原因なのは間違いねえんだ! あれから佐為はおかしくなった……!」
「そんな……」
 アキラは絶句する。
 たった今聞いたにわかには信じ難い話に対してか、それとも父との対局でsaiが消えたと断言するヒカルの言葉に対してか。
「キミは……それで、ボクを嫌っていたのか……? ボクが塔矢行洋の息子だから……?」
 再び涙が込み上げてきたのか、ヒカルは腕で顔を拭って吐き捨てる。
「佐為を消したヤツの息子だ。お前の顔見るたび、親父のこと思い出して……悔しかった……」
 ヒカルはそうして膝を立て、その間に顔を埋めてしまった。
 アキラは言葉を失って、目の前で小さく肩を震わせるヒカルを呆然と眺めていることしかできなかった。
 声をかけるのを躊躇ったまま時間は過ぎ、やがて寮中に響く起床のチャイムに顔を上げるまで、二人の気まずい時は流れ続けた。





 夜中に起こされてから一睡もしていないのだから眠いはずなのに、今日は不思議と授業中に居眠りする気分にならない――ヒカルは無意味に広げた教科書を睨みながら、夜の出来事を思い出して顔を顰めた。
 ――なんで話しちゃったんだろう。
 どうせ誰にも信用されないのだからと、自分だけの胸にしまっておこうと思っていた佐為の存在。それを、あの憎たらしい行洋の息子であるアキラに……幽霊の存在をあれだけ馬鹿にしてたアキラに話してしまうなんて。
(アイツ、俺のこと馬鹿なヤツって思ったかな……)
 面と向かって佐為のことを否定はしなかったけれど、明らかに戸惑った顔をしていた。
(きっと、俺の妄想だって思ってるんだ……)
 あの後もアキラは何も言って来なかった。
 ヒカルはぎゅっと口唇を噛む。
 呆れられたに違いない。いるはずもない幽霊を想って、泣いているところまで見られてしまった。
 妄想の産物が消えてしまったことをアキラの父のせいにして、逆恨みもいいところだと辟易しているのだろう。
(……逆恨み……)
 ヒカルは無造作に手にしていたシャープペンシルをぎゅっと握り締め、机にペン先が触れてぽきんと芯が折れた。

 アキラにひとつ嘘をついた。
 本当は、あの対局のせいで佐為がおかしくなったのではない。
 あの対局の後――ヒカルがある一手について佐為に追求したその時から、佐為の顔色が明らかに変わったのだ。




 ***




 ホームルームが終わり、にわかに騒がしくなった教室の中、アキラは後方のドアからヒカルが素早く出て行くのを見た。
 声をかける間もなかった。もっとも、アキラとヒカルの座席は離れているから無理のないことかもしれない。
 今からでも追いかければ間に合うかも、と身を乗り出しかけて、追いかける目的が無いことに気づく。
 もう事件は解決したのだから、今までと変わらない生活に戻るだけなのだ。
 今まで通りの、仲の悪い同室者……
(でも、嫌われている理由が分かったのに?)
 アキラは口唇を噛み、鞄を手に教室を出た。
 そして、寮へは向かわずに真っ直ぐ理科室へと歩き始めた。
 理科室の扉の前に立ったアキラの耳に、パチンパチンと碁石を打つ音が聞こえてくる。
 その音に思わず身が竦み、緩く開いていた右手の指が疼いて、アキラは堪えるようにぎゅっと拳を作った。
 それから軽く扉をノックし、静かに開いた理科室の中では、夏目と例の新入生二人が碁盤を囲んでいた。ノックの音に顔を上げた三人の目がアキラに集中し、アキラはぎこちなく作り笑いを見せる。
「塔矢くん? どうしたの?」
 夏目が立ち上がってアキラに近寄ってきた。
 アキラは曖昧に笑い、夏目越しに教室の中を見渡して、この三人以外に誰の姿もないことに落胆した。
 夏目もアキラの視線に気づいたのか、軽く後ろを振り返って、首を傾げる。
 アキラは躊躇いつつも、何気なさを装って尋ねた。
「その……、進藤は、今日は来ていない?」
「進藤くん? うん、今日はずっと来ていないけど……」
「そ、そう。それならいいんだ、じゃあ……」
「あ、塔矢くん!」
 逃げるように背を向けようとしたアキラを呼び止めた夏目は、気まずげに振り返ったアキラに笑顔を見せた。
「もし、進藤くんに会ったら……このまま囲碁部に入部しないかって聞いてみてくれないかな」
「進藤に……?」
「この前、随分碁盤とか熱心に見てたから。興味があるのかなって……」
 この前とはアキラが先に寮へ戻ったあの日のことだろう。
 無理もない、とアキラは理科室でのヒカルとの対局を思い出した。
 あれだけ打てる人間が、碁石に触れずに高校生活を過ごしていたのだ。碁盤を見て、身体が疼くのは仕方がないだろう。
 アキラだってそれは同じだった。
 ずっと触れていなかった碁石を打つたびに、懐かしい感動がびりびりと身体中を刺激していった。その上相手は相当の腕前だ。心が昂らないはずもなく――
 そこでアキラははたと気づいた。
 ヒカルは何故高校で囲碁をやっていなかったのだろう?
 放課後に数々の部活に顔を出している噂は聞こえても、囲碁を嗜むという話は一度も耳にしたことがない。だからこそ、囲碁部に入ったというヒカルの言葉にクラスメートたちがあそこまで大騒ぎしたのだ。
 しかしsaiから教えを受けたという棋力は本物だった。アキラとの対局も、まるで水を得た魚のように活き活きと石を打っていたではないか。
(……意図的に封印していたのか?)
 その理由は?
(……)
 アキラは口内の肉を緩く噛み締め、目を細める。
 もしかしたら、自分たちは……思いのほか似たもの同士だったのかもしれない――
「……くん? 塔矢くん」
 自分を呼ぶ声にはっと我に返ると、夏目が心配そうな顔でアキラを見上げていた。
「塔矢くん? 大丈夫?」
「あ……、ああ、わ、分かった、伝えておくよ」
 アキラは取ってつけたような笑顔を浮かべ、それじゃあと身を翻した。
「塔矢くん! 塔矢くんも、もし良かったら……囲碁、やってみない?」
 夏目の躊躇いがちな声に言葉を詰まらせたアキラは、振り返って申し訳なさそうな笑みだけを見せ、答えずに理科室を離れた。
 その後、いくつかの体育系部活動を覗いてみたが、ヒカルの姿はどこにも見当たらなかった。






ああなんだか強引な展開が自分でこっ恥ずかしいです……!
君達いい加減に寝ないと倒れるよ……