CHANGES






 寮の談話室で時間を潰していたヒカルは、いよいよ部屋に戻らなければならない時間を迎えて重い溜め息をついた。
 誰かと会話を交わすことが億劫で、一人でいられる場所はないものかと寮のあらゆる場所を転々としていたが、いまいち身の置き場が定まらないままタイムリミット。部屋に戻ればアキラがいる。
 こういう時寮は不便だ――ぶつぶつ呟きながら、部屋への道のりをのろのろと辿る。
 顔を合わせるのは気が重かった。ここ数日のアキラとの目まぐるしいやりとりが、昨日の夜でピークを迎えてしまったようだった。
 やはり話さなければ良かったと、今日一日ずっと後悔し続けている。
 話したって、信じてくれるはずがない。
 佐為が幽霊だったなんて……
(でも、佐為は確かにいたんだ……。俺の碁が何よりの証拠なんだから……)
 囲碁のいの字も知らなかったヒカルが、ここまで力をつけたのは偏えに佐為のおかげだった。
 その囲碁も、佐為が消えてしまってからは打たなくなってもうすぐ二年になろうとしていたが……
(……アイツとの対局、楽しかったな……)
 久しぶりの一局は、瞬きの一瞬さえ気を抜けないスピード勝負だった。
 考える間もなく指が導かれるままに石を打ち、創り出される黒と白の道筋はそれでいて意外なほどに美しくて、対局とはこんなにも面白いものなのかと胸がときめいた。
 あの一局のせいで、丸一日以上経った今でも指がなんだか痺れているような気がしている。この指に石を挟みたい――眠っていたはずのそんな欲求がざわざわと心の中で揺れているのだ。
 アキラは強かった。天才棋士という噂は誇張ではなかったようだ。親の七光りで名前ばかりが先に出たのだろうとアキラを甘く見ていたヒカルは、あの一局で完全に考えを改めなければならなかった。
 勝ちたかったのに、勝てなかったことが悔しくない。そんな自分が不可解で、また少し気持ちが重くなる。
 佐為の代わりに勝ってやろうと思っていたのに……
(――そういえば)
 ヒカルは立ち止まる。
 アキラの棋力はホンモノで、高校に上がるまではそれなりに棋界のニュースでも存在を取り上げられていた。
 そのアキラが、何故今囲碁と関わらずに普通の高校生活を送っているのだろう。
 いつプロ試験を受けても合格すると言われた腕を持ちながら、何故――?
 ヒカルは顔を上げた。
 目の前には自分と、そしてアキラの部屋のドアがあった。


 ドアの隙間から滑り込むようにして部屋に入ってきたヒカルは、真直ぐにベッドへ向かった。
 アキラは待ち構えるようにドアを向いて椅子に座り待機していたのだが、ヒカルの素早い行動に声をかけるタイミングを失った。
 進藤、と呼ぶよりも早く、ベッドに飛び込んだヒカルは今日も毛布を頭から被ってしまう。
 アキラは立ち上がろうとして腰を浮かせた中途半端な格好のまま、ヒカルが潜ってしまったベッドを呆然と眺めていた。
 先手を取られてしまったと、小さく舌打ちをする。アキラはその後もヒカルのベッドを見つめながら声をかけるべきか迷っていたようだったが、やがて溜め息ひとつ、部屋の電気を消して自分のベッドに素直に潜って言った。






 ***






 ――ヒカル


 ――ヒカル……


 ――私はもうじき……


 ――消えてしまうんです――




 佐為。

 佐為、ごめんな。

 お前の声、ちゃんと聞いてやれなくて……

 ごめんな……






「……どう」

(佐為……)

「……しんどう」

(さ……い)

「進藤――」

(……?)


 佐為とは明らかに違う声が耳に混じって、ヒカルは徐々に意識が現実に引き戻されていった。
 佐為ではない、けれど同じように優しくて、低い響きがなんだか心地よい。
 薄らと瞼を開こうとして、睫毛に絡まった水滴がそれを邪魔していることに気付いた。
 ヒカルは無意識に腕を毛布から引き抜いて、ぐいと目を擦る。クリアになった視界の先は未だ闇だったけれど、誰かが覗き込んでいる輪郭ははっきりと見えた。
「進藤……」
 名前を囁かれ、ヒカルは瞬きする。
 この声――アキラ。
 そこでようやくはっとして、自分の置かれている状況におおよその見当をつけることができた。
(俺……また……)
 目元に溜まった涙がしっかり物語っている。昨夜同様佐為の夢を見て、泣き声でアキラを起こしてしまったのだ。
 ヒカルは身体を起こして、もう一度目をぐいぐいと袖で擦った。情けなさに再び涙が滲みそうになるのを堪えて、暗がりの中でヒカルの様子を伺っているアキラにちらと目を向ける。
 大分闇に慣れた目は、真面目な顔でヒカルを見ているアキラの表情を読み取った。
 意外にも呆れや揶揄といった調子が見られないその顔に、ヒカルのほうが戸惑ってしまう。
「あ……、ご、ごめん。起こした?」
「いや……」
「な、なんか変な夢見てさ。うるさかったんだろ?」
「……進藤」
 ふいに低い声で囁かれ、ヒカルは微かに身体を強張らせた。
「キミは――何故、今まで碁を打たなかった?」
「……!」
 まるで脈絡のない質問にヒカルは息を飲んだ。アキラが冗談まがいにそんなことを尋ねたのではないことは、声色ですぐに分かる。
 何と返答したものか困っていると、アキラはなおも補足するように続けた。
「キミは……、ひょっとして、saiが消えてからずっと囲碁から離れていたんじゃないのか?」
 その言葉にヒカルは目を見開き、暗闇でアキラを凝視した。
「……、な……んで」
 ヒカルはそれだけ言うと、次の言葉が出てこないのか口を開いたまま呆然とアキラを眺める。
 アキラはヒカルの様子で自分の推測が間違っていないことを確信したのか、乗り出していた身体を一度起こしてベッドの縁に腰掛け、伺いを立てるように静かな声でヒカルに囁いた。
「昨日、キミはボクにsaiのことを話してくれたな。……よければ、ボクにも少し話をさせてもらえないだろうか」
「話……?」
「ボクとキミは……、なんだか、とても似ているような気がしたんだ……」
 アキラはそう言って軽く振り返り、ヒカルの返事を待っているようだった。
 ヒカルは何と答えたものか困惑し、それどころかアキラの言葉の意味を噛み砕くだけでも精一杯だった。そんなヒカルの戸惑いが伝わったのかは分からないが、拒否の声がないことを了承と受け取ったのだろう、アキラはぽつぽつと話し始めた。
「ボクは……父を、棋士としてとても尊敬していた。父はボクの目標だった……」



 小さい頃から父である行洋の教えを受け、囲碁の道に精進することを純粋な夢としてアキラは育った。
 アキラにとって行洋の存在はアキラが囲碁を打つ理由そのものだった。父のようになりたい――五冠という名前が一人歩きすることなく、常に向上心を持って碁盤に挑む父の姿は一人息子に大きな誇りを抱かせていた。
 アキラの成長は目覚しく、その力は父から誉められるたびにぐんと伸びた。棋力に差がありすぎるという理由で子供向けの大会に出ることは許されず、父の研究会にやってくる大人たちに混じって打つ日々。それはアキラにとっては良い経験になったのだが、同時に僅かな物寂しさも感じさせた。
 一緒に打つのは自分よりも力が上のプロやプロの卵ばかりで、それも皆年上。同じくらいの年齢の子供に、アキラと同等の力を持つ子はいないだろう――門下生たちにそう持て囃されながらも、その事実が少し物足りなくなっていたのだ。
 このままプロになってしまっても、自分はすぐに行き詰まってしまうのではないだろうか?
 目標を父とする以上、常に前を目指して走りつづけなければあの背中には追いつけない。もう少し自分の力を見極めた上で、プロとして打っていく基盤を整えたほうが良いのではないだろうか……
 周囲は早い段階でのプロ入りを勧めたが、アキラは受験を見送りつづけた。そのことについて父が何も言わなかったのは、アキラが父に追いつくための準備に励んでいることを理解してくれているからでは――アキラはそんな期待を胸に、いつか父と公式戦で……日本棋院の幽玄の間で、プロとして向かい合う日を夢見ていた。
「そんな頃……父が心臓を患って、倒れてね。知ってる?」
「あ……、ああ、すげえニュースになってたから」
「そう。命に別状はなかったが、大事をとってしばらく入院することになったんだ。手持ち無沙汰だった父にボクの兄弟子がパソコンを持って来てね。ネット碁を、教えたんだよ」
 行洋はマウスより碁石を触るほうが良いと苦笑していたが、それでも暇な時間に碁を打てることは喜ばしかったようで、病室で頻繁にネット碁を打つようになった。
 名前を「toyakoyo」で登録していたものだから、本物か偽者かと対局希望者がひっきりなしに対局を申し込んでくる。まさに退屈しない日々の中、行洋はある相手からの対局を受けた。
「sai……その頃、無敵の棋士としてネット上で話題になっていた。ボクもその話は知っていた」
「あ……」
「しかし父はsaiの存在を訝しがってもいた。プロではない、しかしアマチュアとは思えない力を持ちながら、素性が知れないsaiの意図は何だろうと」
「そ、そんな、……佐為は、ただ打ちたかっただけなんだ」
「……父は、すぐにその考えには至らなかったんだよ。だから、様子を見ようというのが本音だったんだろうと思う」
 持ち時間なし、先番はsaiに。しかしその条件を突っぱねたのはsaiだった。
 行洋はsaiの望む通り、天下に名を轟かせる塔矢行洋として真摯に打ち合った。結果は半目――半目の差を見切った行洋が中押し負けを宣言し、奇跡の一局は幕を下ろした。
 その後だった。突然、行洋が引退を表明したのだ。
「ショックだったよ。碁が衰えているわけでもない、体調も順調に回復していたのに、何故今引退なのかと――」


 ――お父さん、何故です!?
 唐突な引退宣言が納得できなかったアキラは、口数の少ない父に食って掛かった。
 まだ引退するには早すぎる。他にもタイトルはあり、全制覇とまでは行かなくとも、行洋ならば五冠以上を狙えるのではと期待の声は高まるばかりだった時期に、何故引退なのかと。
 何よりも、父との公式戦での対局はアキラの夢だったのだ。父が何も言わずにアキラを見守ってくれていたのは、アキラがプロとして対峙するその時を待っていたからではなかったのか……アキラの落胆は凄まじかった。
 父の引退を理解しない息子に、行洋は穏やかな、しかしきっぱりと芯のある声で諭した。
『アキラ。この身さえあればいつでも本気の碁は打てる。碁が、打てなくなるわけではないのだ……』
 若いアキラには父の言葉を心から解することができなかった。
『お父さんがどうしても棋士を引退するとおっしゃるなら、……ボクはもうプロを目指さない! 囲碁など辞めます!』
 アキラの最後の切り札も、行洋の決意を翻すことはできなかった。






うひょっ率先して自分語り始めてしまった!
ヒカルが聞こうとしないならでは自らってさすが若!
(強引な展開を勝手にアキラさんのせいに……)